中央線に乗っているとき、ケツのポケットに入れたiPhoneが震えた。
ディスプレイを見ると、神田のイベント会社の中村獅童氏似の担当者からだった。
これから行くところだ。打ち合わせ時間の10分前に着く予定で家を出た。中野駅の手前。午後12時11分。
電車内では応対できないので、中野駅のホームに降りた。中央線は頻繁にやってくるから、一台乗り過ごしても約束の1時には間に合う。
忙しない口調で、獅童氏似が出た。
「ああ、Mさん、ごめんなさい。トラブルが起きましてぇ・・・。いま処理に手間取っておりましてぇ・・・。だから、あのぉ・・・、今回の打ち合わせは延期してぇいただきたいとぉ・・・。トラブルが解決したらLINEしますのでぇ・・・。あのォ、Mさんの大好きなカキフライ定食を奢りますのでぇ、勘弁してください。ああ・・・お、恩にきます。そいじゃ!」
要するに、ドタキャン。
いきなり時間が、空いたぞ。
このまま家に帰るのは、もったいない気がした。中野駅で降りて、昼メシを食うというのが、一番正しい洗濯宣託選択ではないだろうか。
なので中野駅で降りた。
中野駅近くで知っている店は、居酒屋か飲み屋ばかりだ。あとは、立ち食いそば屋。
午後1時前。私のおぼろげな記憶では、居酒屋や飲み屋は、のれんを畳んでいるはずだ。
それに対して、立ち食いそば屋さんは、絶対に開いているはずだ。頭に「かけそば」が浮かんだ。別皿で、ちくわの天ぷらとイカの天ぷらを頼んだら、「お! 豪勢だね。何かいいことあったのかい? お兄さん」と、厨房のオバちゃんは驚いてくれるだろうか。
オバちゃんの笑った口元から覗く銀歯を見てみたい気もしたが、思い起こせば、昨日の水曜日も仕事の打ち合わせの帰りに、日本橋の「よもだそば」で、かけそばと春菊の天ぷらを食った記憶があった。
2日続きで、オバちゃんの銀歯を見る必要性は、いったいあるのか。
「ない」という天の声が聞こえたので、立ち食いそばは、洗濯宣託選択から外した。
この日、木曜日は風もなく、お日様もご機嫌な様子で顔を出していた。散歩するには丁度いいヌクヌク日和だった。
とりあえず、中野の街をブラブラしながら、立ち食いそば屋さん以外のお店を探すのが得策toksakと判断した。
中野といえば、中野ブロードウェイ、中野サンプラザが有名だ。しかし、私は旅に来たわけではない。いまここで、観光スポットに行く必要性は、トランプ氏が、突然謙虚になる確率と同じくらいない。
ブラブラを始めた。「ブラサトル」の始まりだ。
ちなみに、私はブラタモリを観たことがない。大抵のテレビ番組は、「ブラ歩き」と言っても、ただ街の有名店で食いしん坊がメシを食って、「美味い」というだけの食い歩きを写しているだけだ。
ブラタモリもきっと、そんな食い歩き番組だろうという偏見があるので、私は興味がない。観ない。基本的に、NHKは観ないことにしているし。
そんなどうでもいい情報を頭に散りばめつつ、中野駅北口をブラっていたら、突然ヨメの言葉が脳天に落ちてきた。
中野生まれ中野育ちのヨメは、絶えず故郷の中野の情報をチェックしていたのだ。
その中に、「中野区役所の裏の中野四季の森公園、いいよ。芝生と緑の木々が癒されるの」というお告げがあった。
お告げに従わない場合、祟りがあるという噂が、我が家族が住む国立(くにたち)界隈にはあった。祟りは、なるべく回避したい。ということで、お告げに従って、公園に行ってみることにした。
