消防士がツィッターで「火事マジ勘弁」とつぶやいて何が悪いのか、意味がわからない。
いたって普通の素朴な感想ではないか。
絶えず火事に備え、身も心も待機して、文字通り身を削って人のために生活のほとんどを捧げているのに、本音さえも言わせてもらえないのは、理不尽すぎないか。
火事で被害を受けた方に対して失礼に当たる、という論理で責めているのだろうが、消防士の方は、職責を全うして火事の現場にいたのだから、その非難はまったく的外れだ。
消火現場から逃げ出したのなら、非難されるのは当たり前だが、そうではないという。
普通に働いている人を、なぜ責めなくてはいけないのか。
理解できない。
普通に本音を語ったら、叩かれるという風潮には、私は馴染めない。
そして、意味の分からないクレームに簡単に屈してしまう行政にも馴染めない。
なぜ若い消防士を守ろう、という発想が出てこないのだろうか。
私は、人を中傷する文章が嫌いだ。
しかし、中傷する文章や非常識で愚かな行いを主張した内容でない限り、ツィッターに関しては寛容だ。
ツィッターが炎上する、とはよく使われる表現だが、何を持って「炎上する」と言うのかは、ツィッターに不慣れな私には理解できない。
否定的なコメントが多かったら、炎上?
しかし、先ほども書いたように、中傷する文章や非常識で愚かな行いをしない限りは、表現の自由がある。
ただ、否定的なコメントをする自由は当然あるが、「表現の自由」同士の言葉の闘いは、突き詰めれば、堂々巡りになる可能性がある。
私の感覚では、当たり前の個人のつぶやき程度に、過剰に反応する理由が理解できない。
それは、表現の自由とは、別物だと思っている。
「火事マジ勘弁」は、素直な感情を吐露しただけ。
彼は、消防士として職責を全うした上で、ただ本音を呟いただけではないか。
そんな人間の素直な「心の叫び」まで、規制するなよ、と私は思うのだ。
それぞれの職業の人が持っている「心の叫び」は、人の数だけあるはずだ。
私は、その「心の叫び」こそ聞きたいと思う。
生の「叫び」は、その職業に就いている人にしか吐くことが出来ないのだから。
さらに、ウインドウズXPのサポート終了に関して、テレビ朝日・報道ステーションのサブキャスターが「お金が大変ですよ。無料交換してくださればいいのにって思っちゃうんですけどね」と述べたことに対して、「慈善事業ではない」「企業の都合だから負担すればいいのにぐらいの感覚で思っているんでしょうかね(苦笑)」などと批判している人がいるというのをネットで読んだ。
さらに、「それって、『テレビが地デジ化するなら液晶テレビを無償交換してほしい』って言ってるもんだぞ」「まだアナログテレビ持ってる人が大勢いるのにアナログ地上放送からデジタルに移行したのはどの業界でしたっけ」と批判する記事も。
マイクロソフトのサポート終了と地デジ移行という、片や一企業、片や国の方針を同列に扱って批判するという神経が、私には全く理解できない。
ユーザーの感情を置き去りにしたというところだけは、当たっているかもしれないが、儲け主義の企業の論理と未来を見据えた世界の風潮を同列に扱うのは、乱暴ではないだろうか。
サブキャスターは、普通に本音を吐いただけ。
いい加減、無駄な正義感を振りかざすのは、やめませんか。
話は飛ぶが、ヤンキースの田中将大投手が、メジャーリーグに適応している。
それは、同じ日本人として、嬉しいことだ。
ただ、ここでは、小さな言いがかりをつけたいと思う。
マスメディアの報道に対してだ。
ヤンキース・ファンがTANAKAを熱烈歓迎! などという報道があった。
しかし、テレビに映った観客席を見ると、空席が目立った。
本拠地デビューの割には、普段の試合より、明らかに観客の数が少なかった。
それを見て、ニューヨーカーは、本当に、関心を持っているのか、と思った。
もちろん観客の数だけで言っているのではないと思うが、偏った先入観で、お手軽な表現で読者、視聴者を煽るというのは、プロとしてお粗末なのではないかと私は思うのだ。
熱烈歓迎したのは本当だとしても、スタンドに空席が目立ったことも併せて書くのが、本当のプロだ。
論文にミスが2つ3つあったことで、ねつ造だと疑われることもある。
そして、そんな風に、正確な報道をしない人が、同じ口で、他人のミスを「ねつ造」と責めるのが、マスメディアだ。
その風潮は、ネットが発達したことによって、私も含めて簡単に「他人の少しのミスでも責める」というツールを得た。
ツィッターやブログは、情報発信道具としては、便利だが、真実を伝える道具としては不成熟だ。
悪いことをした人は批判されて当然だが、その便利なツールは、普通のことをしただけも批判することがある。
顔のない世界は、もともとマスメディアの専売特許だったが、それがネットによって、誰もが顔の見えない意見を吐くようになった。
こんなことを書いている私も、もちろん顔が見えない男だ。
だから、嘘だけは書かないように努めているのだが、不注意、不勉強、未熟さ故に、思い違いで書いている場合もある。
顔が見えないからと言って、責任がないわけではない。
そのことだけは、これからも気をつけていきたいと思う。
いたって普通の素朴な感想ではないか。
絶えず火事に備え、身も心も待機して、文字通り身を削って人のために生活のほとんどを捧げているのに、本音さえも言わせてもらえないのは、理不尽すぎないか。
火事で被害を受けた方に対して失礼に当たる、という論理で責めているのだろうが、消防士の方は、職責を全うして火事の現場にいたのだから、その非難はまったく的外れだ。
消火現場から逃げ出したのなら、非難されるのは当たり前だが、そうではないという。
普通に働いている人を、なぜ責めなくてはいけないのか。
理解できない。
普通に本音を語ったら、叩かれるという風潮には、私は馴染めない。
そして、意味の分からないクレームに簡単に屈してしまう行政にも馴染めない。
なぜ若い消防士を守ろう、という発想が出てこないのだろうか。
私は、人を中傷する文章が嫌いだ。
しかし、中傷する文章や非常識で愚かな行いを主張した内容でない限り、ツィッターに関しては寛容だ。
ツィッターが炎上する、とはよく使われる表現だが、何を持って「炎上する」と言うのかは、ツィッターに不慣れな私には理解できない。
否定的なコメントが多かったら、炎上?
