まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

思い出すこと 4 三鷹のおじい (小林昇)

2020年05月27日 | 「くるくるしんぶん」から

わたしが八丁堀の貸本屋を利用するようになったのも健ちゃんにいわれたからに違いありません。馬琴の「八犬伝」を借りて、発端の部分を読んだのをぼんやり覚えていますが、その文章について行けず途中で止めてしまいました。立川文庫などもかなり読んだはずです。小学校を卒業してからは、家にわたしを惹きつける書物がなかったので、京橋図書館を利用して読書に励む方向に進みました。京橋図書館は小学校の雨天体操場を用って、学校の授業が終わってから開かれましたが、やがて小学校の正面に独立した建物ができ、震災で焼失して現在の場所に建てられました。

健ちゃんが子ども向けの、ガリ版刷で半紙四分の一の形の雑誌を発行したのは、いつのことか忘れましたが、読者がふえて百部以上刷ったと思います。ところがそれを止(や)めることになり、わたしは健ちゃんに勧められて、中学一年の終り頃に「青い塔」という題名で雑誌を発行することになりました。神田駅近くの堀井という店から謄写版の道具一式を買ってきて、一回に三十~四十部ぐらい刷ったと思います。一冊の頁数は忘れましたが、徳ちゃんが表紙の絵を画いてくれ、わたしはディッケンズの「クリスマス・カロル」を翻訳して載せた思い出が残っています。しかし三号雑誌の名のとおり、じきに止めました。わたしの手におえないしごとであったのでした。大正七年の「赤い鳥」に始まり、つづいて「金の船」(改題して「金の星」)「童話」と新しい児童文学の運動が進展してきた頃にあたり、この運動の余波がわたし達にも及んだものと思います。

(第29号1980年7月29日)

 

 健ちゃんにつながる糸をもう一つ辿ると、京橋図書館のホールで秋岡梧郎館長の求めに応じて小学校時代の仲間の協力で子供会を開きましたが、それは大学時代のことでした。しかしこの子供会は永く続きませんでした。

 今から考えると、健ちゃんの周辺に子どもが大勢集まったのは、健ちゃんが子どもを大人に成るものとして教えこむというより、子どもには子どもの世界があるとみとめていたので、そこにわたし達は惹かれたのでしょう。忘れてしまっていることが多いなかで、そのいくらかが記憶に残っているわけです。

 人間の気質について多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つがあると説明されたことがありました。この話は十分にわからなかったのですが、わたしが胆汁質だといわれたことは、いつまでも頭にこびりつきました。もっともこの気質説は現在の心理学では誤りとされていますが、子どもにとって指導的な人からいわれたことは強い影響力を持つものと思わずにいられません。

戦後に健ちゃんが玩具(おもちゃ)屋さんになったと徳ちゃんから聞いた時は、ほんとうに嬉しく感じました。(第30号1980年8月5日)

 

わたしが小学校に入学した頃は第一次世界大戦が始まっており、パリで講和条約が締結されたのは四年生の時でした。大戦については先生方から絶えず話を聞いたでしょうが、わたし達の間では特別に関心はなかったと思います。ただドイツが潜水艇で各国の商戦を無差別に撃ち沈めたので、アメリカが連合国側について参戦したということが図画の平岡先生の熱のこもった話で印象に残り、大戦後のアメリかを視察旅行した笹野校長先生の報告を聞いたりして、大統領ウィルソンの名をはっきり覚えました。戦争の惨(むご)さについては、直接に感ずることが少なく、戦争は勇ましいものと思っていたでしょう。しかし尼港事件は暗澹とした衝撃を受けました。