その前に、西友に寄って、クリアアサヒの500缶とおにぎり弁当を買った。飲食店に入るよりも、その方が安上がりだと思ったのだ。
焼きそばと俵おにぎりと唐揚げ。ビールのおつまみとして最高ではないか。
中野四季の森公園は、都会にありがちな公園だった。それなりに広くて、緑が多くて、近くに見えるビルの街並みが絵になる、都会にしか存在しえない公園だ。
これは、悪口ではない。都会を意識すれば、誰だって、こんな公園しか作れないし、きっと都会人・老若男女は、ほとんどの人が、こんな公園を望んでいると思う。
つまり、都会人にとって理想的な公園だ。
その理想的な公園で、おにぎり弁当をつまみに、クリアアサヒを飲んでいた。
少し離れたところでは、公園デビューをして、それなりに成功した若いお母さん方が、子どもさんを放牧していた。
子どもたちの甲高い声が、中野の空気の中を拡散していた。
わけもなく叫べるのは、今のうちだけですよ、放牧中のガキたち。放牧はいつか終わります。放牧が終わったときに、君たちはどんな人格を築くのでしょうかね。
そんなことを思っていたら、私の座った芝生のそばに、4歳前後の男のガキがプラスチックのバスを芝生の上で走らせている姿が、目に入った。
30前後に見えるお母さんが、ガキに向かって言った。
「ねえ、こんなに端っこじゃなくて、もっと人のいるところで遊ぼうよ」
ガキは、ブッブーと言いながらバスを走らせていた。笑顔が似合うガキだった。もう少し修行したら、「天使の領域」まで到達できる可能性を持った将来有望なガキだった。もし天使ドラフトがあるのなら、間違いなく私は1位指名をしただろう。
だが、お母さんは、「ねえ、聞いてるのかな」と、ややイライラのご様子。
そのイライラ目の母さんと偶然目が合った。
どうでもいいことだが、お母さんは化粧をしていなかった。インスタグラムで、それのどこがスッピンですか、と疑惑の顔を晒す「自称スッピン」の有名人と違って、このお母さんは、純正のスッピンだった。
今は30前後に見えるその容姿。私の思い込みではあるが、スケートボードかスポーツクライミングをやっていそうなキリッとした佇まいは、化粧を施せば、おそらく24から27歳くらいに変身するに違いない。
そんなことを思っていたとき、思いがけないことに、スッピン母さんが私に話しかけてきた。
「この子、弱いんです。公園で遊んでいると、まわりの子にオモチャをすぐに取られるんですよね。抵抗できないんです。それが歯がゆくて」
初めて会った白髪オヤジに、普通そんなことを言いますかね。この場合、どう答えたらタラタラ、満足いただけるのでしょうか。
スッピン母さん、私の顔を挑戦的な目で見てますよ。オヤジ、タジタジですよ。
だが、ここで、私のいつものテキトー癖が出るのだ。深刻な話は、すべてテキトーにはぐらかせば、相手は私を馬鹿にして鋭い追及を諦めてくれる。
「テキトーに勝る武器はなし」と私が尊敬する高田純次師匠も仰っているではないか(言ってない?)。
私は、遠くで騒ぎまくっている放牧中のガキどもを指差して言った。
あの子たちは、親も含めて力(チカラ)を無駄に使っているんですよ。力でお互いをマウンティングしてます。この社会の多くが、力がマウンティングの道具になっています。
でかい声を出した方が勝ち。単純すぎて俺なんか鼻で笑っちゃいますけど、「チカラ信者」は、世の中にあふれています。
えーと、お子さんのお名前は?
