木曜日の夜、稲城市の同業者から呼ばれたので、金曜日朝8時半に行ってきた。
仕事をシェアしようというのである。
朝メシを食うヒマがなかったんです、と控えめに言ったら、奥さんがオニギリを作ってくれた。
オニギリを食いながら、打ち合わせ。
しかし、一つ気になったのは、仕事場でテレビが付けっぱなしだったこと。
我が家では、メシの最中にテレビは見ないし、仕事のとき、テレビを付けることもない。
ただ、人様の家の風習をとやかく言うつもりは、私にはない。
この方式で能率が上がるという人も沢山いらっしゃることは否定しない。
人はそれぞれだ。
そのとき画面に映っていたのは、テレビ朝日の番組だった。
司会は羽鳥慎一氏。
30分ほどの打ち合わせを終えて、雑談をしながら、テレビを目で追った。
そのとき、私は久しぶりと言えるほどの居心地の悪さを感じたのである。
画面には、コメンテイターとして長嶋一茂氏が映っていた。
その長島氏の態度と口調が、私を居心地悪くさせたのだ。
腕を組みながら、コメントの中で「あのさ~」「それはさ~」「~でさ~」という語尾に「さ~」を付ける長島氏を見て、言い方は悪いが、どこのチンピラが話しているのか、と思ったのである。
長島氏は、おそらく為になるコメントを述べたと思うのだが、態度と口調が気になって、内容がまったく頭に入ってこなかった。
長島氏は、人気者である。
だから、その態度と口調を多くの視聴者は彼の個性と受け止めて、きっと彼のコメントを楽しみにしているのだと思う。
だから、コメンテイターとしてテレビに出ていられるのだろう。
だが、私はダメだった。
丁寧な言葉で当たり障りのないことを言え、とは思わないが、「もう少しましな日本語」を使わない限り、私はこれからも長島氏のコメントを受け付けないだろう。
同業者に、長島氏の態度や口調のことを聞いたら、「俺、もう慣れてしまったんで、気になりませんねえ」と言われた。
そして、同業者は、こうも言ったのだ。
「世間から注目されたいために、過激なことを言って、炎上されることを望んでいる、あざといコメンテイターよりは、長島の方が素直で、俺は好感持てますよ」
同業者に言わせると、テレビなどで見かける芸人崩れ、スポーツ選手崩れ、文化人崩れ、評論家崩れの多くは「世間から注目されたいために、過激なことを言って、炎上されることを望んでいる、あざといコメンテイター」ばかりなのだという。
まあ、彼のご意見は、わからないではない。
聞く側もコメンテイターにおもねって「ご意見番」として、まるで崇め立てるかのように、ご意見を拝聴するから、それが彼らには快感になっているのかもしれない。
そんな現象の中で、普通のことを言った場合、世間からの反応が薄くなることを彼らは経験則で知るのだろう。
普通のコメントをしたら、誰も俺を振り向いてくれない。
そこで、その言動の過激さのボルテージを徐々に上げていくことになる。
その結果の「批判」と「炎上」。
その「批判」と「炎上」を彼らは、自分のコメントが世間に浸透している、と好意的に判断する。
要するに、批判も「俺のコメントへの興味」と考えているのかもしれない。
つまり、彼らにとって、それは「おいしい状態」だ。
私が得意げにそう言ったら、同業者は、「そこまでは、俺、考えていませんよ」と苦笑いした。
「ただ、目立ちたいために、必要以上に過激なことを言っているな、と思うだけです」
いずれにしても、そんな「ご意見」に内容はない。
少し話は飛んで・・・最近の記事だが、慶応大と国際大の教授が、4万人の人にインターネットについてアンケートをとった結果が出ていた。
「あなたは、『炎上』に参加したことがありますか?」
全体の0.7%が、「はい」と答えたらしい。
つまり、この1年間で、1000人中7人が炎上コメントを書いた経験があったらしい。
逆に考えると993人は、炎上に参加しなかったということ。
たった0.7%の意見をインターネット・メディアでは大きく扱って、まるでそれが主流のような受け止め方をする。
それは、まったく冷静な判断とは言えない。
統計学なら、極めて「少数意見」と判断して、小さい注釈付きで扱われる程度の数だ。
要するに、稀少な意見だ。
それは、炎上商法というほどの盛り上がりはなくて、全体の1%しかないものに価値はない、と捉えるのが常識だ。
タレント崩れ、文化人崩れ、評論家崩れのコメントが、その稀少意見に入るかどうかはわからない。
ただ、たかだか1%程度の炎上好きな人にしか、その種の過激な意見は浸透していないのではないかという推測はできる。
「まあ、闇の中だけで蠢く偏った意見ですからね。それは、都市伝説みたいなものでしょう」
同業者が、「もうこの話は終わり」というように、最後のオニギリを頬張ったあと、テレビを消した。
長嶋一茂氏の腕組みをしながらの「~のさあ」がなくなっただけで、私の心は落ち着きを取り戻した。
口の中に、オニギリの具のエビマヨネーズの風味だけが残って、それは以外と心地いいものだった。
