杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

普賢象と白幽子

2015-04-28 07:56:17 | 白隠禅師

 4月25日は建仁寺両足院の『多聞会』に参加した後、お世話になっている方と木屋町界隈をはしご酒し、泊めてもらう約束をした友人の二条城近くのマンションまでふらふらナイトウォーキング。目印となる建物が多く、ほとんどの通りに名前が付いている京都の街の良さをしみじみ満喫しました。

 

 翌26日は念願だった千本えんま堂の古桜・普賢象を観に行きました。こちらで紹介したとおり、ヤエザクラ系最古の品種。古い品種と聞いて薄くて清楚な花をイメージしていたのですが、実際はご覧のとおりの華やかさ。すでに満開ピークを過ぎ、加えて真夏のような暑さの中、若々しい新緑の葉をバックに「まだ若いもんには負けないぞっ」って踏ん張って咲いていた姿が心を打ちます。今年はいろいろな桜を意識して観て来ましたが、トリを飾るにふさわしい美桜でした。

 

 

 次いで訪れたのは円町にある法輪寺。通称“だるま寺”です。境内にある起上達磨堂には、全国の信者が持ち寄ったダルマさんがズラリ。2月のだるま寺節分会は善男善女でにぎわうそうです。

 日本人なら知らない人はたぶんいないダルマさんですが、こちらで書いたとおりインドから中国へ禅を伝えるためにやってきて、遼の武帝を「無功徳」と喝破した後、少林寺に籠もって壁に向かって9年間坐り続け、手足を失い尻が腐ると噂されるほどの忍苦の苦行をし、禅の始祖となった―噂の信憑性は別として、法輪寺の由来書には、

 

「七転八起とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である」

 

 とあります。ダルマに目を入れるのって、選挙で当選した人やノルマ達成した営業マンは単なるセレモニーとして行なっているのでしょうけど、本来は仏像同様、開眼することで魂を迎え入れるということ。満願成就して両眼をいれるのは願(がん)と眼(がん)をかけているともいわれます。身近にありすぎて、本来の意味を考えることなどほとんどないけれど、この由来書の一文は忘れないで心に留めておこうと思いました。

 

 昭和のはじめごろ、法輪寺第10代住職を務めた伊山和尚は、『白隠和尚全集』を刊行し、白隠さんの名を世に知らしめた功績者のお一人。こちらで紹介したとおり、白隠さんは30代の頃、禅病に苦しみ、京都の北白川に棲む仙人白幽子から内観の秘法を授かって治療したと伝わりますが、その白幽子の墓石が明治34年に吉田神葬墓地(現・神楽岡墓地)から盗まれ、しばらく行方不明だったところ、終戦直後の昭和21年に東京で見つけて自寺に移したのも伊山和尚でした。こちらがその墓石です。

 墓石には宝永6年(1709)没とあり、白幽子が伝説の仙人ではなく実在した人物だと判明した一方で、白隠さんが宝永7年(1710年)に北白川を訪ねたときはすでに亡くなっていたわけですから、白隠さんが訪問年を勘違いしたか、白幽子本人ではなく別の人から秘法を授かったということになります。・・・う~ん。

 こちらで書いたように、明治34年に吉田神葬墓地から盗まれた後、明治36年、富岡鉄斎が私費で墓地を再建しました。現在、神楽岡墓地にあるのはこの墓石。鉄斎直筆の字だとしたら価値がありますね。墓地の入口に建っていた「南無阿弥陀仏」の石碑は、一説には白幽子直筆を刻したものとか。墓守のおじさんに訊いてみたのですが、さっぱりわからないとのこと。白隠さんのフィクション疑惑からして、いったい何が事実で何が作り話なのかわからなくなっちゃいますが、白隠さんが実際に北白川瓜生山の山中を歩いたことは事実のようです。

 

 実は25日、建仁寺両足院に行く前に少し時間があったので、北白川にあるという白幽子寓居跡を訪ねてみようと瓜生山のトレイルを途中まで歩いてみたのです。バス停北白川仕伏町からバプテスト病院裏に入り、「北白川歴史と自然の道」の看板を見つけてしばらく歩くと大山祇神社。そこまでは案内看板があったのですが、その先に延びるのはただのけものみち。仙人といわれた人の棲み処なんだから難路なのは仕方ないと、足元の濡れ落ち葉で何度も滑りそうになりながら進んだのはいいけど、何度か分かれ道に出くわし、まったく方角がわからず。気づけば小1時間、汗びっしょりでタウンシューズはドロドロ。このままでは多聞会に遅参するどころか、遭難するかも・・・と怖くなって、元来た道を戻りました。

 先日訪ねた美濃加茂の白隠坐禅石のように、ちょっと歩けばすぐに見つかると思った己の軽率さを恥じると同時に、ひと気のない山道で迷ったことで、禅病に苦しみ、救い主を求めて必死に歩いた白隠さんのお気持ちがほんの少し疑似体験できたような、不思議な錯覚を覚えました。

