<strong>何物にも代えがたい貴重な経験だっただろうか:
私は2006年8月14日(月)の午後4時半過ぎだっただろうか、カテーテルで中下降肢にstentを入れる処置を受け部屋に戻った。一安心と寛いでいるところに突如として目の前に茶色の紗がかかったと同時に悪寒がして、「寒い」と見舞いに来ていた家族に告げた後でナースコールのボタンを押してから一時的に失神した。
あれから11年経った今年でも8月14日が月曜日なのは単なる偶然の為せる業だろうが、約1週間遅れであの時の臨死体験(だったのだろう)を回顧してみようと思い立った次第。
私の意識が朦朧とした辺りから病棟中の大騒ぎになり、病棟の主治医の先生や多くの看護師さんたちが駆けつけたのは承知していた。直ちにボンベが持ち込まれ酸素マスクがかけられたのも覚えている。
そのうちに主治医が「壁から酸素が取れる病室に移そう」と指示されて、隣の部屋にベッドごと移動した。そこで愚息の顔を認識したが、そこから先は記憶が曖昧となった。後で聞けば心臓マッサージを受けたそうで、心肺停止状態の近所まで行ってしまったようだった。未だにハッキリと覚えているが、そこは何も見えない真っ暗で静かな世界だった。別な表現をすれば、何かフワッと浮いていたような状態だったとでも言えば良いだろうか。恐らく脳に血液が上がっていなかったのだろう、苦しくもなく何処も痛くもない状態で、時々周囲の人が騒いでいる状態が解ったかと思うと、またフワッとした状態に戻って、何も見えず聞こえなくなってしまうのだった。
回復した後で考えたことだが「もしかして、あの先に死があるのだったらば、死ぬのは苦しくも何ともなく楽なものではないのか」だった。
そして更に聞こえたのは病棟の主治医の声で「カッテイングを入れろ」であり、婦長さんの「前田さん、解りますか」なのだった。だが、勿論反応出来る状態ではなく、もどかしい思いもあった。時には目が見える状態になる時もあり、彼女の顔を識別できるのだが、何分にもあの状況では声を発する方法も解らず、ただ頷くだけだったと思う。
そして、どれほど時間が経過した後だったか、「先生、30の60です」との看護師さんの声の後に、主治医が「ノルアドを後~CCだ」と叫ぶのも聞こえた。今でも覚えているが、その意味を理解する力はなかった。その後で「先生、40の90になりました」と聞こえてからは、目も少し見えて意識も少し戻ってきたと思う。それでも、フーッとまた何処かの暗闇に落ちていくことがあったようだった。
自分でも訳が解らないことは、その時でも聞こえていたことを理解できなくとも、記憶力は正常に作用していたことだった。それに11年も経った今でも記憶が失われていないのも不思議だ。あの見えていたような気がする暗い底なしの世界は、一体何だったのだろう。
そして、看護師さんの「130の60です」という声が聞こえたのだが、意識が戻ればそれが「血圧のことだ」くらいは判断できたし、「あー、助かったのだ」とも認識できていた。病棟の主治医の先生はそれから間もなく「もう安心だ」と引き上げられたのも承知していた。
終わった(?)時は7時半近くだったかも知れない。担当の看護師さんが保留されていた夕食を「食べられますか」と持ってこられたので、喜んで食べた。ハッキリと覚えているが「かにの爪」が主菜だった。ほとんど何も残さずに食べられた。それを見届けた看護師さんも「これなら大丈夫」と保証してくれた。見守っていた家内も愚息も「どうぞ、お帰り下さって結構です」と告げられて引き上げた。
実は、そんな重病人だと思っていた私は、中2日おいた17日の退院を許可されたのだった。しかも、18日にはSBS静岡放送の定期的ラジオの出演日で、主治医からは「何の心配もない状態だから、誰か付き添いを付けて行っても良し」と許可を頂いた。だが、流石に怖くて行こうという気にはなれずに急遽SBSに連絡し、お詫びして延期して貰った。
上記を「臨死体験」というのだろうが、生死の境を彷徨っていると見える患者には、意外にも周囲で何か言い合っている声が聞こえていることもあれば、私の場合は細切れであっても記憶に残っているのだということも経験した。これは矢張り貴重な経験だったのだろうと考えるようにしている。
