空気が入れ替わった。
家の窓をすべて開けたのだ。
空からは、ハラハラとまばらに雪が落ちてきた。
初雪か。
世田谷区池尻。
大学時代の同級生の家だった。
もう5年、人が住んでいない家。
「5年経ったら、更地にして手放そうと思っていたんだ。区切りがいいだろ。最後に家を見に行かないか」
友人のタチバナに誘われた。
タチバナは、この家に小学校3年から、結婚して家を出た30歳まで住んでいた。両親とタチバナ、5歳違いの弟と4人だった。
私は、タチバナの両親を親しみを込めて「おやっさん」「おっかさん」と呼んでいた。
おやっさんは、私の父親がわりの2人の大人のうちの一人だった。
一人は、世田谷区下馬に住んでいた叔父だ。ただ、叔父は、私が12歳のときに死んでしまったので、大学2年からは、おやっさんだけが父親がわりになった。
大学2年のとき、友だちと4人でタチバナの家にお邪魔した。スキヤキを食わせてくれると言うので、嬉々としてタチバナの家に行った。
三軒茶屋寄りの住宅街の一角に、タチバナの家はあった。二階建て。出っ張りの少ない四角い木造の家だった。そして、敷地内には、花があふれるほどの広い庭があった。
南に面した一階にはガラス作りの窓がせり出していた。サンルームだった。そこにも、たくさんの花があった。
花の家。
私は、それ以来、タチバナの家を「花の家」と呼んだ。
初めて、おやっさんの家でスキヤキを食わせてもらってから数日経った日に、タチバナから言われた。
「また、おまえを連れてきてくれって、親父が言うんだよ。お前だけでいいって。今度は、豚肉のスキヤキを食わせてやるって」
初めてスキヤキを食わせてもらったとき、私は、我が家ではスキヤキは豚肉なんですよ。牛肉は、疲労回復には効き目がないんです、と生意気な持論を披露した。
中学の頃から陸上部に所属していた私は、自分の体を実験道具にして、練習方法や食事の効果などを研究していた。
疲れは怪我につながる。無駄な疲れを残さないために、どんな練習をして何を食えばいいかを独自に考えながら、私はトレーニングの日々を過ごした。
その結果、私にとって、牛肉は役にたたない食い物だということがわかった。牛を食ったときと豚を食ったときの疲労感が、明らかに違ったのだ。
もちろん、専門家から見たら、そんなデタラメな! という異論はあるかもしれない。専門家のご意見は、ありがたく拝聴するが、走るのは私であって、専門家ではない。
だから、私は私が身をもって実験した理論を尊重する。何があっても肉は豚だ。牛は、私には役にたたない。
そんなことを牛のスキヤキを食いながら、タチバナの父親に熱弁した。
「おもしれえな、おまえさん」と感心された。
それ以来、タチバナの家でご馳走になるスキヤキは、豚が主役になった。みんなで「トンスキ」と呼んだ。
「トンスキを食べるようになってから、心なしか疲れを感じなくなったよ」と、おやっさん。
それは・・・気のせいだと思いますけどね。
なぜかわからないが、おやっさんは、自分の息子の友だちのなかで、特別私を気にかけてくれた。
私がいまのヨメと結婚するとき、ヨメの両親の反対を受けたので、未熟な私たちは神戸に駆け落ちをした。
もちろん、無計画にではなく、職場も住まいも確保した上での駆け落ちだった。
そのとき、「おまえら、大バカものだな」とおやっさんに叱られたが、おやっさんは、ときどき私たちの様子を見に、神戸まで来てくれた。
そして、布団と冷蔵庫、ラジカセしかない新居を憐れんで、電子レンジ、洗濯機、扇風機、ストーブをプレゼントしてくれた。
ヨメと2人、泣いたふりをして頭を下げた。おやっさんにケツを蹴飛ばされた。これは、愛のムチか。
一年後に東京に戻った。
相変わらず、ヨメの親の理解は得られなかった。
「まあ、仕方ねえから、とりあえずケジメをつけたらどうだい?」とおやっさんに言われた。
「披露パーティーをやんな。今のままでは中途半端で、よそ様に顔向けできねえだろ。俺の後輩に、恵比寿でレストランをしている奴がいるから、そこなら格安でできる。いいよな。俺が段取りをつけても」
お願いします。
なぜ、自分の息子の同級生というだけの私を、おやっさんが、これほど気にかけてくれたのか。
一度も聞いたことがない。タチバナにも聞いたことがない。聞いたからといって、それから先の関係が変わるとは思えなかったからだ。私は昔から余計なことは聞かない主義だ。
