ある日の昼休みに木挽町から通っていた二、三人が同じ町内の炭屋の子で落第生だった子のお弁当箱に午飯が半分しか入っていないとからかって、先生から叱られたと放課後になって聞きました。わたしはからかった子が憎らしく、何とかやっつけてやろうと思いましたが、その機会はないまま過ぎてしまいました。その頃昼休みには、わたしは家まで二、三分で戻れるので家で食事をするのが常でしたから、炭屋の子がからかわれているのを見なかったのでした。家が貧しくてお弁当を充分にもたせられなかったという話は聞いたこともなかったので、今でも半信半疑です。
昼の休み時間には鬼ごっこなどして元気に駆けずり廻ったのでしょうが、よく相撲や馬跳びもしました。ある時、砂場に設けられていた竹のぼりで頂上まで上ると竹の棒をはずされたので飛び降りて、皆をびっくりさせました。わたしの家の並びにある柏原洋紙店の倉庫がわたし達の遊び場になっていて、そこに馬車で洋紙を運ぶ時に用(つか)った藁を何枚も重ねてしいた處があって、そこへ飛び降りてあそんでいたので、高い處からとびおりるのは慣れていて平気でした。
アメリカの連続映画「名金」(西部劇)をまねた、隠したものを探すのが、校内で流行ったことがあったと思いますが、これは暫くの間でした。なかには投げ縄を校庭で練習する生徒が出て来ましたが、ほとんど興味を持たれませんでした。
六年生の頃には組の中に詰襟(つめえり)の洋服を着て来る生徒が数名いたようでしたが、わたしは洋服に特別惹かれることもありませんでした。蓮ちゃんが小学校時代の思い出話をした時に、わたしの羽織の裏に物入れ(ポケット)が附いていたのがうらやましかったといわれ、その物入れは姉が附けてくれたのを思い出しました。羽織にポケットを附けるのはその頃から起こったのかもしれません。蓮ちゃんは初めて洋服を着て学校に来た時の気持を話してくれましたが、中川尚君と洋服屋の鈴木君とがきていたのを覚えていました。洋服屋の子どもはともあれ、洋服は良家の坊ちゃんの着るもののようでした。蓮ちゃんは箪笥屋さんの息子でその家は京橋に近い金六町にあって、箪笥などの陳列場がある立派な三階建でした。蓮ちゃんの家の女中さんがわたしを金太郎さんのようだといっていました。
(第45号1980年9月29日)
中川君の家に組の二、三人と呼ばれて行ったことがありました。銀座裏の静かな町並みにある洋風の建物で、表札に東京弁護士会会長中川儀大夫(?)とあったと思います。中川君の部屋に通され、その玩具にびっくりしました。部屋一杯に円く敷かれたレールの上で機関車を走らせたのでした。この機関車がゼンマイ仕掛であったかどうか覚えていませんが、その玩具に圧倒されたことは確かでした。しかしわたしにはこうした玩具より、この家で自分の周辺にない世界を感じたようでした。わたしの友達は商家が多かったので、そうした家では感じられない違ったものがあったのでした。中川君は震災後には銀座裏には戻らないまま消息が分からずに過ぎました。
いつも組の中を明るくする人気者に、そば屋の貞(さだ)ちゃんがいました。体操の時間に紅白に分かれた帽子取りの競技で、負けたのに勝った組をやじってやめないので、わたしは負けたのだからおとなしくしたらといいかえすと、ハイ勝ちました、ハイ負けましたでは面白くないよ、いわれてなるほどと感心して何もいえなくなりました。わたしは後になってもこのことを思い出して、遊び―競技を含めて―の面白さがわからないことのないように気をつけました。
小学校を卒業するときに、担任の先生が組の二十名ほどを特別に指導してくださったので、圀ちゃんの家で感謝の会が開かれました。父兄の代表の医師が「孝経」の首章を書き、それを表装したのを持ってこられ、その條幅にわたし達がそれぞれ筆で姓名を書き入れて先生に差し上げました。自分の名を上手に書けなかったので覚えているのですが、あの頃の父兄がたてまえとして抱いた教育思想がこのことによって分かると思います。(第47号1980年10月8日)
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