 バスに乗って、白幽子寓居跡を見つけたらそこで読もうと思っていた『夜船閑話』を開いて、白隠さんが山を降りるとき、白幽子が、

 

「人迹不倒の山路、西東分ち難し。恐くは歸客を惱せん。老夫しばらく歸程を導ん」(人も入らぬ山路で方角もわからず、お困りであろう。しばらくお送りしよう)

 

と、途中まで見送ってくれたくだりを読んだら、フッと涙が湧いてきました。このときの白隠さんはさぞかし心強かったでしょう。白幽子に直接会ったことがフィクションだとしても、このように書き残したいと思った白隠さんのお気持ちは理解できる気がします。白隠さんのように命を削って禅定に徹した人でなければ出合えない救い主かもしれないけれど、自分もこの先、こうして寄り添ってくれる人と出合えるといいな・・・。

 

 

 そんなこんなで、翌26日の法輪寺では、誰もいない静かな本堂で新緑の光に包まれた庭園を前に、30分ほど瞑想しました。瞑想といえば聴こえはいいのですが、前日の歩き疲れと呑み疲れで眠気に襲われただけ(苦笑)。本堂の縁側角に置かれた彫像の牛に嗤われているような気がしました。

  白幽子関連史跡は、京都における白隠さんの数少ない貴重な足跡のようです。確かに白隠さん本人ではなく、白隠さんの師匠の縁地しかないとしたら、ちょっと物足りないかも。

 私はいつも、京都にしかない歴史文化にふれる旅をしているのですが、京都にはないものもあるんだな、と改めて実感しました。白隠さんの足跡は京都に少ないかわりに、地方創生の種子のように全国に点在しています。ホームタウンである駿河沼津は、ますます頑張らなければいけないな、と思います。

 

 4月29日(水・祝)は原の松蔭寺と徳源寺で寺宝の虫干し見学会が開かれ、白隠画を直接観ることができます。生家跡や東海の植物園として名高い帯笑園の一般公開もあるそうです。時間は松蔭寺は9時30分から16時まで。徳源寺は10時から14時まで。帯笑園は桜草鑑賞会とお琴の演奏会が9時30分から12時まで。抹茶野点の席もあります。お時間のある方はぜひいらしてください。


白隠坐禅岩と富岡鉄斎名品展

2015-04-03 20:26:23 | 白隠禅師

 静岡市では現在、徳川家康没後400年を記念した顕彰事業『家康公四百年祭』を開催中です。4日・5日の恒例静岡まつりでは四百年祭春のシンボルイベントが加わり、京都葵祭の斎王代が葵使として初参加し、朝鮮通信使とともに歓迎式に登場するなど例年以上の盛り上がりを見せています。

 

 私が映像作品【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】の制作にかかわったのは2007年。もう8年も経ってしまいました。朝鮮通信使のことをほとんど知らず一夜漬け勉強状態で書き上げたシナリオは、私にとっていわば入試論文みたいなもので、映画製作が終わってから本当の朝鮮通信使学習が始まったのでした。シナリオ監修でお世話になった朝鮮通信使研究家北村欽哉先生の勉強会に参加するほか、ロケでお世話になった広島の鞆の浦、京都、滋賀高月とは今もご縁をいただき、今もって研究途上といわれる朝鮮通信使の足跡解明と歴史的評価について学ぶ機会を得ています。

 肝心の地元静岡で行なわれる朝鮮通信使イベントや清見寺関連事業にはとんと声がかからず、事後に新聞記事で知る程度。開催中の四百年祭でも8年前の映像作品のことは一切取り上げられず。出演してくださった林隆三さんが昨年亡くなったとき、追悼上映会でも開いてもらえたら…と願ったのですが、残念ながら市役所や清見寺関係者で作品のことを顧みてくれる人は今はいないよう。当然、下請スタッフの一人に過ぎなかった自分に声がかかることもないだろうと、ため息をついていた先月半ば、滋賀高月の『芳洲会』から3月29日開催の総会と記念講演会の案内が届きました。

 

 『芳洲会』は朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩外交官の雨森芳洲を顕彰する市民団体。大正時代に発足した歴史ある団体です。私は高月観音の里歴史民俗資料館の佐々木悦也先生に案内をいただいて2年前に入会し、総会案内が届いたのは今回が初めて。やっと会員として認められた!と感無量でした。直前まで酒蔵取材スケジュールが確定せず、行くと決めたのは前夜。酒蔵取材で早起きの体になっていたせいか翌朝3時前に目が醒めて、目が醒めたのならのんびり車で出掛けようと思い立ち、せっかく車で行くなら、車じゃなきゃ行けないところへ寄り道していこうと、かねてから行きたいと思っていた美濃加茂の白隠坐禅岩に向かいました。

 

 白隠坐禅岩とは、岐阜県美濃加茂市の巌滝山という小さな山の中腹にあります。1715年春、ちょうど今から300年前、白隠さん31歳のとき、この岩の上に坐って約1年9ヶ月もの間、禅定(坐禅で精神集中)に専念されたそうです。もともとこの岩は地元の人から「祟り石」と怖れられていた奇岩だったそう。そういう場所を選んでひたすら禅定するなんて、白隠さんの修行に臨む覚悟のほどが伝わってきます。

