今年は、エルニーニョ現象が発生する可能性があるという。
エルニーニョになった場合、冷夏、暖冬になる確率が高いとも聞く。
気の早いメディアは、専門家の意見として、野菜が高騰したり、ビールなどが売れなくなって、日本経済にダメージを与える、と報道していた。
しかし、私はいつもこの種の報道に違和感を持っていた。
冷夏で野菜が高騰し、猛暑で野菜が高騰し、大雪で野菜が高騰する。
自然の恵みをいただいて作物を育てるのだから、根本となる自然が味方をしてくれなかったら、作物は育たない。
その理屈は、わかる。
ただ、そんな気まぐれな自然に翻弄されながらも、いい野菜や米、果物を育てている農家も確実に存在する、と私は思っているのだ。
しかし、メディアは、農家の悲劇だけを取り上げて、独自の工夫で災害に負けない野菜、米、果物を作り続けている人たちのことを取り上げることは少ない。
彼らが何故、災害にも負けずに、良好な作物を作り続けることができるのか、という視点でニュースを作ったら、それはかなり有意義なものになると思うのだが、メディアがお好きなのは、悲劇だけだ。
テレビに映し出されるのは、雪の重みで押しつぶされたビニールハウス。
台風で押し倒されたビニールハウスや果樹園。
あるいは、暴風になぎ倒された田畑。
こんな大雪が降るなんて。
こんな大きな台風が来るなんて。
こんなに、気温が上がるなんて。
あるいは、夏なのに、こんなに気温が低いなんて。
運が悪かったですよねえ。
ようするに、メディアが伝えたいのは、そのことだけ。
悲劇を増幅して伝え、建設的な方法で災害に強い作物を作っている人に、スポットライトを当てることには怠惰だ。
彼らは、感情論、情緒論でしか事実を伝えることができないように思える。
農家の方たちの中には、そんな運に背を向けて、独自の工夫で災害に立ち向かっている方も多くいるはずだ。
そして、その方たちの「工夫」は、大きな財産だと言っていいと思う。
それなら、メディアの役目として、その財産を世に知らしめて、災害に強い農業を建設するための方策を提案するというのもありではないか、と私は思っている。
今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
いまのうちに、悲劇を先取りしておこうか。
これが、いまのメディアの報道だ。
今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
何か、対処方法を調べて、提案しようじゃないか。
こんなメディアを期待するのは、間違いだろうか。
この話とは、筋道が45度ほどずれるが、思いついたことを書いてみようと思う。
友人が、2年前に父親が死んだことにより、家業の解体業を継ぐために山梨の実家に帰った。
彼の家の庭には、いつ作られたのかもわからないような年季の入った納屋があった。
そのいつ倒壊してもおかしくないような納屋に、父親の遺品が格納されていた。
彼は、それを危惧して、母親に納屋を建て直すか、新しい物置を買わないか、と提案した。
しかし、母親は「いいわよ、別に壊れても。どうせ古いんだから」と、立て直しに乗り気ではなかった。
父親の遺品が詰まった納屋。
彼は、そのことが気がかりだった。
だから、彼は昨年の暮れに一・五坪弱の鋼板でできた物置を購入し、納屋の隣に設置した。
そして、父親の遺品のすべてを、そこに移した。
それを見た彼の母親は、「こんなのもったいない。まだ納屋は壊れないわよ。今までも壊れなかったんだし」と否定的だった。
しかし、今年の冬は、山梨に記録的な大雪が降った。
朝、ドッシャーンという大きな音で目覚めた彼の目に映ったものは、大雪で倒壊した納屋だった。
見事なほど押しつぶされた古い納屋。
その隣の真新しい物置は、屋根に1メートル近い雪が積もっていたが、勝ち誇ったように雄々しく立っていたという。
押しつぶされた納屋を見て、母親が泣いた。
「お父さんのものが潰されなくてよかった。無事でよかった。潰されたら、お父さんに顔向けができないからね」
数十年に一度の大雪を予測できる人は、おそらくいない。
友人も予測したわけではない。
ただ、納屋が壊れたら、父親の思い出も壊れると思った。
その彼の強い思いが、災害から大事なものを守ったことは、間違いがない。
このことを「たまたまだよ」「まぐれ当たりだな」という人は、人間に備わっているはずの「豊かな感情」「家族愛」が理解できない人だ。
「母ちゃんの泣いている姿を見たとき、俺はここに帰ってきて良かった、と心の底から思ったよ」
