リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

戦争ゾンビ

2015-09-20 08:10:00 | オヤジの日記
当然のことのように、安全保障関連法案が可決された。

全有権者の25パーセントの投票を得て衆院の4分の3を自民党が占めたときに、結末は決まっていたようなものだ。
だから、驚きはなかった。

ただ、国民の強い抵抗は意外だった。

安倍晋三氏に、多大な議席を与えて「自民党万歳」と唱えている人の声の方が大きいと思っていたからだ。

特に、高校生や大学生が行動を起こしたことに関しては、まったく予想していなかった。
それは、嬉しい現象だった。

昔から私は、権力に楯突く人が好きだった。
権力者は批判されるべきだ。
そうでなければ、己の力を過信して自分が「万能の王様」だと勘違いをしてしまう。

ただ、若者がデモに参加したことに異論を唱える人もいる。
毎日新聞のサイトで、松本人志氏が、若者たちのデモ参加に対して、「ニュースに誘導されている」とコメントしたという記事を読んだ。

しかし、それは違うだろう、と私は思った。

たとえば、自民党の支持者の何割かは、毎回の選挙で、自民党議員の利益誘導によって自民党に投票している。

そして、公明党の支持者は、宗教の教義に誘導されて律儀に票を投じ続けている。

あるいは、形は変わるが、ヘイトスピーチなども自民党タカ派たちの近隣諸国に対する威勢のいい排他的な発言に誘導されているのではないか、と私は疑っている。

そんな風に、同じようにみな誘導されているのだから、若者だけを批判するのはお門違いというものだ。

また、同じ松本人志氏のコメントで「日本は平和ボケ。中国の脅威を考えたら」というのが、J-CASTニュースに載っていた。

私は、その種の指摘を毎回理解できないでいるのだが、平和ボケの何がいけないのだろうか。

地球上の200以上ある国の中で、平和を享受している国は数えるほどしかない。
その平和な国は、賞賛されこそすれ、「平和ボケ」と嘲笑われる謂れはない、と私は思うのだ。

平和ボケを論ずるとき、私の友人の自民党支持者は、「自分の国は自分で守るのが本筋だ」と言うのが常である。
そして、「他の国に助けてもらうにしても同盟国と対等の装備を持つべきだ」とも言っていた。

この場合、対等の装備を持つことは、イコール憲法違反なのだが、そのことはとりあえず保留しておく。

日本は、この70年間、どこからも攻められず、一人も殺さず、一人も殺さなかった。
それは、55年間続いた日米安全保障条約があったからだ。
60年安保、70年安保では国内で暴動に近いデモが起こったが、その熱いデモが、タカ派政治家にブレーキをかけて、憲法を守るための重しになったと私は思っている。

条約は、国家間の契約として一番重いものである。

その中に、「日本は防衛力を向上させる」というのがある。
「攻撃力」ではなく「防衛力」。
つまり、アメリカは、日本は専守防衛の国だと定義している。

そして、日本に駐留したアメリカ軍は、他国から日本へ武力侵攻があった場合は、援助するということも定義されている。
その代わりに、日本は、アメリカ駐留軍に土地を与え、予算も計上している。

本当はもっと複雑なのだが、単純に考えれば、日米同盟は「持ちつ持たれつ」の関係といっていい。
その「持ちつ持たれつ」で、長いこと日本は「平和ボケ」と嘲笑われるほど平和を享受できる国になった。

それを意図的に否定することに意味があるのか。
紛争国の国民は、みな平和を願っていると私は思っているのだが。
平和は、紛争国の人にとって、嘲笑う対象のものではないだろう。

だから、「平和ボケ」と日本国民を一刀両断する意味が、私には理解できないのだ。


日米安全保障条約は、幕末の不平等条約とは違って、対等の国家間契約である(細かい部分では無理もあるが)。
つまり、フィフティ・フィフティの関係。

今回、集団的自衛権を容認したことで、日本側は紛争地域に人を派遣し、武器を供給することになるかもしれない。
そうなると、それはフィフティ・フィフティではなく、間違いなく日本側の供給過剰になる。
安倍政権と自民党支持者、平和の党・公明党支持者たちは、日本が損をする道を選んだということだ。

そして、紛争に足を踏み込んだ結果、テロに遭う確率も今までのように無風というわけにはいかなくなるだろう。
血の匂いのする風が、我々日本国民の肌を撫でることも増えてくるに違いない。

そうなると、70年続いた平和国家に導火線を引き込んだ政治家たちは、もう国会で居眠りなどしていられなくなる。

そして、私はそのことを危惧しているのだ。
神聖な職場で居眠りをする「平和ボケ」の与党政治家が、はたして有事に役に立つものなのか。
私は、そこに疑問を感じている。


いま「中国の脅威が」という、いかにも具体性のありそうな、しかし曖昧な危機感を自ら大脳皮質に埋め込んだコメンテイターや政治評論家、軍事評論家が、「平和ボケ日本」を嘲笑し、扇動している。

中国を仮想敵国にするのは構わないし、「近隣諸国の資源は、みんな俺のもの」的な横暴な中国を牽制するのはいいが、「はじめに武力ありき」の政策が、外交上手の中国に通用するかどうか、私は疑問を持っている。

かつてアメリカは竹島が韓国に占領されたとき、何もしてくれなかった。
色丹島がソ連に占領されたときも見て見ぬふりだった。

中国を仮想敵国として、その敵国が「日本海は俺のもの」と言い出したとする。
そのとき、安倍氏率いる有事政権が「自国を守るため」に、軍隊を進行させたとき、後ろを見たらアメリカは横を向いていた、という事態にならないとも限らない。

それは、馬鹿げた「仮定の話」だが、安全保障関連法案、集団的自衛権で自民党と公明党が想定するものも、同じように「仮定の話」なのである。

そして、そのことは、74年前、「もしアメリカが侵攻してきたら」という「仮定の話」をプログラムし間違えて、「日本軍」が真珠湾を攻撃した歴史と不思議なほど似かよっている。

当時、外交よりも武力を選んだ軍人たちのDNAが、70年の時を経て、自民党タカ派政治家たちに受け継がれるという滑稽さは、平和ボケよりはるかにタチが悪い。

それを私は「戦争ゾンビ」と呼んでいる。


この生き返った戦争ゾンビたちは、日本をいったいどこへ連れていこうというのか。