共同執筆者には、責任はないのか、という疑問がある。
ひとりの研究員に全責任を負わせて、「俺は知らなかった」で科学の世界は許されるものなのか。
ジャンルが違うのは承知で言うのだが、私はフリーランスという立場で、一人で仕事をしている。
しかし、人と組んで仕事をすることもある。
そのとき、たとえば「相棒」が失敗した場合、私はその失敗を共有する覚悟で仕事をしている。
仕事を共有するということは、失敗も共有することだと思っているからだ。
人間だから、失敗は必ずする。
実際に、何度か失敗したことがある。
私は、その度に共有した。
そして、私が失敗したときも「相棒」は、同じく失敗をかぶってくれた。
それは、異質なことなのだろうか。
世間では、共同作業者の失敗は、全部ひとりに押しつけるのが常識なのか。
まあ、それが常識だとしても、私は「相棒」と心中をするつもりだが。
話は、少々飛躍するが、私は大学を卒業したあと、弁護士事務所に事務員として勤めた。
事務員というのは、弁護士先生の指示のもと訴訟資料を揃えたり、相談者がくると話を聞いて、どの弁護士に仕事を割り振るかを決めたりする仕事だ。
その事務員の中で、29歳の有能な女性がいた。
仕事の処理が超人的に早く、接客技術も超一流だった。
尊敬していた。
しかし、世の中には、「女性」というだけで、能力が劣っていると見る「偏見の塊」のような人が多い。
女性が応対に出ると、「何だよ! 女かよ! 男にしてくれよ。女じゃ伝わらないよ!」と言って、男の事務員に代わることを要請するのである。
その度に、大卒二年目の若造である私が出て、応対することになった。
29歳の女性の方が、明らかに事務処理能力は上なのに、お客は男というだけで若造の私を信用するのだ。
あるときなど、四十代の女性のお客に、「『小娘』じゃなくて、『ちゃんとした男』を出してよ」とクレームを付けられたことがあった。
そのときも、私は少しも「ちゃんとした男」ではなかったが、私が応対をさせられることになった。
事務員としての価値は、明らかに女性事務員に劣るのに、私が応対すると「偏見の塊」は安心するのである。
その「小娘」と呼ばれた29歳の事務員は、翌年30歳で司法試験に、みごと合格した。
その方は、虎ノ門でいま弁護士事務所を構えているが、いまだに「偏見の塊」から、「女」というだけで、その価値を不当に下げられているかもしれない。
リーガル・ハイ!
また、話は飛躍するのだが、私は女優の沢尻エリカさんが好きである。
映画「ぱっちぎ!」からファンになった。
TVドラマ「1リットルの涙」でさらにファンになった。
その沢尻さんが、大分前のことだったが、「別に」とふてくされた態度を取ったことで、干されることになった。
それが、私には納得がいかなかった。
世の中には、男の政治家や評論家、あるいは司会者、お笑い芸人などが、不遜な態度で、相手の人格を全否定してもほとんど問題になることがないのに、なぜ女優が「別に」と言っただけで干されたのだろうか。
「小娘」だからか。
男社会では、少し頭角を現してきた女性を煙たがって「小娘は叩け」という風潮があるのかもしれない。
それは、強面の政治家、評論家、芸人を叩くより、遥かに容易いことだからか。
(TVのワイドショーや女性週刊誌、新聞などの記者は、おそらく大半が、強面に尻込みする男たちだ)
若者が不遜な態度を示したら、大人が「それはダメだよね」とたしなめるだけでいい、と私は思うのだ。
無理矢理頭を押さえつけて退路を断つのは、私の感覚では「いじめ」だ。
話を戻して、論文をねつ造し、改ざんした(理化学研究所が言っているに過ぎないが)ことが、事実なら、それは研究者として失格だと思う。
しかし、同じ論文に名を連ねた人も失格だろう、と私は思うのだ。
そして、その研究グループを管理する人も失格だ。
「小娘」だから、犠牲にしてもいい。
私には、男社会のそんな目論みが、透けて見える。
ひとりの「小娘」をスケープゴートにして、事態の収拾を図るという手法は、男社会にドップリ浸かった「大人の」男女たちには、心地よいだろうが、私には心地よくない。