しかし、先ほども書いたように、中傷する文章や非常識で愚かな行いをしない限りは、表現の自由がある。
ただ、否定的なコメントをする自由は当然あるが、「表現の自由」同士の言葉の闘いは、突き詰めれば、堂々巡りになる可能性がある。
私の感覚では、当たり前の個人のつぶやき程度に、過剰に反応する理由が理解できない。
それは、表現の自由とは、別物だと思っている。
「火事マジ勘弁」は、素直な感情を吐露しただけ。
彼は、消防士として職責を全うした上で、ただ本音を呟いただけではないか。
そんな人間の素直な「心の叫び」まで、規制するなよ、と私は思うのだ。
それぞれの職業の人が持っている「心の叫び」は、人の数だけあるはずだ。
私は、その「心の叫び」こそ聞きたいと思う。
生の「叫び」は、その職業に就いている人にしか吐くことが出来ないのだから。
さらに、ウインドウズXPのサポート終了に関して、テレビ朝日・報道ステーションのサブキャスターが「お金が大変ですよ。無料交換してくださればいいのにって思っちゃうんですけどね」と述べたことに対して、「慈善事業ではない」「企業の都合だから負担すればいいのにぐらいの感覚で思っているんでしょうかね(苦笑)」などと批判している人がいるというのをネットで読んだ。
さらに、「それって、『テレビが地デジ化するなら液晶テレビを無償交換してほしい』って言ってるもんだぞ」「まだアナログテレビ持ってる人が大勢いるのにアナログ地上放送からデジタルに移行したのはどの業界でしたっけ」と批判する記事も。
マイクロソフトのサポート終了と地デジ移行という、片や一企業、片や国の方針を同列に扱って批判するという神経が、私には全く理解できない。
ユーザーの感情を置き去りにしたというところだけは、当たっているかもしれないが、儲け主義の企業の論理と未来を見据えた世界の風潮を同列に扱うのは、乱暴ではないだろうか。
サブキャスターは、普通に本音を吐いただけ。
いい加減、無駄な正義感を振りかざすのは、やめませんか。
話は飛ぶが、ヤンキースの田中将大投手が、メジャーリーグに適応している。
それは、同じ日本人として、嬉しいことだ。
ただ、ここでは、小さな言いがかりをつけたいと思う。
マスメディアの報道に対してだ。
ヤンキース・ファンがTANAKAを熱烈歓迎! などという報道があった。
しかし、テレビに映った観客席を見ると、空席が目立った。
本拠地デビューの割には、普段の試合より、明らかに観客の数が少なかった。
それを見て、ニューヨーカーは、本当に、関心を持っているのか、と思った。
もちろん観客の数だけで言っているのではないと思うが、偏った先入観で、お手軽な表現で読者、視聴者を煽るというのは、プロとしてお粗末なのではないかと私は思うのだ。
熱烈歓迎したのは本当だとしても、スタンドに空席が目立ったことも併せて書くのが、本当のプロだ。
論文にミスが2つ3つあったことで、ねつ造だと疑われることもある。
そして、そんな風に、正確な報道をしない人が、同じ口で、他人のミスを「ねつ造」と責めるのが、マスメディアだ。
その風潮は、ネットが発達したことによって、私も含めて簡単に「他人の少しのミスでも責める」というツールを得た。
ツィッターやブログは、情報発信道具としては、便利だが、真実を伝える道具としては不成熟だ。
悪いことをした人は批判されて当然だが、その便利なツールは、普通のことをしただけも批判することがある。
顔のない世界は、もともとマスメディアの専売特許だったが、それがネットによって、誰もが顔の見えない意見を吐くようになった。
こんなことを書いている私も、もちろん顔が見えない男だ。
だから、嘘だけは書かないように努めているのだが、不注意、不勉強、未熟さ故に、思い違いで書いている場合もある。
顔が見えないからと言って、責任がないわけではない。
そのことだけは、これからも気をつけていきたいと思う。