「ハルマです」
お母さん、まさか三浦春馬さんのファンですか。
「バレバレでしたか」
スッピン母さんが、乙女の恥じらいを見せた。
バレてまんがな。
ハルマくんは、すごい子だと俺は思いますよ。
多くのガキが、力でまわりを支配しようとしているのに、ハルマくんは、それを使わない。
お母さん、もしかして、ハルマくんのこと「弱い子」だと思ってませんか。
「弱いと思いますけど・・・だって、抵抗できないんですから」
俺の大学時代、同級生にウェートリフティング部で活躍していた奴がいます。タナカと言います。
タナカは、全日本クラスのアスリートではなかったですが、その力の強さは尋常ではなかった。170センチ70キロの体型以上に彼は大きく見えました。
腕相撲をしたら、彼以上の体格をしたやつや柔道3段の男さえも子ども扱いするくらい「強い男」だった。
ある日、タナカと渋谷道玄坂の居酒屋で飲んでいたときのことだった。隣に座った酔っ払いサラリーマンが、タナカに絡んできたのだ。
「ニイちゃん、いい体してるな。でも、人は見た目じゃわからないからな。その立派な体だって、張りぼてってこともあるよな。なあ、殴らせてくれねえか」
世の中には、まれにこんな馬鹿がいる。あおり運転をして平然としていられる人も、この類だろう。
普通だったら、こんな奴は相手にしない。
しかし、タナカは笑みを浮かべて、男を見た。
その笑顔が、男を刺激したのか、男は突然タナカの右胸を拳で叩き始めたのである。
私からしたら、こんな奴は狂人でしかない。突然、見ず知らずの男が初対面の男の胸を叩いたのだ。あり得ない。
タナカの顔を見ると、タナカの表情は変わっていなかった。笑顔のままだった。
おそらく男は全力で5発、タナカの胸を叩いたと思う。
臆病な私は、情けないことに男を止めることができなかった。
しかし、勇気ある男が目の前にいた。
厨房にいた居酒屋の店長だった。店長は、おしぼりを男の顔めがけて投げたのである。ジャストミート!
そして、店長は厨房から出て、男の胸ぐらを掴んだ。
「あんた、俺のお客さんに暴力を振るったよな。これは犯罪だ。俺は、警察を呼ぶ。こんなの我慢できるかあ!」
店長は、店員に向かって警察に電話するように指示した。
190センチ100キロの巨漢店長が、男を羽交い締めにした。その姿には、絶対に逃がさないぞ、という気迫があふれていた。
そんな中、タナカは、そんな緊迫した空気にも動ぜず、小さな笑顔を作っていた。
「あのー、店長、俺、大丈夫ですから。全然効いてないっすよ。痛くなかったです。大丈夫ですから。大ごとは、やめましょう」
それを聞いて、店長は、警察に電話するのを思いとどまった。
しかし、男に向かって、こう言うことだけは忘れなかった。
「あんた、出入り禁止だ。2度とくるな! 今日のお代はいらないから、とっとと消えろ!」
次の日、国際法のゼミでタナカと一緒だった。
私は授業前に、タナカを人が通らない廊下の隅に連れていった。そして、言った。
おまえ、胸を見せてみろ。俺は、男の胸をマジマジと見る趣味はない。だから、少しの間でいい。見せてくれないか。
タナカの顔からは、いつもの笑みは消えていたが、抵抗せずに見せてくれた。
タナカの胸には、赤紫色のアザがいくつもあった。男に殴られた跡だった。
タナカ・・・おまえ、すごいな。すごいよ・・・本当に、おまえ、すごい・・・すごいよ。よく我慢できたな。
すごい、と言っているうちに、涙が出てきた。
そのアザは、タナカが強い証拠だった。
心が強い証拠だった。
お母さん、と私は目の前で悩むスッピン母さんに向かって言った。
多くのガキは、力で何でも解決しようとしています。
でも、あなたのハルマくんは、違う。
多くのガキたちとハルマくん、どっちがいま上等だと思いますか。
私の強引な理論に、お母さんは首をかしげ気味だった。「テキトーなこと言うなよ」という若干の非難もあったかもしれない。
だが、こう言ってくれた。
「今の話、夕飯の前に、主人に話してみたいと思います」
お母さんの横で、ハルマくんがバスを「天使の笑顔」で走らせていた。
ブッブー!