 

 

 

 朝7時過ぎに着いたのですが、ふもとの賑済寺には300年記念を知らせる案内はなく、近くのゴルフ場へ行く車が数台行き交う程度。寺の裏道から岩までは500メートルほどの距離でしたが山中に人影はまったくなく、独りで登るには少々心細く、白隠さんがお守りしてくださるはずだと言い聞かせ、急勾配の山道を登って坐禅岩に到着。かなりの角度の斜面にドンと鎮座する巨石の上に、もう一つ、平べったい石が乗っかっていました。土砂崩れや地震でもあれば落下してもおかしくないのに、この形状で300年耐えてきたんですね・・・。

 

 

 白隠さんは翌1716年11月、沼津の原の実家から父が倒れたと連絡を受け、松蔭寺に戻ったのですが、この頃、禅病―今で言う〈うつ〉を患っていたそうです。31~32歳頃というと、今の感覚でいえば己の立ち位置を定めるというか、そろそろ身を固めよと周囲からプレッシャーを受ける時期ではないでしょうか。現代感覚で白隠さんを語ってはいけないとは思いますが、50歳を過ぎても立ち位置が定まらない宙ぶらりんな自分にとって、白隠さんが理想と現実の狭間で葛藤し、心の病と闘っておられた場所にこうして導かれたご縁を思うと、なにやら勇気が沸いてきます。

 「祟り石」といわれた奇岩の上で、身心がボロボロになるまで坐り続けた白隠さん。岩の一角を両腕で抱え、300年の時空を越えて白隠さんの息吹を感じようと試みましたが、ブルッと身震いがし、安易に近づいてはいけない気がして後ずさりし、合掌低頭しました。

 

 

 賑済寺まで戻って一息ついたところで案内板に目を通してみたら、面白い一文がありました。我々静岡人は「駿河に過ぎたるものあり、富士のお山と原の白隠」と教わっていますが、ここの案内板は「日の本に過ぎたるものが二つある、駿河の富士に原の白隠」。白隠生誕300年記念(1985年)に大本山妙心寺642世管主が書かれたようです。さすが!日本に収まりきれないスケールの人物なんですね・・・。

 

 

 

 美濃加茂市街に出てファミレスでモーニングを食べた後、一般道を使って滋賀の長浜へ。今は長浜市に合併された高月町の渡岸寺で国宝十一面観音を拝み、隣接する高月観音の里歴史民俗資料館を訪ねて佐々木先生にご挨拶。資料館ではちょうど特別陳列布施美術館名品展【富岡鉄斎と妻春子】を開催中でした。富岡鉄斎は、よく「なんでも鑑定団」で名前を聞く近代文人画の巨匠・・・程度の認識しか持ち合わせていませんでしたが、展示されていた自画像もどきの「維摩居士像」や、狐の妖怪「白蔵主図」を眺めていたら、白隠さんの画に似ているなあと思えてきました。画風は全然違いますが、賛をしっかり描き込むところとか、晩年の作品になればなるほど大胆でおおらかになっている点など等。

 

 帰宅後、ネットで調べてみたら、富岡鉄斎は京都瓜生山で隠遁者・白幽子と白隠さんが対面した〈白幽子寓居跡〉を建碑したそうな。白幽子とは書・天文・医学等に長け、白隠さんが『夜船閑話』で紹介した“内観の秘法”を授けた仙人。美濃の山中で「一度死ぬつもりで坐禅しよう」と禅病を患った白隠さんが、宝永7年(1710)に白幽子のもとを訪ねています。鉄斎はその逸話をズバリ『白隠訪白幽子図』という作品で描いていたのです。

 今回拝見した高月の展示作品には白隠さんを描いたものはありませんでしたが、坐禅岩にお座りになっていた頃の白隠さんが、白幽仙人から授かった内観の秘法で禅病を治療しながら修行されていたと知って、坐禅岩の白隠さんがいっそうリアルに感じられました。と同時に、〈近代文人画の巨匠〉という教科書的ワードでしか見ていなかった富岡鉄斎にも急に親近感が沸いてきます。・・・今度、京都へ行くとき訪ねる場所はこれで決まり!

 

 高月公民館で開かれた芳洲会の記念講演会は、【雨森芳洲と漢詩】と題し、大阪大学大学院特任研究員の康盛国(カン ソングク)先生が芳洲の詩風や漢詩観についてお話されました。韓国人の康先生が芳洲に興味を持ったのは、先生と同年の36歳頃(1703年頃)の芳洲が朝鮮語の習得に苦労し、「命を5年縮めるつもりで取り組めば、成就しない道理はない」と自らを奮い立たせていたエピソードだそうです。

 白隠禅師(1685~1768)と雨森芳洲(1668~1755)。若い頃は命を賭して己の使命に向き合い、長寿をまっとうした2人の足跡を、私自身なんとも不思議な縁でこの先も長く深く辿ることになりそうです。康先生の講演については次回へ。


