新宿御苑のお得意先で、同業者と鉢合わせをした。
丁度、2人とも違う仕事をいただいて、帰るところだった。
2時を過ぎていたが、私は昼メシを食っていなかった。
お昼食いましたか、と聞いたら、「まだなんですよ」と30代半ばの女性の同業者が、答えた。
「近くの定食屋さんで、たべましょうか」と言われたので、腹をすかせた憐れな男は、即座に頷いた。
カウンターだけのこじんまりした店だった。
2時を過ぎていたせいか、客は他にいなかった。
アリマさん(同業者)は、「サバの味噌煮定食」を頼み、私は「肉じゃが定食」を頼んだ。
出来上がるまで、話をしようと思った。
私はお客様以外とは、仕事の話をしないようにしているので、「最近は、どこに行きましたか?」と聞いた。
以前、一度だけ、旅行が趣味だというのを聞いたことがあったから、一番、答えやすそうなことを話題にしたのだ。
アリマさんが、何かを言おうとしたとき、新しい客が入ってきた。
でかい声の男だ。
定連さんらしい。
「鯛茶漬け、ちょうだいよ」と大音量で言った。
私は突発性難聴の影響で、右耳が聞こえないので、大きな声で話してくれると有り難いのだが、世の中には限度というものがある。
限度を超えた声は、「騒音」でしかない。
その「騒音男」が、カウンター席側にいた店の女性に、「もう8ヶ月だっけ」と聞いた。
私は、女性のお腹を見る趣味がないので、女性が妊娠していることには気づかなかった。
8ヶ月と言えば、出っ張りが、かなり目立ってきていると思うが、見る趣味がないので、確認することはしなかった。
男が、カウンターの大将に「結婚して6年だろ?」と言った。
詮索するのは好みではないが、この場合、大将と妊婦さんは、ご夫婦だろう、と推測するのが自然だ。
「やっとできたんだもんなあ。俺なんか同じ6年前に結婚して、子ども3人だよ。これで、大将もやっと一人前だよな。遅すぎたけどな」
好意的にとれば、男は大将のことをずっと心配していて、子どもができたことを無条件に喜んでいる、ということになる。
だが、男は、「俺とは大分差がついちまったなあ。3対1じゃあ、勝負にならないもんな。俺の方が上等だってことだ」と続けたのである。
そして、命令口調で「茶漬け遅いな。客が少ないんだから、早く出せないかね」と、カウンターを叩いたのだ。
冗談の口調では、なかった。
「奥さん、あんたも遅すぎ。子どもは、もっと早く産むもんだよ。35で初めてなんて、世間に申し訳ないだろ!」
大将は、きっと、この歪んだ優越感を持った男に、毎回のように言われて慣れていたのだろう。
「お待たせしました」
笑顔で、私たちの前に、定食を置いた。
だが、男は、くどかった。
「茶漬け、まだ? 仕込みは遅い。ガキも遅い。大丈夫かねえ、心配だよ」
相変わらず、大きな声だった。
結婚して、子どもができて一人前、という考え方の人は多い。
だから、政治家などが「つい本音で」その種のことを議場で言い放つのだろう。
今回のように、ヤジが問題視されて、それに対する批判の声が大きくなったが、裏を返せば、ヤジ騒動がなければ、いまだに「結婚して、子どもができて一人前」が、まかり通っていたのではないだろうか。
20年前に結婚した私の友人は、不妊治療をしたが、子どもに恵まれなかった。
彼ら夫婦は、実家に帰る度に、周囲から「子どもはまだ」の総攻撃を受けたらしい。
「不妊治療している」というと、まるで悪いことをしているかのように、「なんで? そんなことをしなくても、普通ならできるだろう」と白痴的な非難を浴びたのだという。
会社の上司などからは、酒の席で「こいつは、種なしだから」と無神経なことを言われたこともあったらしい。
「子どもができて一人前」という男社会のルールは、「跡継ぎ」を前提としたもので、「人間の幸福」を前提としたものではない。
要するに、武家社会の「お世継ぎ」意識から、何も変わっていない。
男の前に、鯛茶漬けが運ばれてきた。
また何か余計なことを言いそうな空気を察したのか、アリマさんが、大きな声で言った。
「あーあー、私も今年36かあ。独身だし、子どもはいないし、日本では私みたいなのは、人間扱いしてもらえないから、外国で暮らそうかなぁ」
そして、私の方を見て「アメリカ、イギリス、カナダ、イタリア。どこがいいですかねえ。そうだ! 私、大学時代、第2外国語がイタリア語だったから、イタリアがいいかも」と声を張り上げた。
その大声に、圧倒された私は、ああ、イタリアは、俺も好きだなあ。毎日、イタリアンが食えるなんて最高ですよ。でも、ここの肉じゃがも最高だけどね、と訳の分からないことを言った。
「確かに、このサバもうまいわ」
そして、大将に、「イタリアンでも、サバ料理ってありますよね」と話を振った。
「はい、香草を使った料理はうまいですよ」と、大将。
「トマト煮もいいと思いますよ」と奥さん。
話に乗り遅れないように、私も、サバのペペロンチーノは、作ったことあります、と割り込んだ。
10分以上、イタリアンの話題で盛り上がった。
さすがに、どんなに無神経な男でも、ここで「ヤジ」は、飛ばせなかったようだ。
無言で鯛茶漬けを食い終わると、すぐに店を出ていった。
ただ、次の日もまたやってきて、「歪んだ優越感」をまき散らすかもしれないが。
