リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

怠惰な働き蜂

2014-05-04 09:00:00 | オヤジの日記
記者の書く記事は、お手軽だ。

たとえば、ネットでスポーツの結果を知ろうとして、記事を開くとする。

田中将大氏の記事を読んだ場合、「現地紙では、こう評価していた」などというものが多い。

ニューヨーク・ポストの記者は、こう書いた。
ニューヨーク・タイムズの記者が、こう書いた。
USAトゥディの記者は、こう書いていた。

とても記事といえる内容ではない。
人がリポートしたものを、そのまま引用しているだけである。

私の中では、「記者」と言えば、自分の足で取材し、自分の頭で分析して自分の言葉で文章を書く人のことだと思っていた。
だから、この種の記事に、いつも違和感を持っていた。

たとえば、サッカーにしてもそうだ。

本田圭祐氏の試合内容を読んだとき、「イタリアのガゼッタ・スポルト紙の採点では、最高の7点だった」とか「コリエレ・デロ・スポルトでは何点だった」という記事の評価をそのまま書いたりすることが多い。

これも記事ではなく、ただの引用だ。

評論家や専門家は、たとえ的外れの意見だとしても、独自の視点で記事を書いているのに、記者は現地の報道を伝えているだけ。

申し訳ない言い方になるが、この程度の記事なら、勉強しなくてもか書けるのではないか、と私は思う。


他にも、特定の政治家に張りついている人を「番記者」と呼ぶ。
政治家のご機嫌を損ねないように、まったく批判的な記事を書かずに、太鼓持ちのような存在になっている人たちだ。

権力者である政治家のご機嫌を損ねると、次の取材を拒否されるので、当たり障りのないことを書いて、無駄に紙面を埋める人たち。

おそらく高学歴の勉強のできる人たちなのだろうが、彼らは「自分の言葉を持たない人」だ。
政治部の記者は、教養がないと務まらないが、我が強くて自分の意見を強く主張する人は、権力者には鬱陶しい存在になって、遠ざけられるのだろう。

その結果、介護犬のような従順な人だけが生き残って、さらに政権に対して無批判になる。

そして、その種の記者が、有能扱いされる。


スポーツ記者も、似たり寄ったりなのだろう。

日本人メジャーリーガーの人気者に張りついて、ご機嫌を伺って取材をするが、結果的には、他人の記事を引用することだけが使命になる。

自分の言葉で書くと、選手のご機嫌を損ねるかもしれないが、他人の意見を引用する分には、言い訳はいくらでも出来る。

「いや、あれは、俺が思っているんじゃなくて、『ニューヨーク・タイムス』が書いたことですから」

それに、田中将大氏が、まるで全米、ニューヨークの興味を一身に引いているかのような報道をしているが、私がBSで見たヤンキースタジアムの田中氏の登板では、毎回かなり空席が目立った。

ヤンキースタジアム(定員5万人超)では、大抵の試合で観客数が4万人を超えるのに、田中氏のときは、4万人を超えたのは3回のうち1回だけ。
BSに映るヤンキースタジアムの観客席を見て、ヤンキースファンは、本当に田中氏のことを認めているのか、と思った。

そして、その種の報道(観客席が埋まらない)をしているメディアは、驚くほど少ない。
田中氏が、ニューヨークを席巻しているような扱いが多い。

メディアが持つべきはずの当たり前の客観性が、そこにはない。

アメリカやイタリア、スペイン、韓国などのメディアは、多くの場合ヒステリックだが、日本のメディアが、そこまで真似をすることはないだろう。

それとも、ヒステリックな人間だけが、報道する資格を持つのが、報道の世界なのか。
私は、そのことに違和感を持っている。


有名な日本人メジャーリーガーに、金魚の糞のようにつきまとい、ときに、しつこく外国人メジャーリーガーに日本人メジャーリーガーの印象を聞く。

多くの場合、彼らは大人の対応をしてくれるが、心では「日本人のことばかり聞いて、俺のことは聞かないのかよ」と思っているかもしれない。
目の前にいる一流メジャーリーガーのプライドは無視して、日本人のことだけを聞くのが、とても失礼なことだとは想像つかないのだろうか。


むかし、スポーツニュースの映像で、現役時代の松井秀喜氏にソロゾロとつきまとう30人以上の記者の行列を見たとき、この群れたメディアの行列は、現地の外人の目には異質に映るのだろうな、と思った。

まるで女王蜂に群がる、働き蜂のよう。
しかし、その働き蜂は、ただ群れるのが仕事だと思っている「怠惰な蜂」だ。
そして、みなが同じ内容の記事しか書かない(書けない)クローンだ。

同じことをいま、田中将大氏や本田圭祐氏にも繰り返している。


いったい彼らの意識は、どこに向いているのだろう。

読者なのか、対象とする選手なのか、それとも彼らが所属する会社の上司なのか。


もし彼らが、会社の上司にしか思いが至らないなら、その記事が持つ本質は、薄っぺらで自分本位、会社本位過ぎて、無駄な存在だと私には思えるのだが。