白隠達磨と無功徳

2015-03-23 10:02:14 | 白隠禅師

 先週、サクラの記事をUPしてから毎日ポカポカ陽気が続いて、静岡では22日に開花宣言が出ました。20日から22日は久しぶりにお寺で肉体労働。肩こり・首こり・頭蓋むくみがピークに達し、クラクラ目眩が続いていたので、高いところやら広いところやらで思いきり身体を動かし、お掃除ストレッチしました。掃除なら掃除に専念しなきゃ修行にならないのにマズイですね(苦笑)。

 

 本堂の床の間をお掃除していたとき、ふと目が合った白隠作の達磨像。お彼岸のせいなのか、どうも呼び止められているような気がして、掛け軸の埃を拭ったあと正座し、あらためて画賛を読んでみました。といってもその場ではとても判読できないので、写メに撮って家でネット検索。花園大学国際禅学研究所のサイトをちょこちょこいじると、芳澤先生の解説に即座に辿り着けるのです。いい時代になりました♪

 

 バイト先のお寺にある白隠達磨には、こういう賛が添えられています。

 

   嗟君未到金陵日、寡婦掃眉坐緑氈  

  君既到金陵城後、慈烏失母咽寒  

 

 梁の武帝の達磨大師への思いを詠った詩のようで、意味は、

 

「君(達磨)がまだ金陵(=南京)に到着しないうちは、武帝はさながら、未亡人がお化粧をして来るはずのない夫を待ちわびるよう。君がやって来られたのちは、孝行鳥が孝養を尽すべき母を失って咽び泣くようだ」。

 

 達磨と武帝―といえば、禅語【無功徳】の逸話で知られています。筋金入りの仏教信者を自認していた武帝は、インドからやってきた高僧を喜び勇んで迎え、自分が巨大な寺院伽藍を建立し、たくさん写経もし、仏典を著して布教に尽力したことを自慢し、自分にはどれくらい功徳があるか?と訊いた。ところが達磨の返事はそっけなく「無功徳」。ガッカリした武帝は「縁がなかった」と思い、達磨は金陵を去って揚子江を渡った。のちに武帝は「無功徳」の真意を知って後悔した・・・というお話です。

 この賛の最後の「慈烏失母咽寒煙」、武帝にとって達磨が考を尽くすべき相手ではなかったと歎いたのか、「無功徳」の真意を知って後悔して泣いたという意味なのか、浅学の私にはわかりませんが、この達磨さまのお顔は端正で堂々とされていて、「大いなる善行には大いなる功徳があるはずだ」という武帝の慢心を諌めた凄みを感じます。

 

 そう、禅の教えってこういうところが厳しいのですね。大多数の凡人は、善き行いをした後、褒められたい、報われたい、名を残したいという気持ちが湧いてくるのが自然です。

 私自身、ほんのささやかなボランティア活動をしたときに、相手から「ありがとう」のひと言がないとさびしい、物足りない・・・と感じたことが度々ありました。地酒の取材や普及活動もほとんどが非営利ですから、蔵元さんや酒屋さんから感謝されて当然だろうという思いがどこかにある。「善いことをしている」と自覚し、自分に満足した瞬間に、「無功徳」と言われてしまうのなら、資本主義自由経済の世の中では人々のやる気を削いでしまわないか?と反論したくなる。

 でも、たとえ見返りがなくても正しいことだと信じて続けられるものがあったとしたら、見返りによって満足したり不愉快になったりと心が乱れるよりも、ずっと自由で楽だろうなあと想像します。そうやって継続できるものは、世の中に本当に必要とされている、誰かの何かの役に立っているはず。継続という事実がその証拠だろうとも言えるでしょう。

 

 私にとって唯一、見返りがなくても心が落ち着くのが、このブログです。アクセス数が少なく、コメントもほとんど来ないのに寝る間を惜しんで書く意味があるのかと悩んだときもありましたが、禅の勉強を始めてから、自分の体験を活字に起こして公表するというのは、自分を見つめなおす修養作用があると気づきました。書く内容によっては、誰かに褒められたい、感謝されたいという慢心がついつい湧いて出るのですが、そういうときには使う語彙が偏ってきます。いったん画面を閉じてしばらく時間を置いてから再起動させてみると、そのいびつさに気づく。言葉がスーッと入ってこない、どうもバランスがよくない・・・そうか、これって慢心なんだな、と自覚するのです。掲載後も何度も推敲し、このまま保存しておいていいと判断した瞬間、ひとつ山を登り終えたような開放気分になる。誰も読まなくても、誰がどう読んでも、書こうと思ったテーマに真摯に向き合えた時間がもてたことにホッとします。

 

 「無功徳」という教えには、報いや見返りにこだわる自我に気づかせ、そんなものがなければ心が自由で楽になるよ、というメッセージが込められているような気がします。もちろんもっと深遠な哲学があって、だからこそ禅祖至宝の言葉として今に伝わっているのでしょうし、白隠さんがこの達磨図に込めたメッセージは違うかもしれませんが、私自身は幸運にもこの画を間近に見る機会を得たことに感謝し、この画を見るたびに己の心の滓や濁りを自覚して、澄み酒のごとく濾過したい、と願っています。


