山口市香山町にある瑠璃光寺(るりこうじ)内にある国宝の五重塔を拝見しました。軒(のき)の出が大きく、軒反りの曲線が美しいことで有名な五重塔です。背後の森の中の楓などが紅葉しています。高さ31.2メートルと背が高く、秋の青空に映えました。
手前に錦鯉が泳ぐ大きな池があり、五重塔が水面に映ります。その横には、「満月の庭」と呼ばれる小さな白い石を円錐状に積み、その上部表面を平らにして積んだものが設けてあります。京都の銀閣寺と同じように粋な仕掛けです。
瑠璃光寺の入り口側にある枕流亭は、今年のヒーローとなった坂本龍馬縁(ゆかり)の建物だったことを今回初めて知りました。やはり、明治維新をリードした長州藩だけに、山口市は歴史の舞台をいくつも持っていると感心しました。
枕流亭は、1876年9月に坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通の二人と、長州藩の木戸孝允が薩長同盟(さっちょうどうめい)を結ぶ密約を交わす密会をした建物の一つがです。もちろん、この後も密談を重ねて薩長同盟が結ばれたようです。さすがに山口市は長州藩時代の歴史の舞台をいくつも持っていると感心しました。
五重塔は室町時代の1442年(嘉吉2年)に、当時この地を治めていた大内氏の大内盛見が建立しました。兄の大内義弘が現在の堺市で戦死したことへの菩提(ぼだい)を弔うためです。建築様式は和様式に唐様式を組み込んだものです。全長は31.2メートルとかなりの高さです。塔の最上部に立つ相輪(そうりん)は8.15メートルもあり、全長の約1/4を占めています。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、近くに寄って見上げると、塔のあちこちがかなり痛んでいます。
実際には、1661年(万治4年)から合計5回も修理され、大正時代にも1回修理されています。
瑠璃光寺内に立つ五重塔は数奇な歴史を持っています。この瑠璃光寺がある場所には以前は香積寺が立っていました。このため、五重塔は香積寺の敷地内に建てられました。毛利家が1604年に萩市に香積寺を移築した際に、当時の地域の住民が五重塔は移築しないように懇願し、この地に残りました。その後、安養寺がこの地に移され、1492年(文明3年)に瑠璃光寺と改名しました。現在の正式な名称は、曹洞宗保寧山瑠璃光寺といいます。
山口県の県庁や議会上も、明治時代の雰囲気を残した建物です。維新公園などの名称もあり、明治維新の歴史の重みを強く感じる山口市でした。
手前に錦鯉が泳ぐ大きな池があり、五重塔が水面に映ります。その横には、「満月の庭」と呼ばれる小さな白い石を円錐状に積み、その上部表面を平らにして積んだものが設けてあります。京都の銀閣寺と同じように粋な仕掛けです。
瑠璃光寺の入り口側にある枕流亭は、今年のヒーローとなった坂本龍馬縁(ゆかり)の建物だったことを今回初めて知りました。やはり、明治維新をリードした長州藩だけに、山口市は歴史の舞台をいくつも持っていると感心しました。
枕流亭は、1876年9月に坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通の二人と、長州藩の木戸孝允が薩長同盟(さっちょうどうめい)を結ぶ密約を交わす密会をした建物の一つがです。もちろん、この後も密談を重ねて薩長同盟が結ばれたようです。さすがに山口市は長州藩時代の歴史の舞台をいくつも持っていると感心しました。
五重塔は室町時代の1442年(嘉吉2年)に、当時この地を治めていた大内氏の大内盛見が建立しました。兄の大内義弘が現在の堺市で戦死したことへの菩提(ぼだい)を弔うためです。建築様式は和様式に唐様式を組み込んだものです。全長は31.2メートルとかなりの高さです。塔の最上部に立つ相輪(そうりん)は8.15メートルもあり、全長の約1/4を占めています。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、近くに寄って見上げると、塔のあちこちがかなり痛んでいます。
実際には、1661年(万治4年)から合計5回も修理され、大正時代にも1回修理されています。
瑠璃光寺内に立つ五重塔は数奇な歴史を持っています。この瑠璃光寺がある場所には以前は香積寺が立っていました。このため、五重塔は香積寺の敷地内に建てられました。毛利家が1604年に萩市に香積寺を移築した際に、当時の地域の住民が五重塔は移築しないように懇願し、この地に残りました。その後、安養寺がこの地に移され、1492年(文明3年)に瑠璃光寺と改名しました。現在の正式な名称は、曹洞宗保寧山瑠璃光寺といいます。
山口県の県庁や議会上も、明治時代の雰囲気を残した建物です。維新公園などの名称もあり、明治維新の歴史の重みを強く感じる山口市でした。