朝鮮時代の食べ物の思い出 小林正恵 (『くるくるしんぶん』 101号 昭和57年9月24日)
(小林正恵さんは夫の母で、「思い出すこと」の小林昇の妻、つまり私の義母です。明るくていい方でした。北朝鮮、徳源の神学校の教師となった夫について北朝鮮で暮らし、夫が出征中だった終戦時には、ひとりで3人の男の子を連れ、苦労して日本に帰国しました。苦労した話より食べ物の思い出を書き残してくれたのはいかにもお義母さんらしいです。まいぱん)
昭和十六、七年徳源の神学校の舎宅にいた頃でした。或日学校から帰った主人が出してくれたソーセージを少し厚めに切ってスープにいれましたら、すっかり溶けてしまいまいした。後でそれは血を固めて作ったサラミと教わったことでした。
昭和二十一年の終りに家を出て九日程歩いて、開城の一時収容所に着き、その翌日京城へ移された時、そこの収容所は本願寺派の寺院でした。そこで出たおにぎりはとうもろこしの実がそのまま炊き込んであったのが今でも忘れられません。その時炊き出しをしてくれた大釜はお骨を洗ったお釜だと、したり顔に教える人がいて、幾らかそれを信じる気持がその時自分の心の裡にありました。今考えると荒唐無稽な話を信じる気持になって余計引揚者のオドオドした心理に輪をかけたことでした。
朝鮮では毎年秋になるとキムチを漬け込みました。先ず白菜の買い出しにニーヤンといった支那の人の畑に出掛けます。朝鮮の農法とはちがって広い池のようなところに肥料をまき、すっかり風化させた黒い土状のものが良い白菜を作るとかいうことでした。
それから元山の「トンコリ」の市場にキムチ用の唐辛子粉や松の実、えびの塩漬け等求めに行きます。自家製の鰯の塩漬けもなくてはならないものでした。
白菜は、一度岩塩をタライに溶いてそれにどっぷり漬け、翌日水洗いしておきます。中に入れる具は鰯のすり身ににんにくや唐辛子をまぜておいて、それを白菜の間々に挟み、最後は丸くボールのようにしたり、二つ割りにして間に入れたのを二つに折ってまとめたのをかめに詰込みます。そこへ鰯を煮て覚ました煮汁を注ぎ込んだのち、貯えるのです。貯蔵庫のない我家では藁でかこった裏庭に半ば土の中に埋めて凍るのを防いでおきました。零下五、六度、ひどい時は十度にもなる北鮮のこと故かめの上の方はいつも凍っていました。熱いオンドル部屋の中、辛い唐辛子で体も温まり、魚の煮汁の臭味が消え、平気でおいしく食べられました。
引き上げ後内地で作ってみた時はにんにくが臭くてだんだんにやめてしまいました。朝鮮ではいかを入れたり、北の方では豚の脂身をいれたりして作るともききました。お金持程薬味に高価な松の実等ぜいたくに使って何十ものかめを仕込むと聞きました。たかが漬物としてでなく生野菜の乏しい冬におかずとしても大事なものだったのでしょう。
お義母さんがいらしたらNHKの「あちこちのすずさん」に投稿していただきたいと思いました。