阿頼耶識の一滴

2015-03-03 21:38:51 | 白隠禅師

 2月末から3月初めにかけて、酒蔵では出品酒クラスの上槽(搾り)が始まります。前回記事でもふれたように、蔵元は醗酵の状態によって、いつ、どのタイミングで搾るのか慎重に見極めるため、タイミングよく上槽取材が出来る酒蔵は限られます。精魂込めて醸した酒が搾り出される神聖な瞬間に立ち会うというのは、ある意味、出産に立ち会うような気持ち。杜氏や蔵人のみなさんにとっては作業の一つに過ぎないかもしれませんが、私のようにたま~に見学する人間にとっては、槽口(ふなくち)から流れ落ちるひとすじの酒の滴が眼に飛び込むと、なんともいえず、胸一杯になります。「ああ、生まれたんだなぁ」と。

 

 これは2014年10月に撮影した松下明弘さんの山田錦「松下米」。半分以下に精米され、青島酒造(藤枝市上青島)で2015年1月に洗米、浸漬、蒸し、麹と手をかけ、3月初めの今週、上槽を迎えました。ただし「喜久醉純米大吟醸松下米」として出荷されるのは2015年10月。半年間の熟成期間を要します。時間経過から見たら、上槽はゴールではなく折り返し地点ということになりますね。

 

 

 

  

 通常、搾った酒は滓引き→濾過→火入れをして酵母の醗酵を完全に止め、アルコール度数調整のため加水し、瓶詰めをします。これで年間いつでも安定した酒質で呑めるというわけです。

 前回記事で取り上げた「白隠正宗富士山の日朝搾り」は、朝搾った酒をその日のうちに出荷して呑んでもらうというもの。上槽後の工程をすっ飛ばした「無濾過・生原酒」状態で出荷します。濁り=滓の正体は、デンプン、繊維質、不溶性タンパク質、そして醗酵という大仕事を終えた酵母の“なれの果て”。長く置くと香味が変化するので、滓がからんだ酒はすぐに呑むのが肝要です。・・・なんだか成仏してない酵母を生きたまま呑み干すみたいで、呑み過ぎたら確実に地獄に落ちそうです(笑)。

 「喜久醉純米大吟醸松下米」のように熟成期間を置く酒は、後処理工程をしっかり行ないます。いわば酵母をちゃんと成仏させ、その功徳をありがたく頂戴する。でも滓がからんだ生原酒より呑みやすいからついつい呑み過ぎて、これも下手したら地獄行き(笑)。

 

 「地獄行き」だなんて物騒な物言いだとお叱りを受けそうですが、それもこれも、2月27日夜、プラザヴェルデで開催された第1回駿河白隠塾フォーラムで、芳澤勝弘先生の講演『白隠と地獄』を拝聴したせいです。白隠さんは11歳のとき、近所のお寺で地獄の説法を聴いてトラウマになり、出家したと言われていますが、私もどうやら白隠さんの地獄絵の虜になってしまったようです。

 

 地獄絵、といえば、“閻魔大王の裁きを受けて血の池や針山や煮立った釜に落とされる人々の阿鼻叫喚”をイメージしますよね。私にとっては、高校生のとき修学旅行先の広島原爆資料館で見た“描かれた被爆者”の姿。未だに脳裏に残っています。もし白隠さんと同じ11歳ぐらいで見たら、(私もかなりセンシティブな子どもだったので)同じようにトラウマになっていたかもしれません。もうすぐ4年目の3・11を迎えますが、東北の被災地の方々にとって、大津波の映像はまさに地獄絵。地獄のビジョンとは、リアルに感じられる痛みであるからこそ、心に滓のようにからみついてしまうのでしょう。・・・となると、白隠さんがトラウマになった当時の地獄絵は、少年岩次郎(白隠さんの幼名)の身近に実存した不条理な死や痛みに通じるものがあったのだろうと想像します。

  ところが白隠さんが70歳ぐらいのとき、自ら描かれた「地獄極楽変相図」は、以前こちらでも紹介したとおり、怖くておどろおどろしい従来の地獄絵のイメージとはちょっと違う。今回のフォーラムのチラシやポスターに使われたので、多くの皆さんに認識されたかと思います。おどろおどろしい地獄絵だったら、そもそもポスターには使わないですよね(笑)。

 

 地獄絵とか地獄変相図とかよく言いますが、「地獄極楽変相図」というのが正しい言い方だそうで、四聖(仏・菩薩・声聞・縁覚)と、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)を併せた十の世界=十界図のこと。地獄と極楽がセットになったものらしいのです。おどろおどろしい責め地獄ばかりでは「“恐怖”で脅すナントカ国と同じじゃないか」と言いたくなっちゃうけど、もちろんそんなワケない。