私は2006年8月14日(月)の午後4時半過ぎだっただろうか、カテーテルで中下降肢にstentを入れる処置を受け部屋に戻った。一安心と寛いでいるところに突如として目の前に茶色の紗がかかったと同時に悪寒がして、「寒い」と見舞いに来ていた家族に告げた後でナースコールのボタンを押してから一時的に失神した。
あれから11年経った今年でも8月14日が月曜日なのは単なる偶然の為せる業だろうが、約1週間遅れであの時の臨死体験(だったのだろう)を回顧してみようと思い立った次第。
私の意識が朦朧とした辺りから病棟中の大騒ぎになり、病棟の主治医の先生や多くの看護師さんたちが駆けつけたのは承知していた。直ちにボンベが持ち込まれ酸素マスクがかけられたのも覚えている。
そのうちに主治医が「壁から酸素が取れる病室に移そう」と指示されて、隣の部屋にベッドごと移動した。そこで愚息の顔を認識したが、そこから先は記憶が曖昧となった。後で聞けば心臓マッサージを受けたそうで、心肺停止状態の近所まで行ってしまったようだった。未だにハッキリと覚えているが、そこは何も見えない真っ暗で静かな世界だった。別な表現をすれば、何かフワッと浮いていたような状態だったとでも言えば良いだろうか。恐らく脳に血液が上がっていなかったのだろう、苦しくもなく何処も痛くもない状態で、時々周囲の人が騒いでいる状態が解ったかと思うと、またフワッとした状態に戻って、何も見えず聞こえなくなってしまうのだった。
回復した後で考えたことだが「もしかして、あの先に死があるのだったらば、死ぬのは苦しくも何ともなく楽なものではないのか」だった。
そして更に聞こえたのは病棟の主治医の声で「カッテイングを入れろ」であり、婦長さんの「前田さん、解りますか」なのだった。だが、勿論反応出来る状態ではなく、もどかしい思いもあった。時には目が見える状態になる時もあり、彼女の顔を識別できるのだが、何分にもあの状況では声を発する方法も解らず、ただ頷くだけだったと思う。
そして、どれほど時間が経過した後だったか、「先生、30の60です」との看護師さんの声の後に、主治医が「ノルアドを後~CCだ」と叫ぶのも聞こえた。今でも覚えているが、その意味を理解する力はなかった。その後で「先生、40の90になりました」と聞こえてからは、目も少し見えて意識も少し戻ってきたと思う。それでも、フーッとまた何処かの暗闇に落ちていくことがあったようだった。
自分でも訳が解らないことは、その時でも聞こえていたことを理解できなくとも、記憶力は正常に作用していたことだった。それに11年も経った今でも記憶が失われていないのも不思議だ。あの見えていたような気がする暗い底なしの世界は、一体何だったのだろう。
そして、看護師さんの「130の60です」という声が聞こえたのだが、意識が戻ればそれが「血圧のことだ」くらいは判断できたし、「あー、助かったのだ」とも認識できていた。病棟の主治医の先生はそれから間もなく「もう安心だ」と引き上げられたのも承知していた。
終わった(?)時は7時半近くだったかも知れない。担当の看護師さんが保留されていた夕食を「食べられますか」と持ってこられたので、喜んで食べた。ハッキリと覚えているが「かにの爪」が主菜だった。ほとんど何も残さずに食べられた。それを見届けた看護師さんも「これなら大丈夫」と保証してくれた。見守っていた家内も愚息も「どうぞ、お帰り下さって結構です」と告げられて引き上げた。
実は、そんな重病人だと思っていた私は、中2日おいた17日の退院を許可されたのだった。しかも、18日にはSBS静岡放送の定期的ラジオの出演日で、主治医からは「何の心配もない状態だから、誰か付き添いを付けて行っても良し」と許可を頂いた。だが、流石に怖くて行こうという気にはなれずに急遽SBSに連絡し、お詫びして延期して貰った。
上記を「臨死体験」というのだろうが、生死の境を彷徨っていると見える患者には、意外にも周囲で何か言い合っている声が聞こえていることもあれば、私の場合は細切れであっても記憶に残っているのだということも経験した。これは矢張り貴重な経験だったのだろうと考えるようにしている。
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