アルバイトの面接に行った。
信じられないことに、3時間で5万円の報酬だという。それに釣られていった。
面接会場に行ったら、20人ほどが来ていた。破格のギャラにしては、応募が少ない。
予期せぬことに、履歴書を受付に渡して、5分もしないうちに、採用者が発表された。
面接はしないのか。あるいはもう、し終わったのか。それなら、俺はダメだな、とあきらめた。見渡すと、私が一番年を食っているようだから、書類で落とされたのだろう。
帰りにローソンに寄って、Lチキを買い、歩きながら食おうと思って席を立った。
そのとき、私の名前を呼ばれた。
「採用です」
え? 嘘でしょ。
採用されたのは、ほかにナガノ君という20代半ばのチャラそうに見える男だ。
二人だけのアルバイト。
怪しいように思えるが、アルバイト内容は、あらかじめ把握していた。怪しい内容ではなかった。
12時から15時までの間に、一流ホテル客室のカーテンを取り替えるのが仕事だ。
チェックアウトからチェックインまでの時間を利用して、すみやかにカーテンを取り替えるのである。
部屋は130室あるという。ただ、そのうち、連泊の宿泊客が30を占めているので、実際カーテンを替えるのは、空室の100だ。
2人で50ずつの計算になる。はたして2人でそんな数をこなせるのか。3時間しかないのに。
実は、ホテルの部屋のカーテンを替えた経験は、大学時代にあった。短期のアルバイトだった。そのときは5人で替えた。
私は、世界で2番目に不器用なくせに、物覚えだけはよかった。
すぐに要領を覚えた。
他にも、たとえば、むかし自転車には2分で乗ることができた。水泳も10分ほど水に浸かっていたら泳げるようになった。スキーは20分くらいで滑れるようになった。小学校5年で、原付自転車に乗ることを覚えた(もちろん公道は走らなかった)。パソコンは誰よりも早く覚えて上達した。
話は外れるが、独立したての頃、稼ぎが少なかったので、新橋の大手レストランチェーン店で、週に3日アルバイトをした。フロア係だった。勤め始めて3日目に店に行ったら、店長から「あなた、スジがいいね。今日からフロアマネージャーやって」と言われた。まだ2日しか働いていないのに、滅茶苦茶なことをおっしゃる。
半年経って、仕事が軌道に乗りかけたので、辞めます、と言ったら、店長は慌てた。「正社員採用、昇級あり、ボーナス年4ヶ月!」と言って、血走った目を私の顔に近づけた。その迫力に、思わず、ハイ、と言いそうになったが、留まった。危ねえ、危ねえ!
ただ、物覚えが早いと言っても、それが偉いわけではない。たまたま早かっただけだ。
いつか、まわりが、当たり前のように追いついてくるのだから、自慢できる期間はわずかなものだ。
相方のナガノ君は、カーテンの交換方法を知らなかったので、実際に目の前で作業して、コツを教えた。
何部屋かやっているうちに、コツをつかんだらしく「よっしゃ、5万円」と言って、ガッツポーズをした。
でっかいリネン用のワゴンにカーテンを詰めて、2人でハイファイブをしたのち、二手に分かれた。
思いのほかスイスイと作業がはかどった。
しかし、しているうちに、一つの疑問が浮かび上がった。
なんで、俺、こんなことをしているんだ。
俺は、本業を持っていたよな。アルバイトをする必要があるのか。
ホテルのカーテンを替えるアルバイトって、どこから聞いたんだろう。思い出せないぞ。
しかも、昼間のホテルって、こんなに薄暗かっただろうか。節電しているのかな。
さらに、このホテルの名前が頭の中から消えてしまっていた。さっきまでは覚えていたのに。でも、人間は忘れる生き物だ。忘れるから生きていける。上等ではないか。
なんだかんだ言っても、2時間足らずで50部屋のカーテンを替えたから、ノルマは達成だ。疑問なんか、どうでもいい! 5万円!
軽やかな気持ちで、チャラノ君の進行具合を覗きにいった。まだ20部屋しか終わっていなかった。おいおい。
あと1時間しかないんだぜ。仕方ないので鉄だった手伝った。
結局私が70の部屋のカーテンを替え、チャラノ君は30だった。
これで同じ5万円かよ、などという、みみっちいことは私は言わない。リネン用のワゴンやその他もろもろの道具はチャラノ君が片付けてくれたから、おあいこだ。缶コーヒーも奢ってくれたし。
チャラノ君は、その5万円で、台湾人の彼女に会いに行くという。すっ飛んで帰った。
さあ、私も帰らなければ。
入るときは、地下一階の従業員用の通路から入って、業務用エレベーターで最上階の面接会場に行った。
業務用エレベーターを探した。お客様用のエレベーターの裏に業務用があったのは覚えていた。
エレベーターまで行った。裏を覗いてみた。しかし、業務用エレベーターは、そこにはなかった。この階だけないのかもしれないと思って、非常階段で下に降りた。
なかった。6階、5階、4階と降りて探したが、業務用エレベーターはなかったのだ。
ミステリーだナッシー、とは思ったが、私は考え直した。このまま非常階段で地下一階に降りればいいガッキー。
そうすれば従業員用の通路に行けるネッシー。
3階まで降りた。
そのとき、3階だけ造りが変わっているのに気づいた。
廊下の左右全面が、ガラス張りになっていて、外も内も見渡せるようになっていたのだ。
外を見ると神々しい佇まいをした明治神宮の森が見えた。その上を飛行船が飛んでいた。船体には「Amazon」と書かれてあった。明治神宮の上に、飛行船を飛ばしていいのだろうか。ドローンより、遥かにデカいぞ。
でも、実際に飛んでいるのだから、許可を得ればいいのだろうと単純に考えた。
東京は、美しいなあ。しばし、見とれた。
次に、ホテル側を見てみた。3階から2階が見下ろせた。吹き抜けになっていたのだ。
2階は、広々としたレストランだった。50席くらいのテーブルが、余裕をもって配置されていた。調度品もバロック仕様の豪華さだった。
レストラン全体を見渡してみた。
著名人が食事をしているのが見えた。
ノーベル化学賞の吉野彰氏がいた。テニスの錦織圭氏、アニメーション監督の新海誠氏、青山学院大学陸上部監督の原貢氏、お笑い芸人の山里亮太氏、蒼井優夫妻などもいた。豪華な面々ではないか。きっと何か催し物があったのだろう。
かなり有名なレストランと思われた。俺には別世界だな。
その中で、なぜかわからないが、薄くスポットライトが当たっているテーブルがあった。
目を凝らすと、四人家族が食事をしていた。お父さん、お母さん、息子、娘の4人だ。ごくありふれた家族に見えた。
豪華な洋食を幸せそうに口に運ぶ家族。いいものではないか。
その光景を見て、私も腹が減ってきた。階段を駆け下りて、レストランの入り口に向かった。
入り口もバロック建築調だった。こんな豪華な入り口は見たことがなかった。
高いだろうな、と思ったが、私の財布には、5万円があるのだ。どんな高級ホテルでも、ランチで5万円をふんだくることはないはずだ。
堂々と入った。
私は迷わず、薄いスポットライトが当たっているテーブルまで歩いていった。
不思議なことに、そこにお父さんはいなかった。
私は、ためらうことなく、お父さんの席に座った。
隣に座った娘が、ぶっきら棒に言った。
「遅かったな。トイレが混んでいたのか」
まあね。
スポットライトが消えた。
今朝、そんな夢を見た。