披露パーティーで、おやっさんとおっかさんは、仲人を務めてくれた。
私は、若者だけでやるつもりだったが、「1人くらいは大人がいた方が、重しになるってもんだよ」とおやっさんが言うので、お言葉に甘えた。
おやっさんは、K応大学応援団仕込みの応援をひとりで披露してくれた。
あのー、おやっさん、それって場違いなんじゃ・・・。俺たち、ほとんどA学なんだけど。
「めでたいことに、K応もA学もねえだろう。応援してやったんだから、文句を言うな」
無茶苦茶や。
おやっさんは、最初、大手の音響メーカーに勤めていた。しかし、会社の業績が悪化したので、希望退職者を募った会社の方針に乗って、会社を辞めた。そして、5年ほどタクシーの運転手をしたあとで、大手の旅行会社のツアーコンダクターになった。
おやっさんは、英語と中国語が堪能だったので、それは天職といってよかった。
しかし、その会社の定年は55だったから、55歳からは、自宅のサンルームを改造して、カフェを開くことにした。
季節の花に囲まれた「花の家」カフェだ。
カウンター席が3つ。丸デーブルが室内に2つ。テラスに2つ。11人の客がくれば、満員になる隠れ家的なカフェだった。
日曜日には、常連さんがやってきて、行列ができる場合もあった。
おやっさん厳選のブレンドコーヒーと手づくりベイクドチーズケーキだけの店。そして、様々な季節の花。
贅沢な空間だ。
私は、客の少ない平日の午前中に行くことが多かった。
行くたびに、おやっさんに言われた。
「サトル、なんか面白い話してくれよ。面白かったら、コーヒータダにしてやるからよ」
面白いかどうかは、わからないが、適当なバカ話を披露した。話が終わると、おやっさんは、必ずメニューにはないバタートーストを出してくれた。
「俺のおごりだ」
話がつまらなくても、おやっさんは私から金を取らなかったから、初めから取る気はなかったのだと思う。
その後、おやっさんは肺がんを患い、81歳で地上からいなくなった。
2人目の父親がわりがいなくなった。
5年前のことだった。
血の繋がった男が死んだときも泣かなかった冷血の男が、おやっさんのときは泣いた。
今もときどき泣くことがある。バカげたことだ。
冷たい空気が肌を包む中で、タチバナが言った。
「もしいるのなら、形見の品を持って帰ってくれないか」
いや、俺に、そんな資格はないだろう。俺は赤の他人だ。世話にはなったが、だからといって貰えるもんじゃない。
そう思ったとき、目の中に2組のカップが目に入ってきた。陶器で作られた不細工なカップと皿だ。
むかし、老後のために、何か趣味を持とうと思って陶芸教室に通っていたことがあった。どれもが不細工な作品ばかりだったが、その中でマシだったのが、コーヒーカップだった。
私は、恥知らずにも、その2つのカップをおやっさんとおっかさんにプレゼントしたのだ。
「ハハハ、おまえ、度胸あるな」と笑われたが、おやっさんは受け取ってくれた。
久しぶりに手にとってみた。焦げ茶とオレンジ色のグラデーションがアンバランスな、ふざけたコーヒーカップだ。
こんなふざけたカップを残しておくなんて、おやっさんも変わっているな。
「カップの裏を見てみろよ」とタチバナが言った。
見ると、「息 暁作」という文字が彫られていた。私の記憶にはないものだ。
「親父が電動ドライバーで彫ったんだよ。それを見たときは、おまえに嫉妬したな。息子は俺の方だぜ。おかしいだろうよ」
「ただ、初めて言うことだけどな。俺には、生後半年で死んだ兄貴がいたんだとさ。そいつの名前が、漢字は違うが『哲』と書いてサトルと言ったんだな。だから、おまえをその生まれ変わりだと思ったのかもしれない」
こじつけにしか聞こえないな。
「そうかもしれない。ただ、おまえのことを気に入っていたのは事実だ。俺が嫉妬するほどにな」
「そのカップ、貰ってくれないか。他のものは捨てるつもりだが、そのカップだけは、捨てたくはない」
「それを捨てたら、親父に怒られる気がするんだ。だが、俺が持つのは違うと思う。これは、おまえのものだ。頼む」
タチバナが、悲壮な空気を身にまとって、私を見つめた。
そんなに、深刻ぶるなよ。余計に寒くなるだろうが。
まあ、もともと俺が作ったものだからな。
俺が、責任を持つべきだな。
貰ってやる。
家に持ち帰って、早速ブサイクすぎるコーヒーカップで、ドリップコーヒーを飲んだ。
瞬時に、私の目の前に、季節の花々が広がった。
(おやっさんの笑顔も)