友人のその言葉を聞いたとき、私も泣きそうになった。
エルニーニョになった場合、冷夏、暖冬になる確率が高いとも聞く。
気の早いメディアは、専門家の意見として、野菜が高騰したり、ビールなどが売れなくなって、日本経済にダメージを与える、と報道していた。
しかし、私はいつもこの種の報道に違和感を持っていた。
冷夏で野菜が高騰し、猛暑で野菜が高騰し、大雪で野菜が高騰する。
自然の恵みをいただいて作物を育てるのだから、根本となる自然が味方をしてくれなかったら、作物は育たない。
その理屈は、わかる。
ただ、そんな気まぐれな自然に翻弄されながらも、いい野菜や米、果物を育てている農家も確実に存在する、と私は思っているのだ。
しかし、メディアは、農家の悲劇だけを取り上げて、独自の工夫で災害に負けない野菜、米、果物を作り続けている人たちのことを取り上げることは少ない。
彼らが何故、災害にも負けずに、良好な作物を作り続けることができるのか、という視点でニュースを作ったら、それはかなり有意義なものになると思うのだが、メディアがお好きなのは、悲劇だけだ。
テレビに映し出されるのは、雪の重みで押しつぶされたビニールハウス。
台風で押し倒されたビニールハウスや果樹園。
あるいは、暴風になぎ倒された田畑。
こんな大雪が降るなんて。
こんな大きな台風が来るなんて。
こんなに、気温が上がるなんて。
あるいは、夏なのに、こんなに気温が低いなんて。
運が悪かったですよねえ。
ようするに、メディアが伝えたいのは、そのことだけ。
悲劇を増幅して伝え、建設的な方法で災害に強い作物を作っている人に、スポットライトを当てることには怠惰だ。
彼らは、感情論、情緒論でしか事実を伝えることができないように思える。
農家の方たちの中には、そんな運に背を向けて、独自の工夫で災害に立ち向かっている方も多くいるはずだ。
そして、その方たちの「工夫」は、大きな財産だと言っていいと思う。
それなら、メディアの役目として、その財産を世に知らしめて、災害に強い農業を建設するための方策を提案するというのもありではないか、と私は思っている。
今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
いまのうちに、悲劇を先取りしておこうか。
これが、いまのメディアの報道だ。
今年は、エルニーニョらしいぞ。
そうなると、冷夏になるな。
何か、対処方法を調べて、提案しようじゃないか。
こんなメディアを期待するのは、間違いだろうか。
この話とは、筋道が45度ほどずれるが、思いついたことを書いてみようと思う。
友人が、2年前に父親が死んだことにより、家業の解体業を継ぐために山梨の実家に帰った。
彼の家の庭には、いつ作られたのかもわからないような年季の入った納屋があった。
そのいつ倒壊してもおかしくないような納屋に、父親の遺品が格納されていた。
彼は、それを危惧して、母親に納屋を建て直すか、新しい物置を買わないか、と提案した。
しかし、母親は「いいわよ、別に壊れても。どうせ古いんだから」と、立て直しに乗り気ではなかった。
父親の遺品が詰まった納屋。
彼は、そのことが気がかりだった。
だから、彼は昨年の暮れに一・五坪弱の鋼板でできた物置を購入し、納屋の隣に設置した。
そして、父親の遺品のすべてを、そこに移した。
それを見た彼の母親は、「こんなのもったいない。まだ納屋は壊れないわよ。今までも壊れなかったんだし」と否定的だった。
しかし、今年の冬は、山梨に記録的な大雪が降った。
朝、ドッシャーンという大きな音で目覚めた彼の目に映ったものは、大雪で倒壊した納屋だった。
見事なほど押しつぶされた古い納屋。
その隣の真新しい物置は、屋根に1メートル近い雪が積もっていたが、勝ち誇ったように雄々しく立っていたという。
押しつぶされた納屋を見て、母親が泣いた。
「お父さんのものが潰されなくてよかった。無事でよかった。潰されたら、お父さんに顔向けができないからね」
数十年に一度の大雪を予測できる人は、おそらくいない。
友人も予測したわけではない。
ただ、納屋が壊れたら、父親の思い出も壊れると思った。
その彼の強い思いが、災害から大事なものを守ったことは、間違いがない。
このことを「たまたまだよ」「まぐれ当たりだな」という人は、人間に備わっているはずの「豊かな感情」「家族愛」が理解できない人だ。
「母ちゃんの泣いている姿を見たとき、俺はここに帰ってきて良かった、と心の底から思ったよ」
友人のその言葉を聞いたとき、私も泣きそうになった。