長文で、失礼します。
菅義偉官房長官が、「安保反対は大きな誤解」と述べたという。
その記事を見て、本来は、誤解を与える方が悪いのではないかと私は思った。
最重要法案なのだから、法案を出した政府は、反対派の人たちに、その法案が日本国民に益があることをわかりやすく説明する義務がある。
その義務を政府側が果たしていないから、今いろいろな場所で国民が反対のデモをしている。
マスコミや有権者が「戦争法案」だと煽っているから誤解を生んでいるというなら、その誤解を解く努力をするのも政府の役目である。
「大きな誤解」などと、まるで反対する国民の方が悪い、というような奢った言い分は、森喜朗氏が五輪エンブレム盗用疑惑で「えらい目にあった」と他人事のように嘆くのと同様で、責任の意味がわかっていない。
また、菅氏は記者会見のとき、なぜいつもあんなにやる気のない声で、仏頂面で話すのだろう。
おそらく日本の政治家特有の本心を悟られたくないための「仮面」なのだろうが、たとえば、中国の女性報道官の堂々とした態度と比べると、その姿は私には器が小さくて臆病者に見える。
他にも高村副総裁の言う「私は大抵の憲法学者よりも考えてきた」の一見強気に見える発言も、私には痛々しく思える。
「大抵の憲法学者」の「大抵」は、あまりにも曖昧すぎて、最初から逃げを打っているとしか思えない。
揚げ足を取るようだが、自信があるのなら「安保法案を違憲と唱える全ての憲法学者」と言って、正々堂々と憲法学者たちの主張を論破すればいい。
頭のいい政治家先生なら、それくらいは出来て当然だろう。
全部の憲法学者とは言わないが、ぜひ「大抵の憲法学者」を国会に呼んで、論争を延々と繰り広げていただきたいと思う。
さらに、安部総理の言う「憲法学者と政治家の責任は違う」という、誰もが当たり前に思う主張の馬鹿馬鹿しさ。
政府が暴走しないように、憲法を遵守させる権利を国民は持っている。
そして、政治家は憲法の条文を拡大解釈していい権利を持っているが、承認するのは政治家ではなく国民である。
なぜなら、主権は国民にあるからだ。
選挙で選ばれた政治家は、政(まつりごと)を司る権利を国民と憲法から与えられているが、最後に審判するのは国民と憲法だ。
そして、当たり前のことだが、憲法学者も選挙権を持った国民なのである。
憲法学者が日本国民として、己の知識を昇華させて、政府の法案に異を唱える。
それは、憲法学者が彼の「責任」を全うして政府に問いかけているものである。
憲法学者がそうして「責任」を全うしようとしているのに、安倍氏が「俺たち政治家と憲法学者は違うんだよね」というのは、明確な「逃げ」ではないのか。
お互いの責任が違うのは、当たり前のことだ。
しかし、憲法学者たちが投げたボールをなぜか安倍氏は「違う」と言って取ろうとしない。
要するに、最初から議論する気などないのではないか。
負けるのが怖いから。
これは、私一人の感想だが、憲法論争に関して、安倍氏は臆病だと私は思っている。
覚悟があるのなら、憲法改正を国民投票にかけてみたらどうだろう。
3年前、負けを覚悟で野田元首相が総選挙に打って出たように、安倍氏も真正面から憲法改正を国民に問う覚悟が欲しい。
勝ち戦しかしたくないなら、国会のてっぺんから降りるべきだ。
彼が、安全保障関連法案にこだわる理由はわかりやすい。
世界の警察として、最近とみに衰弱してきた米国の手助けをしたくて仕方ないのが安倍氏の本心ではないのか、と私は邪推している。
だから、彼は負けるわけにはいかないのだろう。
日米同盟を今以上に強固なものにすること、米国に恩を売ること、それが安倍政権を長期化させる最大の方法だと彼は思っている。
彼の保守的な支持者たちも、無条件に盲目的にそれが当然だと思っている。
拙速を求められる安倍氏は、憲法学者の相手をしている余裕がない。
そして、国民の予想外の反発の相手をしている余裕もないのだろう。
