ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

近江商人発祥の地の一つになった近江八幡の八幡堀を歩きました

2011年04月22日 | 旅行
 “近江商人”の発祥の地となった滋賀県近江八幡市に残る「八幡堀」を散策しました。八幡堀は5月になると、ハナショウブ(花菖蒲)が咲き、水辺の風情を高めるそうです。このため、近江八幡は「水の里」と呼ばれています。

 八幡堀はちょうど、ソメイヨシノ(染井吉野)の花の桜吹雪が舞う時期でした。





 八幡堀の両側には、川面近くに歩道が設けられ、観光客が散策しています。



 本来は、地元の方が洗い場などに活用するために、川面近くに寄る場所だったようです。現在は、八幡堀の両側に観光客目当てのお土産屋や食事処がいくつか並んでいます。有名なお菓子屋には観光客がどんどん入っていきます

 八幡堀は、現在は観光客を集める観光資源として活用されています。時々、観光客を乗せた屋形船が通ります。

 この八幡堀は本来は、琵琶湖と八幡城下町を結ぶ海運のための運河として設けられた点が特徴です。琵琶湖に近い近江八幡に八幡堀を運河として設けたのは豊臣秀次です。豊臣秀吉の姉の長男として生まれ、後に秀吉の養子になり、関白職を引き継いだ人物です。後に、秀吉に子供の秀頼が誕生した経緯などから、秀次は謀反の疑いをかけられ、最後は自害させられます。

 この豊臣秀次が八幡城下に商人が集まる城下町を築くために、まず八幡堀という運河をつくり、海運の基盤を築きます。この近江八幡の城下町は、織田信長が本拠地として構えた安土城が近くにあります。織田信長が死去し、秀吉の天下になり、秀次が近江八幡城を担当します。この時に、秀次は信長の「楽市楽座」という市場開放策を継承します。新進気鋭の商人を城下に集め、活力を高めるためだったと思います。そのための物流手段が八幡堀を用いた海運でした。

 この結果、いわゆる近江商人が育ち、日本全国に商圏を広げていきます。近江八幡は“近江商人”発祥の地の一つだそうです。近江商人が活躍し始め、商人町が拡大していきます。現在も、商人町の面影が残っている個所がいくつかあります。



 商人町の旧商家の説明文によると、「江戸や大坂に支店を出す商店がいくつかあった」とのことでした。そして、ここで育った近江商人は、江戸や大阪ばかりでなく、北海道との交易を進め、最後は“安南”(ベトナム)や“シャム”(タイ)などまで商圏を広げほど、活躍したとのことでした。

 ほとんど予備知識無しで立ち寄った近江八幡市の八幡堀でしたが、予想以上に歴史の蓄積がある地区でした。戦国時代から徳川時代までに繰り広げられた歴史の重みを感じさせる街並みです。

 八幡堀は、琵琶湖と西の湖を結ぶ運河です。西の湖はラムサール条約に登録された湿地です。西の湖までの水路は水郷として知られています。観光屋形船によって水郷を楽しむことができるそうです。いずれ、水郷巡りによって、「近江の春の行方をおしみたい」と思いました。

 今回は、小説家の司馬遼太郎の気分をほんの少しだけ味わうことができた気になった散策でした。