ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

秩父市郊外にある古民家を売り物にした蕎麦屋に行きました

2011年04月25日 | グルメ
 埼玉県秩父市の郊外にある農家の古民家を利用している蕎麦屋に行きました。秩父市の街中の混雑を避けるために、国道140号の裏道になる県道を抜けました。荒川を挟んで対岸を通る県道を行くと、寺尾という場所で「本格手打そば 本家 原」という案内を見かけました。以前にも、一度寄ったことがある蕎麦屋でしたが、その時は残念ながら休業していました。

 県道から脇道に入って少し進むと、農家の立派なつくりの長屋門のところに「本格手打そば 本家 原」の看板が掛かっていて、その周りに乗用車が何台も駐車しています。

 お店は明治初め(1870年ごろ)に養蚕住宅として新築されましたものでした。約140年前の古い民家の居間と応接間をお店に利用しています。養蚕のために暖房用にたいた囲炉裏(いろり)の煙によって、太い梁(はり)や天井がが黒光りしています。お店の方は「あめ色」と表現しています。





 お店の中は満席でした。ご近所の方も来てるようで、挨拶しています。

 お品書きは「もりそば」「ざるそば」を基本としています。今回は「天もりそば 」と「合鴨せいろそば 」を注文しました。





 鴨肉、山菜、野菜などが入った具だくさんの温かい付け汁で食べる、合鴨せいろそばの方が田舎風のそばの美味を引き出していると感じました。

 この“本家 原”は屋号で、名字は小池さんという方です。何と、戦国時代に甲斐武田家が織田・徳川連合軍に敗退し、それから約100年後の1681年に山梨県と埼玉県の県境にある雁坂峠を越して、秩父にたどりついたそうです。その後は、養蚕を基本とする農家を本業にされたとのことでした。明治初期に養蚕住宅として新築した民家をもとに、2010年6月に蕎麦屋を開業したのだそうです。そば打ちの職人の方は20年以上、修行した方だそうです。

 秩父地方は雁坂峠を通して甲斐(山梨)や信州につながっています。明治17年(1884年)に秩父地方の数万の農民が“困民党”を結成して武装蜂起した秩父事件では、10日後には明治政府の警官隊と軍隊により鎮圧されてしまいます。この時に、農民たちは雁坂峠を抜けて佐久市付近まで逃げます。地元の農民は行政の区切りに関係なく、生活を求めて行き来しているようです。