だから、前回の選挙で「俺の政党にたくさんの議席を与えてくれたのは、俺にフリーハンドを与えたのと同じだ」と解釈して、問答無用で強行突破するつもりなのだと思う。
公明党という、肝心なときには物を言わない「平和の党」を標榜する政党も味方をしてくれていることだし。
そして、反対派の情緒的な反発など、法案が通れば跡形もなく消える、と高を括っているに違いない。
自民党と公明党が絶対多数を持っているいまこそ、躊躇なく「数と力こそが民主主義だ」の方式を貫くつもりだ。
そこには、権力者にとって、いくらでも肥大化させられる安全保障が、いびつな形でそびえ立っている。
それは、「戦争法案」ではないだろうが、少なくとも今までの日本より、はるかに火薬臭い日本に変化させる法案だ。
安倍晋三氏が政権のトップに立ったときから、この国は少しずつ火薬臭くなってきたと思っていたが、彼らは導火線を消すために立ち上がった人たちを「誤解」という言葉で糾弾し、議論を封じようとしている。
ただ、そんな自民党、公明党を選んだのは国民というのも紛れもない現実だから、それも民主主義の法則だと諦めるしかないのか。
一度火薬に火がついてしまったら、後に戻るのが容易ではないことは、過去の紛争、大戦が証明していると思うが。
最後に、自民党総裁選に関して、興味深いニュースを読んだ。
男の政治家たちが、安倍晋三氏の力に屈して、誰もが総裁選の立候補をやめようとしているとき、野田聖子氏が立候補の準備をしているというのだ。
男たちの誰もが、安倍氏の報復を恐れて及び腰のときに、立候補を計画している女性議員の存在は頼もしい。
おそらく結果的には、男の政治家と男社会の世論の風圧にさらされて立候補を断念、というのが現実的な選択になると思うが、その勇気は賞賛されるべきだと思う。
私には、今や政治の世界では、「男らしい」は、「臆病」の代名詞で、「女らしい」という表現が、「勇気」の象徴になっている気がしてならない。
菅義偉官房長官が、「安保反対は大きな誤解」と述べたという。
その記事を見て、本来は、誤解を与える方が悪いのではないかと私は思った。
最重要法案なのだから、法案を出した政府は、反対派の人たちに、その法案が日本国民に益があることをわかりやすく説明する義務がある。
その義務を政府側が果たしていないから、今いろいろな場所で国民が反対のデモをしている。
マスコミや有権者が「戦争法案」だと煽っているから誤解を生んでいるというなら、その誤解を解く努力をするのも政府の役目である。
「大きな誤解」などと、まるで反対する国民の方が悪い、というような奢った言い分は、森喜朗氏が五輪エンブレム盗用疑惑で「えらい目にあった」と他人事のように嘆くのと同様で、責任の意味がわかっていない。
また、菅氏は記者会見のとき、なぜいつもあんなにやる気のない声で、仏頂面で話すのだろう。
おそらく日本の政治家特有の本心を悟られたくないための「仮面」なのだろうが、たとえば、中国の女性報道官の堂々とした態度と比べると、その姿は私には器が小さくて臆病者に見える。
他にも高村副総裁の言う「私は大抵の憲法学者よりも考えてきた」の一見強気に見える発言も、私には痛々しく思える。
「大抵の憲法学者」の「大抵」は、あまりにも曖昧すぎて、最初から逃げを打っているとしか思えない。
揚げ足を取るようだが、自信があるのなら「安保法案を違憲と唱える全ての憲法学者」と言って、正々堂々と憲法学者たちの主張を論破すればいい。
頭のいい政治家先生なら、それくらいは出来て当然だろう。
全部の憲法学者とは言わないが、ぜひ「大抵の憲法学者」を国会に呼んで、論争を延々と繰り広げていただきたいと思う。
さらに、安部総理の言う「憲法学者と政治家の責任は違う」という、誰もが当たり前に思う主張の馬鹿馬鹿しさ。
政府が暴走しないように、憲法を遵守させる権利を国民は持っている。
