新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

国語を乱すのはテレビだ

2015-02-24 09:51:17 | コラム
入院中に国語を乱しているのがテレビであると再認識した:

私自身は筋金入りのカタカナ語排斥論者だと自負してきたが、昨年12月30日の第三次心筋梗塞入院以降、僅か3日間の中断があっただけで2月11日まで世間から隔離されテレビだけを情報源とする入院生活を続けいた。結果的に、あらためてそこに登場するタレントとやらいう連中は仕方がないとしても、国会議員でも所謂専門家という敬称で呼ばれる方々でも、その語り口で日本語を思いのままに乱している現状には、怒り心頭に発するまでにも至らず「情けないこと」と嘆くだけだったのは非常に遺憾だった。

先ずはカタカナ語の濫用だ。念のために先ずお断りして置くが「99.9%のカタカナ語は英語にすると不正確な表現であり外国人に通じないものであるが、それを日常的に使うのはあなた方の勝手である」のだ。とは言え、テレビに登場する連中の濫用振りは目に(耳?)に余り、最早「これが果たしてまともな教育を受けた日本人が使う言葉か」と言いたいほど手当たり次第英語擬きを使いまくっている。

先程もテレ朝で聞こえたが、何とか言うアメリカのロックバンドが来日して「モモクロ」と「コラボ」するのだそうだ。広辞苑には「コラボレーション」【Collaboration】とあり「共同作業、共同制作、共演」となっている。カタカナ語にしないで素直に漢字を使って言えばどうだ。”collaboration”には確かにそういう意味があるが、Oxfordには”group of people working together”という表現もある。

実は私の英語力を以てしては「共同作業」ないしは「共演」と言いたい時に到底「コラボ」等という難しい単語など思い付くとは思えないし、精一杯で”group of people working together”辺りが限度だろう。何故にかかる言葉を採用して、しかも短くして言うのだろう。不思議な英語力だと思う。矢張り「単語帳的知識」の賜物かと思ってしまう。誤った英語の学習法を正していくべきだとあらためて主張する。

実例を挙げよう。「スタッフ」も最早完全に戸籍を得た日本語の熟語となってしまった。「従業員」、「係員」、「担当者」等の言葉を何の根拠があって死語の如くにしたのだろう。漢字で表現したのでは格好が悪いとでも思うのだろうか。我が国立国際医療研究センターでも医師や看護師等の専用の通路には「スタッフ」と表記されている。私には胸が悪くなりそうなカタカナ語だ。

面白いのはOxfordにある解釈で、アメリカでは”the people who work at a school, college or university, but who do not teach students”とあることだ。何れにせよ、そんなに漢字を使うことが嫌いでカタカタ語を有り難がる性根を私は嫌うのだ。飲食店などで「ホール・スタッフ」などと呼んでいるのは、何を勘違いしているのかと嘆かわしくなるだけだ。カタカナ語にするとそんなに格好が良いのか。応募者が来るのか。

「シンプル」や「コンパクト」もものの見事に濫用されている。「簡単に」か「単純に」か「略式に」と言いたい時は「シンプル」を使っている輩が多い。断って置くが”simple”は一義的には形容詞だ。しかし、カタカナ語で使われている場合には「単純化する」という動詞”simplify”の意味である場合が多いように聞こえる。即ち、形容詞の「シンプル」を動詞のように使っていると思っている。こういう使い方を許していて「英語を小学校ら教えよう」もないものだ。

「コンパクト」も恣意的に使われている。大体からし浅学非才の私には”compact”という単語を使いこなした記憶もない。でも、TOEICを有り難がる我が国では平気で「コンパクト」を使う。広辞苑に「コンパクト」は「小さくして中身の充実しているさま」。「-にまとめる」とある。だが、テレビに登場する輩は何でもかんでも「本来の形よりも小さくする」か「縮小する」と言いたい時に濫用する。おかしくないか。

Oxfordには”smaller than is usually for things of the same kind”とある。ジーニアスには「家、車、道具などがコンパクトな、無駄なスペースがない、こぢんまりとした;小さくて安い」とある。矢張り単語帳的な言葉の濫用だと言いたい。これは「シンプル」と共にスポーツ中継で濫用されている傾向がある。”captainship”=「キャプテンの統率の力」を屡々「キャプテンシー」の如くに間違った言葉を使っているよりは罪が浅いかも知れないが。

カタカナ語を離れよう。私が聞き辛いのが「私の中では」という妙な言い方だ。「私が思うには」か「私の考えでは」辺りが普通な日本語だと思うのだが、誰が言い出したのか「私の中では」が大流行で、国会議員までもお使いだ。彼等がタレントを真似るとは世も末だと思わないか。彼等が濫用する「今、現在」も重複でおかしいとは思わないのかな。

「お会いする」も奇妙だ。Atokでは「お目にかかる」を推薦されてしまう。私はこちらを採りたい。敬語としては「お目にかかる」の方が自然だと思うからだ。また、「おいしい」は「美味であること」だが、テレビでは「うまい」は何故か消滅した模様で、男女とも「おいしい」しか言わない。私は「美味い」が男性語で「おいしい」は女性語かとすら思っていたのだが。

「最高」もイヤだ。食べ物の味でも、何か素晴らしいものに出会った時でも、最善の結果が出た時にでも、テレビに出てくる漫才崩れだの何のは「最高」としか表現しない(あるいは出来ないのか)のだ。この言葉では「具体的に何がどのように素晴らしいのか、最も優れていたのか」が特定されていないのだ。要するに「何を言いたいのか」が伝わってこないのだ。要するに「国語による表現力の欠如」だ。

これらの妙な言葉群の問題点は、私が常に言っている「耳から入ってくる言葉の影響は、読むか読んだものよりも遙かに効果を発揮するものである」点にあるのだ。即ち、私は良い言葉か変な言葉か、誤ったカタカナ語かどうの判断が出来ない連中は、「テレビにお出になるタレントやアイドル様がお使いになるのならばそれで良いのだろう」と思い込んでしまっていると見なしている。だからテレビは恐ろしいのだ。

こんな連中の跳梁跋扈をを許しておく一方で、小学校ら英語教育もないもので、国語を正しく学ばせることを第一義に置くべきではないのか。英語なんてその後からの中学校からで十分だ。この私がそう言うのだから間違いない。