 白隠さんが「地獄極楽変相図」で描いたアーチ型橋に乗った人間たち。左から幼→老と人の一生を描いたものとされています。こういう構図は、実は中世から伝わる「熊野勧心十界曼荼羅」を白隠さんが参考にしたらしくって、白隠さんの幼少期、東海道筋では熊野比丘尼の一行がさかんに往来しており、岩次郎少年もきっと曼荼羅を見る機会があったのだろうと。

 この「熊野勧心十界曼荼羅」は、画の上部にどでかい半円弧のアーチが描かれ、人の一生が右から左へと展開。アーチ内部には○に「心」という文字ドカンと据えられている。「心」って文字をそのまんま描くなんて、斬新といえば斬新です。

 

  白隠さんは「地獄極楽変相図」と同じテーマの、「十界図」という画を描かれています。芳澤先生の著書『白隠―禅画の世界』(中公文庫)に紹介された「十界図」は中央に閻魔大王ではなく美しい観音菩薩さま。机と椅子に座られ、机の上にはお経らしき巻物。これを順番待ちする人々に授け、手にした人々は満面の笑顔。感涙にむせぶ人もいます。観音さまの背景には洞窟のようなでっかい穴。穴といっても真っ白で、氷のようにも大きな円鏡のようにも見えます。ユニークなのは、その丸い円の鏡みたいな穴の上に「心」という文字が草書体で、まるで傘のように大円鏡と観音さまを覆っている。草書体の「心」からは、滝の流水にも、岩の切れ目のようにも見える縦の筋線が何本も描かれている。なんとも不思議な構図です。

 講演で紹介してくださった「十界図」は、同じように観音さまが中央にお座りになって経巻を人々に手渡そうとされていますが、背景が丸鏡ではなく山水画になっていて、「或現宰官身、或現婦女身。問君未現日、何處藏全身」という画賛が添えられています。 「(観音さまは)あるときは宰官、あるときは婦女のお姿で現れる。では君に問う。お姿が見えない日、その全身(本質)はどこに隠れておられるのか?」という意味。賛は画の左端に添えられていますが、「全身」の二文字だけが山水の絵の上のほうに離れて書かれています。画像を掲載できないのでピンと来ないかもしれませんが、これも実に不思議な構図です。

 

 芳澤先生は、「全身」の二文字が山水を指すように真上に書かれたことを、「観音さまの本質=山水(自然の美しさ)=心」を示すと説きます。先に紹介した円鏡の十界図であれば「観音さまの本質=鏡=心」ということになる。『白隠―禅画の世界』で先生は白隠さんの語録『荊叢毒蘂』を引用し、詳しく解説されています。

 

 

 地獄も極楽も人間の心の鏡に映ったものにほかならず、その根源は阿頼耶識であり、その根本意識が地獄ともなり極楽ともなる。

 もっとも根源的なところに、浪ひとつ立てぬ静寂な水が湛えたように潜んでいる意識、それを阿頼耶識という。宇宙の万物はすべてここから展開するので、含蔵識ともいう。喜怒哀楽など現実の煩悩の根源である。たゆまずに修行して、この暗窟のごとき境界を見徹し突破するならば、これがそのまま大円鏡光となる。

 生きとし生けるものは、みなひとつずつ鏡を持っており、これにあらゆる存在を乱さず欠かさず映し出す。(中略)この心という鏡をたえず払拭し磨き、永遠に努力するものを二乗の声聞という。しかしいっぽうで、この清浄な鏡のような境地に安住せず、鏡面に一鎚を下し、そこをつきぬけ根底から見透し、大円鏡光をわがものとし、その鏡中にある生きとし生けるものを自在に利済していく者、これを大乗円頓の菩薩というのである。(白隠ー禅画の世界 p243~247より)

 

 

 ちょっと難しい表現もありますが、白隠さんが指し示した意味、なんとなく伝わってきますね。地獄と極楽は、心のありようによってどちらにも転ぶもの。閻魔大王と観音さまを同じような構図で描いたのも、白隠さんお得意の“うらおもて同一表現”のように見えます。白隠さんが描かれた地獄絵は、人間の心の根源に眼を向けた救いの絵であり、心を磨きなさいという激励のメッセージなんですね。当時、庶民の間には「借りるとき地蔵 済す時ゑんま顔 うつてかはりし おもてうら盆(金を借りるときは地蔵さまのような顔で貸してくれるが、返済をせまるときは閻魔様のようだ)」という諺が浸透していて、地蔵と閻魔が同一人物のおもてうらであることは共通認識にあったそう。そういう人々に、わかりやすく、ウィットに富んだ表現で、心=阿頼耶識の重要性を説かれたのです。深いですねえ、実に。

 

 青島酒造で喜久醉松下米の上槽に立会い、槽口から搾りたての滴がひとすじ流れ落ちるのを見たとき、田んぼに根を張った黄金色の稲穂を思い出しました。あの米が酒になり、呑む人を菩薩のごとき心地にさせるのか、はたまた地獄の責め苦の境地にさせるのか・・・それはおそらく、米を育てた松下さん、酒を醸した青島さん、そして呑む私自身の心根次第なんだろうと。