永遠の「小僧」は、青臭くそう思っている。
ひとりの研究員に全責任を負わせて、「俺は知らなかった」で科学の世界は許されるものなのか。
ジャンルが違うのは承知で言うのだが、私はフリーランスという立場で、一人で仕事をしている。
しかし、人と組んで仕事をすることもある。
そのとき、たとえば「相棒」が失敗した場合、私はその失敗を共有する覚悟で仕事をしている。
仕事を共有するということは、失敗も共有することだと思っているからだ。
人間だから、失敗は必ずする。
実際に、何度か失敗したことがある。
私は、その度に共有した。
そして、私が失敗したときも「相棒」は、同じく失敗をかぶってくれた。
それは、異質なことなのだろうか。
世間では、共同作業者の失敗は、全部ひとりに押しつけるのが常識なのか。
まあ、それが常識だとしても、私は「相棒」と心中をするつもりだが。
話は、少々飛躍するが、私は大学を卒業したあと、弁護士事務所に事務員として勤めた。
事務員というのは、弁護士先生の指示のもと訴訟資料を揃えたり、相談者がくると話を聞いて、どの弁護士に仕事を割り振るかを決めたりする仕事だ。
その事務員の中で、29歳の有能な女性がいた。
仕事の処理が超人的に早く、接客技術も超一流だった。
尊敬していた。
しかし、世の中には、「女性」というだけで、能力が劣っていると見る「偏見の塊」のような人が多い。
女性が応対に出ると、「何だよ! 女かよ! 男にしてくれよ。女じゃ伝わらないよ!」と言って、男の事務員に代わることを要請するのである。
その度に、大卒二年目の若造である私が出て、応対することになった。
29歳の女性の方が、明らかに事務処理能力は上なのに、お客は男というだけで若造の私を信用するのだ。
あるときなど、四十代の女性のお客に、「『小娘』じゃなくて、『ちゃんとした男』を出してよ」とクレームを付けられたことがあった。
そのときも、私は少しも「ちゃんとした男」ではなかったが、私が応対をさせられることになった。
事務員としての価値は、明らかに女性事務員に劣るのに、私が応対すると「偏見の塊」は安心するのである。
その「小娘」と呼ばれた29歳の事務員は、翌年30歳で司法試験に、みごと合格した。
その方は、虎ノ門でいま弁護士事務所を構えているが、いまだに「偏見の塊」から、「女」というだけで、その価値を不当に下げられているかもしれない。
リーガル・ハイ!
また、話は飛躍するのだが、私は女優の沢尻エリカさんが好きである。
映画「ぱっちぎ!」からファンになった。
TVドラマ「1リットルの涙」でさらにファンになった。
その沢尻さんが、大分前のことだったが、「別に」とふてくされた態度を取ったことで、干されることになった。
それが、私には納得がいかなかった。
世の中には、男の政治家や評論家、あるいは司会者、お笑い芸人などが、不遜な態度で、相手の人格を全否定してもほとんど問題になることがないのに、なぜ女優が「別に」と言っただけで干されたのだろうか。
「小娘」だからか。
男社会では、少し頭角を現してきた女性を煙たがって「小娘は叩け」という風潮があるのかもしれない。
それは、強面の政治家、評論家、芸人を叩くより、遥かに容易いことだからか。
(TVのワイドショーや女性週刊誌、新聞などの記者は、おそらく大半が、強面に尻込みする男たちだ)
若者が不遜な態度を示したら、大人が「それはダメだよね」とたしなめるだけでいい、と私は思うのだ。
無理矢理頭を押さえつけて退路を断つのは、私の感覚では「いじめ」だ。
話を戻して、論文をねつ造し、改ざんした(理化学研究所が言っているに過ぎないが)ことが、事実なら、それは研究者として失格だと思う。
しかし、同じ論文に名を連ねた人も失格だろう、と私は思うのだ。
そして、その研究グループを管理する人も失格だ。
「小娘」だから、犠牲にしてもいい。
私には、男社会のそんな目論みが、透けて見える。
ひとりの「小娘」をスケープゴートにして、事態の収拾を図るという手法は、男社会にドップリ浸かった「大人の」男女たちには、心地よいだろうが、私には心地よくない。
永遠の「小僧」は、青臭くそう思っている。