中原中也の「サーカス」という詩を授業で扱った。おそらく多くの人が知っている詩である。
「幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました」
で始まる詩である。
その詩の後半に、
「観客様はみな鰯
咽喉がなります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」
という部分がある。
生徒に鰯というのはどういう魚かと聞いた。ほとんどの生徒が「見たことがない。」と答える。この結果から想像はつくが、一応「鰯を食べたことがあるか。」と聞くと、もちろんほとんどの生徒は「食べたことがない。」と答える。魚離れがこんなに進んでいるのかと淋しくなる。
ところが、不思議なことに生徒たちは鰯が群れをなして行動する魚だということは知っているのである。これはテレビ番組で知ったためであるのは明らかだ。実物がどのくらいの大きさで、どういう形をしているのかはよくわからないが、群れて行動する魚だということを知っている。つまり生徒たちにとって鰯はバーチャルな存在になってしまったのだ。まだサンマは食べるものとして認識しているのに比べて、鰯はあきらかにその存在価値が変化しているのはあきらかだ。
近年水族館でも鰯を展示しているところが多い。日本人と鰯の関係はどうなっていくのであろう。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、港町で生まれ育ち鰯好きの私としては、自らの存在意義を問われているような気がしてならない。
「幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました」
で始まる詩である。
その詩の後半に、
「観客様はみな鰯
咽喉がなります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」
という部分がある。
生徒に鰯というのはどういう魚かと聞いた。ほとんどの生徒が「見たことがない。」と答える。この結果から想像はつくが、一応「鰯を食べたことがあるか。」と聞くと、もちろんほとんどの生徒は「食べたことがない。」と答える。魚離れがこんなに進んでいるのかと淋しくなる。
ところが、不思議なことに生徒たちは鰯が群れをなして行動する魚だということは知っているのである。これはテレビ番組で知ったためであるのは明らかだ。実物がどのくらいの大きさで、どういう形をしているのかはよくわからないが、群れて行動する魚だということを知っている。つまり生徒たちにとって鰯はバーチャルな存在になってしまったのだ。まだサンマは食べるものとして認識しているのに比べて、鰯はあきらかにその存在価値が変化しているのはあきらかだ。
近年水族館でも鰯を展示しているところが多い。日本人と鰯の関係はどうなっていくのであろう。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、港町で生まれ育ち鰯好きの私としては、自らの存在意義を問われているような気がしてならない。
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