リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

教育者

2014-04-20 09:11:00 | オヤジの日記
痛ましい事故が隣国で起きた。

ただ、事故の処理はまだ継続中で、確かな原因もまだ明らかではない。
(急速な方向転換が原因だという説が有力だが)

ニュースでは、コメンテーターや専門家が、検証の言葉を述べているが、それは今の時点では推測であって、実証されたものではない。

政府や海洋警察の発表が二転三転する中で、事故原因を検証されても、それは中途半端な推理小説を読むようなもので、居心地の悪さしか私は感じない。

私としては、事故の検証よりも建設的な救助の方法を助言していただいた方が、耳にすんなり届く。
若い人が、突然その未来を断たれてしまうのは、理不尽としか思えない。

未来を断たれない方法を国籍関係なく思い募るのが、優先される事項なのではないかと思う。

ただ、事故は人災だとしても、現実に対処すべきなのは、自然の驚異である。
風、波、雨。
その脅威が目の前に立ち塞がったとき、選べる選択肢は限られている。

2次的な被害を出さないことをまず考えなければならない。

当たり前のことだが。救助される側の命と救助する側の命は、イコールだ。

その荒れ狂う自然の中で、人が無力になったとしても、そのことを責めるのは、酷というものだ。

不明者の親の嘆きと絶望、怒りは、想像できる。
そして、救助側の焦りも想像できる。

だから、つらい。

ひとりでも多くの方が、生存していることを祈るしかない。


この事故に関連して、修学旅行の引率をしていた教頭先生が、自殺したという記事をネットで読んだ。

自分が助けられたことに対して、自責の念に抗えず、命を絶ったというのだ。

これは、亡くなった方には申し訳ないが、美談ではない、と私は考える。

責任者なら、最後まで、事故の顛末を見届けるべきだ。
最終的には、裁判の判決まで。

責任者というのは、そういうものではないのか。

なぜ生徒たちが、悲劇に遭遇しなければならなかったのか。
なぜ適切な救助方法が選ばれなかったのか。

そして、誰が悪かったのか。

自分ひとりが死を選んで逃げるのは、教育者として失格ではないのか。

自ら死を選んだ方には申し訳ない言い方になるが、私だったら、こんな弱い教育者に、自分の子どもを預けることはできない。

きっと、生徒への愛情は、過剰なほどある先生に違いない。

だが、愛情の使い方を間違っていると思う。

彼の心情は、わからない。
自分が、その立場になってみないとわからないと思う。

私も弱い人間だから、その状況になったとき、自分がどんな行動を起こすかをいま想像することが出来ない。

ただ、これが己を省みない身勝手な言い方だというのは承知だが、責任者なら、最後まで結末を見届けて欲しいと思うのだ。

突然、その人生を断たれた生徒たちの無念を、その心で受け止めて、次の世代に伝えることが教育者としての務めなのではないか。


私が理想とする教育者の姿が、それだ。


死は、逃避だ。


逃避を選ぶ人は、教育者になるべきではなかった、と私は考える。