仕事をシェアしようというのである。
朝メシを食うヒマがなかったんです、と控えめに言ったら、奥さんがオニギリを作ってくれた。
オニギリを食いながら、打ち合わせ。
しかし、一つ気になったのは、仕事場でテレビが付けっぱなしだったこと。
我が家では、メシの最中にテレビは見ないし、仕事のとき、テレビを付けることもない。
ただ、人様の家の風習をとやかく言うつもりは、私にはない。
この方式で能率が上がるという人も沢山いらっしゃることは否定しない。
人はそれぞれだ。
そのとき画面に映っていたのは、テレビ朝日の番組だった。
司会は羽鳥慎一氏。
30分ほどの打ち合わせを終えて、雑談をしながら、テレビを目で追った。
そのとき、私は久しぶりと言えるほどの居心地の悪さを感じたのである。
画面には、コメンテイターとして長嶋一茂氏が映っていた。
その長島氏の態度と口調が、私を居心地悪くさせたのだ。
腕を組みながら、コメントの中で「あのさ~」「それはさ~」「~でさ~」という語尾に「さ~」を付ける長島氏を見て、言い方は悪いが、どこのチンピラが話しているのか、と思ったのである。
長島氏は、おそらく為になるコメントを述べたと思うのだが、態度と口調が気になって、内容がまったく頭に入ってこなかった。
長島氏は、人気者である。
だから、その態度と口調を多くの視聴者は彼の個性と受け止めて、きっと彼のコメントを楽しみにしているのだと思う。
だから、コメンテイターとしてテレビに出ていられるのだろう。
だが、私はダメだった。
丁寧な言葉で当たり障りのないことを言え、とは思わないが、「もう少しましな日本語」を使わない限り、私はこれからも長島氏のコメントを受け付けないだろう。
同業者に、長島氏の態度や口調のことを聞いたら、「俺、もう慣れてしまったんで、気になりませんねえ」と言われた。
そして、同業者は、こうも言ったのだ。
「世間から注目されたいために、過激なことを言って、炎上されることを望んでいる、あざといコメンテイターよりは、長島の方が素直で、俺は好感持てますよ」
同業者に言わせると、テレビなどで見かける芸人崩れ、スポーツ選手崩れ、文化人崩れ、評論家崩れの多くは「世間から注目されたいために、過激なことを言って、炎上されることを望んでいる、あざといコメンテイター」ばかりなのだという。
まあ、彼のご意見は、わからないではない。
聞く側もコメンテイターにおもねって「ご意見番」として、まるで崇め立てるかのように、ご意見を拝聴するから、それが彼らには快感になっているのかもしれない。
そんな現象の中で、普通のことを言った場合、世間からの反応が薄くなることを彼らは経験則で知るのだろう。
普通のコメントをしたら、誰も俺を振り向いてくれない。
そこで、その言動の過激さのボルテージを徐々に上げていくことになる。
その結果の「批判」と「炎上」。
その「批判」と「炎上」を彼らは、自分のコメントが世間に浸透している、と好意的に判断する。
要するに、批判も「俺のコメントへの興味」と考えているのかもしれない。
つまり、彼らにとって、それは「おいしい状態」だ。
私が得意げにそう言ったら、同業者は、「そこまでは、俺、考えていませんよ」と苦笑いした。
「ただ、目立ちたいために、必要以上に過激なことを言っているな、と思うだけです」
いずれにしても、そんな「ご意見」に内容はない。
少し話は飛んで・・・最近の記事だが、慶応大と国際大の教授が、4万人の人にインターネットについてアンケートをとった結果が出ていた。
「あなたは、『炎上』に参加したことがありますか?」
全体の0.7%が、「はい」と答えたらしい。
つまり、この1年間で、1000人中7人が炎上コメントを書いた経験があったらしい。
逆に考えると993人は、炎上に参加しなかったということ。
たった0.7%の意見をインターネット・メディアでは大きく扱って、まるでそれが主流のような受け止め方をする。
それは、まったく冷静な判断とは言えない。
統計学なら、極めて「少数意見」と判断して、小さい注釈付きで扱われる程度の数だ。
要するに、稀少な意見だ。
それは、炎上商法というほどの盛り上がりはなくて、全体の1%しかないものに価値はない、と捉えるのが常識だ。
タレント崩れ、文化人崩れ、評論家崩れのコメントが、その稀少意見に入るかどうかはわからない。
ただ、たかだか1%程度の炎上好きな人にしか、その種の過激な意見は浸透していないのではないかという推測はできる。
「まあ、闇の中だけで蠢く偏った意見ですからね。それは、都市伝説みたいなものでしょう」
同業者が、「もうこの話は終わり」というように、最後のオニギリを頬張ったあと、テレビを消した。
長嶋一茂氏の腕組みをしながらの「~のさあ」がなくなっただけで、私の心は落ち着きを取り戻した。
口の中に、オニギリの具のエビマヨネーズの風味だけが残って、それは以外と心地いいものだった。