リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

小娘

2014-04-06 09:59:00 | オヤジの日記
共同執筆者には、責任はないのか、という疑問がある。

ひとりの研究員に全責任を負わせて、「俺は知らなかった」で科学の世界は許されるものなのか。


ジャンルが違うのは承知で言うのだが、私はフリーランスという立場で、一人で仕事をしている。
しかし、人と組んで仕事をすることもある。

そのとき、たとえば「相棒」が失敗した場合、私はその失敗を共有する覚悟で仕事をしている。
仕事を共有するということは、失敗も共有することだと思っているからだ。

人間だから、失敗は必ずする。
実際に、何度か失敗したことがある。
私は、その度に共有した。
そして、私が失敗したときも「相棒」は、同じく失敗をかぶってくれた。

それは、異質なことなのだろうか。

世間では、共同作業者の失敗は、全部ひとりに押しつけるのが常識なのか。

まあ、それが常識だとしても、私は「相棒」と心中をするつもりだが。


話は、少々飛躍するが、私は大学を卒業したあと、弁護士事務所に事務員として勤めた。
事務員というのは、弁護士先生の指示のもと訴訟資料を揃えたり、相談者がくると話を聞いて、どの弁護士に仕事を割り振るかを決めたりする仕事だ。

その事務員の中で、29歳の有能な女性がいた。
仕事の処理が超人的に早く、接客技術も超一流だった。
尊敬していた。

しかし、世の中には、「女性」というだけで、能力が劣っていると見る「偏見の塊」のような人が多い。

女性が応対に出ると、「何だよ! 女かよ! 男にしてくれよ。女じゃ伝わらないよ!」と言って、男の事務員に代わることを要請するのである。
その度に、大卒二年目の若造である私が出て、応対することになった。

29歳の女性の方が、明らかに事務処理能力は上なのに、お客は男というだけで若造の私を信用するのだ。

あるときなど、四十代の女性のお客に、「『小娘』じゃなくて、『ちゃんとした男』を出してよ」とクレームを付けられたことがあった。
そのときも、私は少しも「ちゃんとした男」ではなかったが、私が応対をさせられることになった。
事務員としての価値は、明らかに女性事務員に劣るのに、私が応対すると「偏見の塊」は安心するのである。

その「小娘」と呼ばれた29歳の事務員は、翌年30歳で司法試験に、みごと合格した。

その方は、虎ノ門でいま弁護士事務所を構えているが、いまだに「偏見の塊」から、「女」というだけで、その価値を不当に下げられているかもしれない。

リーガル・ハイ!


また、話は飛躍するのだが、私は女優の沢尻エリカさんが好きである。

映画「ぱっちぎ!」からファンになった。
TVドラマ「1リットルの涙」でさらにファンになった。

その沢尻さんが、大分前のことだったが、「別に」とふてくされた態度を取ったことで、干されることになった。

それが、私には納得がいかなかった。
世の中には、男の政治家や評論家、あるいは司会者、お笑い芸人などが、不遜な態度で、相手の人格を全否定してもほとんど問題になることがないのに、なぜ女優が「別に」と言っただけで干されたのだろうか。

「小娘」だからか。

男社会では、少し頭角を現してきた女性を煙たがって「小娘は叩け」という風潮があるのかもしれない。
それは、強面の政治家、評論家、芸人を叩くより、遥かに容易いことだからか。
(TVのワイドショーや女性週刊誌、新聞などの記者は、おそらく大半が、強面に尻込みする男たちだ)

若者が不遜な態度を示したら、大人が「それはダメだよね」とたしなめるだけでいい、と私は思うのだ。
無理矢理頭を押さえつけて退路を断つのは、私の感覚では「いじめ」だ。


話を戻して、論文をねつ造し、改ざんした(理化学研究所が言っているに過ぎないが)ことが、事実なら、それは研究者として失格だと思う。

しかし、同じ論文に名を連ねた人も失格だろう、と私は思うのだ。
そして、その研究グループを管理する人も失格だ。


「小娘」だから、犠牲にしてもいい。


私には、男社会のそんな目論みが、透けて見える。

ひとりの「小娘」をスケープゴートにして、事態の収拾を図るという手法は、男社会にドップリ浸かった「大人の」男女たちには、心地よいだろうが、私には心地よくない。


永遠の「小僧」は、青臭くそう思っている。