16年ぶりに埼玉から東京へ帰ってきてから、6年が過ぎた。
埼玉でフリーランスをしていたときのお得意先は14社。
個人の仕事にしては、顧客数は多い方ではないだろうか。
だが、数は多くても優良物件は少なかった。
半分以上が、零細企業の綱渡り会社だったから、支払いが遅れることがよくあった。
そして、何の前触れもなく倒産した。
信じられないことに、1年に3社が倒産して70万円以上の請け負い代金を踏み倒されたこともあった。
その度に、ヨメから「どうすんのよ! どうすんのよ!」と責められた。
まあ、悪いのは、俺だから・・・・・、仕方ないよね。
・・・とは言っても、心身ともに消耗した。
東京に帰るに関しては、理由があったが、ここでは省く。
東京に帰るとき、得意先の14社のうち、ただ消耗するだけの仕事を出す会社は切ることにした。
また、年に4、5回仕事を出してくれる会社でも、仕事を出す態度が気に食わない会社は切ることにした。
気持ちよく仕事をしたかったからだ。
(ガキの偉そうな態度ほど、腹が立つものはない)
その結果、5社だけが残った。
5社だけで、生きて行くことにした。
当然のことながら、生活は苦しくなった。
しかし、意に添わない仕事をするというストレスからは解放された。
ヨメからは、相変わらず「将来のビジョンがない」と責められたが、子どもたちは、忍耐強くビンボーに立ち向かってくれた。
それが、救いだった。
不思議なことに、ビンボー生活をしながら、ボランティアでご老人たちにパソコンの操作を教えているうちに、人から仕事を紹介してもらえるようになった。
自分は何もしていないのに、仕事が舞い込んでくるようになったのだ。
それは、「幸運」としか言いようのない不思議な現象だった。
少しずつ増えて、得意先が10社になった。
どこもが優良な得意先だ。
埼玉のときは当たり前のようにあった入金の遅滞が、まったくなくなった。
計算が立つようになった。
埼玉の時の14社よりは減ったが、いま収益は、埼玉の時より3割以上増えていた。
埼玉時代の私は、「ウルトラ無能」だった。
それが今、「普通の無能」になった。
そのなかで、一番変わったのは、保険だ。
埼玉の頃は、最低限の保険しか選べなかった。
しかし、今は、身分不相応なほどの保険に入っていた。
いまさら、マイホームは無理なので、保険で確かなものを家族に残したいと思ったのだ。
それは、家族への「罪ほろぼし」と言ってよかった。
保険金しか残せないというのは、考えようによっては悲しいと感じるかもしれないが、私にはその方法しかなかった。
だから、その選択に後悔はない。
毎月の保険金は負担ではあるが、「罪ほろぼし」と考えるなら、我慢できる。
ただ、私はうっかり者だ。
保険に「がん保証」をつけるのを忘れた。
6年前、ひきこもりの姉が盲腸がんになったとき、多額の医療費がかかった。
手術費用、入院費用、抗がん剤など。
そのとき私は、母親の老後の貯金を使うのが嫌だったので、友人のテクニカルイラストの達人に頼った。
彼に、金を借りたのだ。
普通の人なら、貸してくれないような高額な金を貸してもらった。
(それは、昨年の5月に返済し終わった)
その苦しさを知っていたので、私はいまがん保険に入ることを考えていた。
家族に、治療費の負担をかけたくなかったからだ。
いま、テレビでよく宣伝している会社のパンフレットを取り寄せて熟考しているところだ。
毎月の支払額は増えるが、それは無駄になるものではない。
しかも毎月の保険料を支払うたびに、私の命の炎が燃えるというのが、とても面白い。
毎月、「罪ほろぼし」を実感できるのも、なんか面白い。
今の私は、保険金を支払うために働いているようなものだ。
それも、なんか面白い。
いま初めて、まともな人間になったような気がして、嬉しい。
埼玉でフリーランスをしていたときのお得意先は14社。
個人の仕事にしては、顧客数は多い方ではないだろうか。
だが、数は多くても優良物件は少なかった。
半分以上が、零細企業の綱渡り会社だったから、支払いが遅れることがよくあった。
そして、何の前触れもなく倒産した。
信じられないことに、1年に3社が倒産して70万円以上の請け負い代金を踏み倒されたこともあった。
その度に、ヨメから「どうすんのよ! どうすんのよ!」と責められた。
まあ、悪いのは、俺だから・・・・・、仕方ないよね。
・・・とは言っても、心身ともに消耗した。
東京に帰るに関しては、理由があったが、ここでは省く。
東京に帰るとき、得意先の14社のうち、ただ消耗するだけの仕事を出す会社は切ることにした。
また、年に4、5回仕事を出してくれる会社でも、仕事を出す態度が気に食わない会社は切ることにした。
気持ちよく仕事をしたかったからだ。
(ガキの偉そうな態度ほど、腹が立つものはない)
その結果、5社だけが残った。
5社だけで、生きて行くことにした。
当然のことながら、生活は苦しくなった。
しかし、意に添わない仕事をするというストレスからは解放された。
ヨメからは、相変わらず「将来のビジョンがない」と責められたが、子どもたちは、忍耐強くビンボーに立ち向かってくれた。
それが、救いだった。
不思議なことに、ビンボー生活をしながら、ボランティアでご老人たちにパソコンの操作を教えているうちに、人から仕事を紹介してもらえるようになった。
自分は何もしていないのに、仕事が舞い込んでくるようになったのだ。
それは、「幸運」としか言いようのない不思議な現象だった。
少しずつ増えて、得意先が10社になった。
どこもが優良な得意先だ。
埼玉のときは当たり前のようにあった入金の遅滞が、まったくなくなった。
計算が立つようになった。
埼玉の時の14社よりは減ったが、いま収益は、埼玉の時より3割以上増えていた。
埼玉時代の私は、「ウルトラ無能」だった。
それが今、「普通の無能」になった。
そのなかで、一番変わったのは、保険だ。
埼玉の頃は、最低限の保険しか選べなかった。
しかし、今は、身分不相応なほどの保険に入っていた。
いまさら、マイホームは無理なので、保険で確かなものを家族に残したいと思ったのだ。
それは、家族への「罪ほろぼし」と言ってよかった。
保険金しか残せないというのは、考えようによっては悲しいと感じるかもしれないが、私にはその方法しかなかった。
だから、その選択に後悔はない。
毎月の保険金は負担ではあるが、「罪ほろぼし」と考えるなら、我慢できる。
ただ、私はうっかり者だ。
保険に「がん保証」をつけるのを忘れた。
6年前、ひきこもりの姉が盲腸がんになったとき、多額の医療費がかかった。
手術費用、入院費用、抗がん剤など。
そのとき私は、母親の老後の貯金を使うのが嫌だったので、友人のテクニカルイラストの達人に頼った。
彼に、金を借りたのだ。
普通の人なら、貸してくれないような高額な金を貸してもらった。
(それは、昨年の5月に返済し終わった)
その苦しさを知っていたので、私はいまがん保険に入ることを考えていた。
家族に、治療費の負担をかけたくなかったからだ。
いま、テレビでよく宣伝している会社のパンフレットを取り寄せて熟考しているところだ。
毎月の支払額は増えるが、それは無駄になるものではない。
しかも毎月の保険料を支払うたびに、私の命の炎が燃えるというのが、とても面白い。
毎月、「罪ほろぼし」を実感できるのも、なんか面白い。
今の私は、保険金を支払うために働いているようなものだ。
それも、なんか面白い。
いま初めて、まともな人間になったような気がして、嬉しい。