 ちなみに一番搾りを試飲した青島さんは「思い描いたとおりに、生まれてくれた・・・!」と仏のような笑顔でした。蓄えられた種子(=過去の経験)が現れるというのが阿頼耶識の性質だそうですから、彼らが今年の酒にどんな思いを込めたのか、白隠画を読み解くが如く、味わい解いてみたいものです。


白隠フォーラムin東京 2015 「万法帰一」と白隠

2015-01-30 16:11:21 | 白隠禅師

 昨年末、沼津市原の高嶋酒造で早朝4時から始まる上槽(搾り)を取材するため、自宅を2時30分に出発しました。駐車場のある南南西の夜空には鮮やかなオリオン座が輝き、国道1号線バイパスの興津~由比あたりを走っていたら、煌々とした月が駿河湾の黒いさざなみを照らしていました。15分ほど早く原に到着し、松蔭寺周辺をドライブしながら、白隠禅師もこうして冬の美しい夜空を眺め、いろんなことを思索されていたんだろうなあと想像しました。白隠さんは「宇宙」という概念をお持ちだったんだろうか・・・。

 写真は高嶋酒造で熟成中の「白隠正宗」のもろみ。なんとなく宇宙的でしょう?

 

 

 現代科学の知見を持たない白隠の時代、修行僧たちは星や太陽やもろもろの自然現象をどのように捉えていのか、あの早朝の漠然としたハテナに答えが見つかるのではと思い、参加したのが、1月24日(土)、新宿紀伊国屋ホールで開催された【白隠フォーラムin東京2015】でした。テーマは「私は誰か?宇宙はどこから来たのか?」。講師は宇宙物理学の第一人者・佐藤勝彦氏(自然科学研究機構長・東京大学名誉教授)、佐々木閑氏(花園大学仏教学部教授)、芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所教授)。各分野の日本最高峰の論客による深遠な内容で、とりわけ佐藤博士のインフレーション宇宙論は90分かそこらで理解しようと思っても科学初心者にはハードル高すぎでした(苦笑)。帰宅後、【別冊Newton~宇宙、無からの創生】を購入し、目下、懸命に復習中です。

 

 

 かろうじて「理解の入口に立てたかも」・・・と思いたいのが、芳澤先生の講演「万法帰一と白隠」。先生がよく取り上げられる“白隠メビウスの輪”でお馴染み、「在青州作一領布杉、重七斤」の布袋図を題材に、白隠さんの宇宙観、ともいえる教えの一端に触れることが出来ました。

 

 この布袋図は、真ん中にニコニコ顔の布袋さんと3人の童子。布袋さんは長方形で帯のように長い紙の両端を持って、ぐるっと円にして両端を頭上に掲げています。右側には紙の表面に「在青州作一領」の文字、左側には紙の裏面に「布杉、重七斤」。文字もちゃんと裏返しで書かれています。画像ナシではピンと来ないと思いますが、勝手にコピー使用するわけにもいかないので、試しに自分で作ってみました。こんな感じで、真ん中の輪っかの中に布袋&童子の顔が描かれています。

 

 

 これは実際に表面に「在青州作一領布杉、重七斤」と描いて半分を裏返しにして端っこをつないで、“メビウス”状態にした3次元のものを写真に撮っただけですが、白隠さんは2次元の紙の上に、ひねった紙を構図として描かれたわけです。な~んでこんな七面倒くさい表現方法を??と誰しも思います。

 まずは「在青州作一領布杉、重七斤」の意味を先生に解説していただきました。11世紀の宋の時代、圜悟(えんご)が書いた『碧巌録』に、「趙州万法帰一(じょうしゅうまんぽうきいち)」という有名な公案(禅問答)があります。唐の時代、趙州和尚という高僧がいて、あるとき、若い僧から「万法帰一、一帰何処(あらゆる存在は一なるものに帰着するといいますが、その一はどこに行くのですか?)」と訊かれ、件の言葉―すなわち「わしは青州におったとき、襦袢を一枚作った。重さは七斤あったんじゃ」と答えたそうです。さすが禅問答!ちんぷんかんぷんな答えです(笑)。

 

 碧巌録の著者、圜悟は「趙州和尚の答えは非論理的だが見過ごしてはいけない。自分がそのように訊かれたら、“腹が減ったら飯を食い、疲れたら寝る”と答えよう」と言ったそうです。その答えも非論理的でしょう~とツッコミたくなりますが(笑)、圜悟自身は「但参活句不参死句(参句=常識を超えた言葉の意味を考えなさい、不参句=常識的な言葉に惑わされてはいけないよ)」と禅問答集の編者らしい物言いをする人でした。

 最近の研究では、趙州和尚の出身地青州では赤ん坊の体重が七斤(約4.2kg)とされていることから、「帰一」とは、おぎゃあと産まれ落ちた生身の自己に帰るという意味だと、きわめて常識的に解釈されているそうです。でもその説が正しかったら、白隠さんなら赤ん坊の画か何かで解くはず。あえて難解なメビウスのひねりを描いたほんとうの理由=白隠流解釈は別にありそうです。

 