 わたしには戦争の嫌な思い出に「成金」という言葉があります。あの頃には小学校に剣道の道具がかなりあって、それを用(つか)って放課後に稽古していましたが、六年生になった時、同じ組の圀(くに)ちゃんが剣道の道具を買い揃えたと聞いて、わたしは先生のいる処で、圀ちゃんの家は成金だからといったのでした。すると先生が笑ったので、わたしはハッとしました。家でも成金という言葉は聞いていたので、それが口に出たのでしょうが、圀ちゃんのお父さんは銀座の老舗の番頭さんで、戦争中に急に金持ちになったわけではないのです。先生から日本でつくられてセンチに送られた食料品の罐詰に石がつまっていて、それでもうけた者がいる、というような話を聞かされましたが、こんな事は実際にはなかったにしても、成金というのは戦争でにわかにお金持ちになったという嫌な語感を持った言葉でした。その言葉を不用意に口にしたので先生に笑われたと思うと、自分が軽はずみに感じられ、ひどく恥ずかしくなりました。わたし達は大人ぶったわけではないのですが、同盟とか談判とかいう言葉も無暗に用(つか)ったようでしたが、これも戦争中の世相を語るものかもしれません。(第42号1980年9月16日)

 

 ところで先生方が倹約ということをいうのに敗れたドイツの現状の苦しさをよく引合に出しました。一本の鉛筆でも短くなったのも用(つか)うように奨めたのでしたが、その鉛筆についてわたし達の間ではドイツ製が一番良いと信じられていました。手近な鉛筆一本にも何となく舶来品が良いと思っていたようでした。

 今と違って小学生の英語塾があるわけでなく、英語を勉強しなさいと奨められることなど聞きもしませんでしたが、組の半数近くはローマ字綴りを知っていて、それで文章も書きました。学校で教わらなくても、どこの町内にも餓鬼大将に当たるのがいて、新知識を得るとそれを弘めるのに勤めたので、新知識はすぐに広がったと思います。健ちゃんだって餓鬼大将といえないことはありません。暫くまえ久しぶりに健ちゃんのお誕生祝いとお見舞いを兼ねて、徳ちゃんと一緒にお目にかかりました。「くるくる新聞」のことを話しているうちに、エスペラント語はどうしたといわれて、この言語を健ちゃんに教えられたのを思い出しましたが、一瞬、先生に不勉強を指摘された生徒の気持ちに似たものを感じました。この造作(つく)られた国際補助語の意味などの議論はともあれ、その文法は規則的で例外がなく、品詞を示す語尾のつけかえが一定していることなど、思い出しました。わが国にもエスペラント運動が起こって来た頃に健ちゃんのような運動家がいたのかと改めて思い出しました。このエスペラント運動が国家思想に反する危険な思想として扱われるようになったのは、昭和に入ってからでしょうか。

 学校では子供会がよく開かれ、わたし達の唱歌や劇がすむと、お伽話の口演がありました。有名な巌谷小波、久留島武彦、岸辺福雄の諸先生のも開かれました。しかしこの諸先生より、わたしは図画の平岡先生の絵話が好きでした。それは今の紙芝居の前身と思います。絵話は模造紙に絵が画かれ、その一枚一枚をめくっていき、人や動物を画面に嵌(は)めたり外したりして、話を進めることもあって、終わりになるのが惜しいくらいでした。イソップの物語なども絵話のおかげで知ったのがありました。

 どの先生でしたか、僂(せむし)の子が皆の笑いものになる話をしたことがありましたが、二、三日後に相木先生という女の先生が、生徒の中に瘻の子がひとりいたので、その子がかわいそうだったと話されたのにわたしはつよい感動をうけました。

 子供会といえば四年生の頃と思いますが、わたしの組がきゅうり、なす、かぼちゃ、人参などの野菜の一つ一つを実物を持って説明する番組を出すことになり、わたしは白瓜をすることになりました。家に帰ってから母に話して、白瓜を一個(ひとつ)子供会の日に準備してほしいと頼みました。すると母に牛蒡(ごぼう)にすればよいのにといわれました。このことがあった少しまえに先生が授業中にわたしが学校中で一番黒いが、しかし白い部分がある、どこだかわかるかと皆にきかれましたが、誰も応える者はなかったので、先生は足の裏の土踏まずだといって組中の笑いをまき起こしたことがありました。しかしこのことがわたしには白瓜と別に結ばれなかったのでしたが、母からいわれたことでは、うけた感じがあまりに違うので変に思ったことがありました。今でも自分のうけた気持ちの違いをうまく説明つきかねています。

(第43号1980年9月22日)

 

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