丁度、2人とも違う仕事をいただいて、帰るところだった。
2時を過ぎていたが、私は昼メシを食っていなかった。
お昼食いましたか、と聞いたら、「まだなんですよ」と30代半ばの女性の同業者が、答えた。
「近くの定食屋さんで、たべましょうか」と言われたので、腹をすかせた憐れな男は、即座に頷いた。
カウンターだけのこじんまりした店だった。
2時を過ぎていたせいか、客は他にいなかった。
アリマさん(同業者)は、「サバの味噌煮定食」を頼み、私は「肉じゃが定食」を頼んだ。
出来上がるまで、話をしようと思った。
私はお客様以外とは、仕事の話をしないようにしているので、「最近は、どこに行きましたか?」と聞いた。
以前、一度だけ、旅行が趣味だというのを聞いたことがあったから、一番、答えやすそうなことを話題にしたのだ。
アリマさんが、何かを言おうとしたとき、新しい客が入ってきた。
でかい声の男だ。
定連さんらしい。
「鯛茶漬け、ちょうだいよ」と大音量で言った。
私は突発性難聴の影響で、右耳が聞こえないので、大きな声で話してくれると有り難いのだが、世の中には限度というものがある。
限度を超えた声は、「騒音」でしかない。
その「騒音男」が、カウンター席側にいた店の女性に、「もう8ヶ月だっけ」と聞いた。
私は、女性のお腹を見る趣味がないので、女性が妊娠していることには気づかなかった。
8ヶ月と言えば、出っ張りが、かなり目立ってきていると思うが、見る趣味がないので、確認することはしなかった。
男が、カウンターの大将に「結婚して6年だろ?」と言った。
詮索するのは好みではないが、この場合、大将と妊婦さんは、ご夫婦だろう、と推測するのが自然だ。
「やっとできたんだもんなあ。俺なんか同じ6年前に結婚して、子ども3人だよ。これで、大将もやっと一人前だよな。遅すぎたけどな」
好意的にとれば、男は大将のことをずっと心配していて、子どもができたことを無条件に喜んでいる、ということになる。
だが、男は、「俺とは大分差がついちまったなあ。3対1じゃあ、勝負にならないもんな。俺の方が上等だってことだ」と続けたのである。
そして、命令口調で「茶漬け遅いな。客が少ないんだから、早く出せないかね」と、カウンターを叩いたのだ。
冗談の口調では、なかった。
「奥さん、あんたも遅すぎ。子どもは、もっと早く産むもんだよ。35で初めてなんて、世間に申し訳ないだろ!」
大将は、きっと、この歪んだ優越感を持った男に、毎回のように言われて慣れていたのだろう。
「お待たせしました」
笑顔で、私たちの前に、定食を置いた。
だが、男は、くどかった。
「茶漬け、まだ? 仕込みは遅い。ガキも遅い。大丈夫かねえ、心配だよ」
相変わらず、大きな声だった。
結婚して、子どもができて一人前、という考え方の人は多い。
だから、政治家などが「つい本音で」その種のことを議場で言い放つのだろう。
今回のように、ヤジが問題視されて、それに対する批判の声が大きくなったが、裏を返せば、ヤジ騒動がなければ、いまだに「結婚して、子どもができて一人前」が、まかり通っていたのではないだろうか。
20年前に結婚した私の友人は、不妊治療をしたが、子どもに恵まれなかった。
彼ら夫婦は、実家に帰る度に、周囲から「子どもはまだ」の総攻撃を受けたらしい。
「不妊治療している」というと、まるで悪いことをしているかのように、「なんで? そんなことをしなくても、普通ならできるだろう」と白痴的な非難を浴びたのだという。
会社の上司などからは、酒の席で「こいつは、種なしだから」と無神経なことを言われたこともあったらしい。
「子どもができて一人前」という男社会のルールは、「跡継ぎ」を前提としたもので、「人間の幸福」を前提としたものではない。
要するに、武家社会の「お世継ぎ」意識から、何も変わっていない。
男の前に、鯛茶漬けが運ばれてきた。
また何か余計なことを言いそうな空気を察したのか、アリマさんが、大きな声で言った。
「あーあー、私も今年36かあ。独身だし、子どもはいないし、日本では私みたいなのは、人間扱いしてもらえないから、外国で暮らそうかなぁ」
そして、私の方を見て「アメリカ、イギリス、カナダ、イタリア。どこがいいですかねえ。そうだ! 私、大学時代、第2外国語がイタリア語だったから、イタリアがいいかも」と声を張り上げた。
その大声に、圧倒された私は、ああ、イタリアは、俺も好きだなあ。毎日、イタリアンが食えるなんて最高ですよ。でも、ここの肉じゃがも最高だけどね、と訳の分からないことを言った。
「確かに、このサバもうまいわ」
そして、大将に、「イタリアンでも、サバ料理ってありますよね」と話を振った。
「はい、香草を使った料理はうまいですよ」と、大将。
「トマト煮もいいと思いますよ」と奥さん。
話に乗り遅れないように、私も、サバのペペロンチーノは、作ったことあります、と割り込んだ。
10分以上、イタリアンの話題で盛り上がった。
さすがに、どんなに無神経な男でも、ここで「ヤジ」は、飛ばせなかったようだ。
無言で鯛茶漬けを食い終わると、すぐに店を出ていった。
ただ、次の日もまたやってきて、「歪んだ優越感」をまき散らすかもしれないが。