 芳澤先生は白隠禅師の漢文語録『荊叢毒蘂(けいそうどくずい)』を訓注・現代語訳され、今春刊行される予定です。白隠さんの駿河訛りの肉声がそのままテープ起こししたみたいに収録された超注目の語録とのこと。その荊叢毒蘂で白隠さんは「万法帰一、一帰何処。州曰、在青州作一領布杉、重七斤」について、「この公案は実によい。生死(=迷い)の根元をたち截り、無明のもとをくだくことのできる話頭である」と述べているそう。「この自己の鏡にむかって、この一鎚をふりあげ、朝も夜もひたすら拈提(ねんてい=公案について考える)するならば、七日たたぬうちに生死も涅槃も、煩悩も菩提も、一鎚に撃砕して全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わうであろう」と続きます。

 ちょっと複雑な表現ですが、先生は「白隠は、万法(あらゆる存在=有)と一(絶対に分けられない存在=無)は別々であるが、実は同じモノの表と裏の関係と捉えた」と解説されます。好きと嫌い、肯定と否定、煩悩と菩提・・・二項対立のように見えるものは、みな同じ。そのことを、ひねった紙の表裏で表現した。しかも、ドイツの数学者メビウスが、不可符号曲面の数学的特徴である「メビウスの環」を提唱した100年も前に。そこから発せられる白隠さんのメッセージとは「絶対矛盾をつきつめよ」と先生。

 

 

 そうはいっても、凡人が「万法も一も同じ、その矛盾を追究せよ」と言われたところで、何をどうすればよいのか、拈提の方法がわかりません。物事にオモテとウラがある、人の心にも本音と建前がある。そこまでは理解できるけど、突き詰めていったら「全世界が木っ端みじんとなるような大歓喜を味わう」ような境地になれるものでしょうか。

 

 まあ、私のような、禅学のさわりのさわりをさすっただけの素人は、理屈で理解しようとしがちで、理詰めで考えたところで答えがでないのが禅の公案。仏教徒の誓いの言葉である『四弘誓願文(しぐせいがんもん)』には、

 

 衆生無辺誓願度(いきとしいけるものを救え)  

 煩悩無尽誓願断(煩悩を絶て)  

 法門無量誓願学(法の教えを守れ)  

 仏道無上誓願成(仏道を完成させよ)

 

とあります。白隠さんは順番を少し変えて、

 

 法門無量誓願学(まず仏教以外のことも含め、一生懸命学びなさい)

 衆生無辺誓願度(それを周囲の人々に説いていきなさい)

 煩悩無尽誓願断(そうすれば煩悩が自然に無くなり、)

 仏道無上誓願成(仏道に達することができる)

 

と教えたそうです。利他の精神で日々勤行するその先に、矛盾にとらわれない澄んだ鏡のような心境に近づけるのかもしれません。自分の場合はこうして学んだことを復習し、活字にまとめて発信し続ける、ということなのかな。

 

 ところで、1154年に刊行された『祖庭事苑』という日本最古の禅語辞典に、宇宙とは「天地の四方を宇という。古往今来を宙という」とあるそうです。宇は空間を、宙は時間を意味すると考えられていたんですね。「虚空」「無始無終」「無前無後」というような表現もされていました。

 禅画によくある、大きな丸を描いただけの「円相」。白隠さんは何万点も禅画を描いているのに意外にも円相は4点ぐらいしかないそうです。あれだけ豊かな筆遣いや表現力をお持ちの白隠さんからしたら、丸を描いて終わり、なんて物足りないに違いありません。それでも数少ない円相には「十方無虚空、大地無寸土」という画賛が添えられています。「虚空もなければ大地もない。ただ清浄円明なる大円鏡の光が輝いている」という意味だそうです。・・・これは、考えようによっては、量子論を取り入れた最新の宇宙物理学によって、「宇宙の始まりは“無”だった」「宇宙が誕生する瞬間、“虚数時間”が流れた」「それによって宇宙の“卵”が大きくなり、急膨張した」「高温・高速度の火の玉状態(ビッグバン)を経て恒星や銀河が出来た」という宇宙の成り立ちを表現しているようにも思えます。

 

 白隠さんのことだから、夜空を見上げるうちに、「時間も空間もない無から宇宙が始まった」ことを観念的に理解したのではないか・・・などと妄想したくなるほど、思惟ある画賛です。三千世界を彷彿とさせる壮大な宇宙観。科学の力で観測・実証できたとしても、人間自身が認識するものである以上、宇宙イコール自己、と言えなくもない。

 今、読んでいる武藤義一氏の『科学と仏教』に、「釈尊は宇宙の創造神を認めず、内観によって自己を知り、智的直観によって宇宙や人生の全てを成り立たせる法を悟った」とあります。「科学はwhat に答えるもので、仏教はhowに答えるもの」ともあります。となると、“絶対矛盾をつきつめよ”という教えを科学者が実践してきたからこそ、今日の宇宙物理学があるとも言える。白隠さんが現代に生まれ変わったら優れた科学者になっていたかもしれませんね。