そして、政治家は憲法の条文を拡大解釈していい権利を持っているが、承認するのは政治家ではなく国民である。
なぜなら、主権は国民にあるからだ。
選挙で選ばれた政治家は、政(まつりごと)を司る権利を国民と憲法から与えられているが、最後に審判するのは国民と憲法だ。
そして、当たり前のことだが、憲法学者も選挙権を持った国民なのである。
憲法学者が日本国民として、己の知識を昇華させて、政府の法案に異を唱える。
それは、憲法学者が彼の「責任」を全うして政府に問いかけているものである。
憲法学者がそうして「責任」を全うしようとしているのに、安倍氏が「俺たち政治家と憲法学者は違うんだよね」というのは、明確な「逃げ」ではないのか。
お互いの責任が違うのは、当たり前のことだ。
しかし、憲法学者たちが投げたボールをなぜか安倍氏は「違う」と言って取ろうとしない。
要するに、最初から議論する気などないのではないか。
負けるのが怖いから。
これは、私一人の感想だが、憲法論争に関して、安倍氏は臆病だと私は思っている。
覚悟があるのなら、憲法改正を国民投票にかけてみたらどうだろう。
3年前、負けを覚悟で野田元首相が総選挙に打って出たように、安倍氏も真正面から憲法改正を国民に問う覚悟が欲しい。
勝ち戦しかしたくないなら、国会のてっぺんから降りるべきだ。
彼が、安全保障関連法案にこだわる理由はわかりやすい。
世界の警察として、最近とみに衰弱してきた米国の手助けをしたくて仕方ないのが安倍氏の本心ではないのか、と私は邪推している。
だから、彼は負けるわけにはいかないのだろう。
日米同盟を今以上に強固なものにすること、米国に恩を売ること、それが安倍政権を長期化させる最大の方法だと彼は思っている。
彼の保守的な支持者たちも、無条件に盲目的にそれが当然だと思っている。
拙速を求められる安倍氏は、憲法学者の相手をしている余裕がない。
そして、国民の予想外の反発の相手をしている余裕もないのだろう。
だから、前回の選挙で「俺の政党にたくさんの議席を与えてくれたのは、俺にフリーハンドを与えたのと同じだ」と解釈して、問答無用で強行突破するつもりなのだと思う。
公明党という、肝心なときには物を言わない「平和の党」を標榜する政党も味方をしてくれていることだし。
そして、反対派の情緒的な反発など、法案が通れば跡形もなく消える、と高を括っているに違いない。
自民党と公明党が絶対多数を持っているいまこそ、躊躇なく「数と力こそが民主主義だ」の方式を貫くつもりだ。
そこには、権力者にとって、いくらでも肥大化させられる安全保障が、いびつな形でそびえ立っている。
それは、「戦争法案」ではないだろうが、少なくとも今までの日本より、はるかに火薬臭い日本に変化させる法案だ。
安倍晋三氏が政権のトップに立ったときから、この国は少しずつ火薬臭くなってきたと思っていたが、彼らは導火線を消すために立ち上がった人たちを「誤解」という言葉で糾弾し、議論を封じようとしている。
ただ、そんな自民党、公明党を選んだのは国民というのも紛れもない現実だから、それも民主主義の法則だと諦めるしかないのか。
一度火薬に火がついてしまったら、後に戻るのが容易ではないことは、過去の紛争、大戦が証明していると思うが。
最後に、自民党総裁選に関して、興味深いニュースを読んだ。
男の政治家たちが、安倍晋三氏の力に屈して、誰もが総裁選の立候補をやめようとしているとき、野田聖子氏が立候補の準備をしているというのだ。
男たちの誰もが、安倍氏の報復を恐れて及び腰のときに、立候補を計画している女性議員の存在は頼もしい。
おそらく結果的には、男の政治家と男社会の世論の風圧にさらされて立候補を断念、というのが現実的な選択になると思うが、その勇気は賞賛されるべきだと思う。
私には、今や政治の世界では、「男らしい」は、「臆病」の代名詞で、「女らしい」という表現が、「勇気」の象徴になっている気がしてならない。