リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

上を向いて歩こう

2018-01-14 06:08:00 | オヤジの日記

 毎年のことだが、正月には大学時代の後輩カネコの娘ショウコがやって来る。

 

ガキを二人連れてやってくるのだ。

お年玉を目当てに。

27歳の人妻に、果たしてお年玉は必要なのだろうか。

それを考えることに意味はない。

だって、強引にお年玉を奪っていくのだから。

ショウコとガキ二人分のお年玉を渡し、ショウコから私の子ども二人分のお年玉をもらう。

まあまあ、おあいこかな、と納得するしかない。

 

ロイヤルホストで、高級ハンバーグを食いながら「夏帆ちゃん、卒業だよね」とショウコが言う。

そうだ。我が娘は今年大学を卒業するのだ。

「卒業旅行は、どうするの?」

大親友のミーちゃんと香港のディズーニーランドに行くらしい。本当はアメリカのディズーニーランドに行きたかったが、金がかかるので香港で我慢したようだ。

 

「あたし、卒業旅行に行ってないんだよね」

それはそうだ。高校卒業と同時に結婚し、大学3年で子どもを産んだショウコには、卒業旅行に行く余裕はなかっただろう。

卒業旅行よりもガキの子育てと学業が優先だ。

「サトルさんは、偉そうにオーストラリアに行ったんだよね」

偉そうではないどね。

 

今はオーストラリアに行くのは簡単だし、航空運賃も安いようだが、私の大学時代は往復の航空運賃が100万近くかかった。

しかも「白豪主義」という大きな壁があった。

建前的には、そのとき白豪主義は終わっていたが、まだあちらこちらに、その名残はあった。

当時のオーストラリアは、白人がまるで世界の中心のような社会だったのだ。

一応、日本人は「名誉白人」という扱いを受けていたようだが、私は極々たまにしか、その扱いを受けた記憶がない。

だから、行く先々で、「おまえ、チャイニーズかよ」という扱いを受けた。

 

色々な店で、来店拒否にあった。

「白人しか認めねえよ」

ただ色素が薄いだけで、何が偉いんだろう。

まともに受け入れてくれる店は、2店に1店くらいだった。

受け入れてくれた店でも、ステーキを頼むと、後から来た白人の方が早くステーキが運ばれて、同じものを注文した私のステーキが後から来た。しかも、私の方が明らかに肉の大きさが違うし。

それが当たり前の「白豪主義」の名残だった。

ホテルも明らかに粗末なものをあてがわれた。

 

宗主国・イギリスに頭が上がらないから、彼等は、自分より下の人種をマウントすることでしか自分たちのアイデンティティを保てなかったのだろう。

だから、アボリジニやアジア人をマウントしたのだ。

これは偏見かもしれないが、オーストラリア人の中でも教養の高い人は、とても友好的だった。

しかし、教養の低い人は、異邦人を差別化する確率が高かった。

子どもも「あいつ、カラーズだぜ!」と私を指さすことがあった。

子どもは、知識が薄い。そして、親の影響を色濃く受けている。

親が無知なら、子どもも無知だ。だから、差別が蔓延する。

これは、日本も変わらない。

どの国も同じだ。それが常識なら受け入れるしかない。

我慢して40日間、差別社会の中で旅をした。

 

帰りの航空運賃を残して、あとの金を使いきるまでオーストラリアにいようと思った。

それは、理不尽な白人差別社会に対する意地だった。

メルボルンの公園で、「差別大国」を呪いながら、物憂い気分で、呆れるほどキレイな青い空を見上げていた。

そのとき、70過ぎの老人に、「あんた、チャイニーズかい?」と聞かれた。

面倒くさくなったので、「ああ、チャイニーズだよ」と答えた。

「そうかい、この国でチャイニーズが生きていくのは大変だよな」と老人は言って、一枚の紙をくれた。

それは、新しくできたバーの無料飲料の券だった。

それを持っていくとウィスキーが一杯無料で飲めるというものだ。

「チャイニーズに飲ませくれるかは、わからねえけどな」と老人は、肩をすくめながら言った。

期待はしなかった。

しかし、「差別社会」に挑戦するように、私はその夜、そのバーに行ってみた。

 

券を見せると、白人のバーテンダーは、普通にウィスキーを出してくれた。

そして、隣に座った30代の太った男は、「きみ、チャイニーズかい?」と笑顔で話しかけてくれた。

いや、ジャッパニーズだよ。

「おお、俺は日本は大好きだよ。船旅で寄ったことがある。とても親切にしてもらったぜ」

酒を奢ってくれた。

それだけで、涙が出た。

40日以上の旅で、オーストラリア人に親切にしてもらったのは、数回だ。

しかし、隣に座った男は、「なあ、兄弟。君は、この国の旅で苦労を味わっただろう。悪いな。この国は、厄介な国なんだ。でも、決して悪い国じゃない。俺は、君にいい思い出を残して、国に帰って欲しいんだ。だって、俺はこの国が大好きだからさ」と私の肩を抱いて、ウィスキーを3杯も奢ってくれた。

 

そのあと、店の隅に置かれたアップライトのピアノに向かって、男は歩いていった。

そして、男は弾き始めたのだ。

「上を向いて歩こう」

旋律は、若干乱れていたが、それはまさしく「上を向いて歩こう」だった。

 

その旋律を聴いて、泣いた。

思わず涙があふれた。

その旋律を聴いたとき、日本に帰ろう、と思った。

もう充分だ。俺は差別主義の国と40日以上闘った。

俺は勝った、と思った。

異国の旅先で勝った負けたなど、馬鹿馬鹿しい話だが、当時の私はそう思った。

 

私の卒業旅行は、そんな馬鹿馬鹿しい旅だった。

 

ショウコが言う。

「うん、バカだよね。サトルさんらしい、馬鹿馬鹿しさだよね。でも、あたしは、嫌いじゃないよ」

 

 

新年早々、30歳以上下の女の子に褒めてもらった。

とても居心地が悪い。