杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河白隠塾第1回フォーラムのお知らせ

2015-01-10 20:55:28 | 白隠禅師

 昨年末、こちらの記事でご紹介したとおり、駿河白隠塾の第1回フォーラムが2月27日(金)に開催されます。今日(10日)、事務局よりパンフレットが届きました。

 

 

 このパンフレットに使われた『地獄極楽変相図』、白隠画としては一般的にあまりなじみがないかもしれません。沼津市原の清梵寺が所蔵しており、毎年7月20日前後の地蔵盆縁日のとき、一般公開されるそうです。2014年11月の白隠フォーラムIN沼津でもフランソワ・ラショー先生が取り上げてくださり、白隠さんの深いメッセージ性と構図の面白さに魅了されました。こちらの記事であらましは紹介したものの、実物の画がないと読者のみなさんにはピンと来ないだろうなあと思っていましたが、こうしてパンフレットに使われて目にする機会が増えてよかった!

 

駿河白隠塾 第1回白隠塾フォーラム「白隠を語る」

□日時 2015年2月27日(金) 18時~20時30分 (開場17時)

□会場 プラザヴェルデ3階コンベンションホールB (JR沼津駅北口より徒歩3分・こちらを参照)

□料金 一般2000円 会員無料 

□講師 

玄侑宗久氏/作家・福島県三春町「福聚寺」住職。2001年「中陰の花」で芥川賞、2007年「般若心経いのちの対話」で文芸春秋読者賞。2009年より花園大学、2011年より新潟薬科大学客員教授。公式サイトはこちら

芳澤勝弘氏/花園大学国際禅学研究所教授・副所長。白隠研究の第一人者であり、花園大学国際禅学研究所主催の白隠フォーラムを国内外で開催し、講演も多数行なう。駿河白隠塾塾長。花園大学国際禅学研究所公式サイトはこちら

 

□申込 電話かメールで駿河白隠塾事務局へ。TEL 055-925-0512  hakuinjuku@hakuin.jp

*定員(会員枠300名、一般枠100名)になり次第終了。なお入会は随時受付。年会費(3000円)にて年2回の白隠塾フォーラムに無料参加できます。上記事務局へお問合せください。

 

 

 以下は蛇足です。

 偶然ですが本日(10日)付けの中日新聞朝刊にて、地酒ライターとして【白隠正宗】の蔵元・高嶋酒造を取材中の私を紹介していただきました。「発信クールしずおか」という正月企画で地域を元気付ける応援活動をしている人々を取り上げるシリーズの7回目(最終回)。昨年末に依頼を受け、取材を受けるなら酒蔵がいいだろうと考え、直近で12月18日に朝4時から高嶋酒造で上槽(搾り作業)の取材予定があったことから、担当の女性記者に「朝4時からだけど来る?」と訊いたら、わざわざ沼津に前泊して来てくれました。

 その日は夕方からこの駿河白隠塾の理事・運営委員の会合があり、私はこの写真の格好のまんま参加し、「第1回白隠塾フォーラムが無事成功したら、白隠正宗で乾杯しましょう」と息巻いて、他のお歴々から白い眼で見られた(笑)と思います。

 

 

 

 高嶋酒造はじめ、原の旧家には貴重な白隠画がたくさん残っており、多くは一般の眼にふれる機会は少ないようです。白隠画は古美術品として異様に高値が付くらしいこと、禅の伝道として真摯に扱って欲しいと願う寺院が少なくないことも漏れ聞いています。私のような酒飲み部外者が軽々しく書いたり語ったりしてはいけない世界なのかもしれませんが、白隠さんのことを少しずつ勉強していくと、白隠さんが伝えてくれたものを今の時代に活かすために、いろんな人がいろんな手法で挑戦することを、白隠さんご自身は理解してくださるのではないか・・・と思えてくるんです。「駿河に過ぎたるものあり、富士のお山と原の白隠」と謳われたほんとうの意味を、寺院や美術関係者しか知らないとしたら、富士山のネームバリューに比べて小さすぎ!と思いませんか?

 

 第1回白隠塾フォーラム、平日夜ですが、ぜひともご参加ください。そして終了後はぜひとも沼津で「白隠正宗」を呑んでお帰りくださいな!

 


平洲と芳洲

2014-12-23 15:08:51 | 白隠禅師

 前回記事で駿河白隠塾立ち上げに触れたところ、理事のお一人から感謝のメールと、郷土の偉人をまちづくりに活用した事例を紹介していただきました。愛知県東海市の細井平洲です。

 パッと見、どこかで目にしたような名前だけど何した人だっけ・・・と思いあぐね、ネットで調べたら、かの上杉鷹山の師匠だった儒学者。あわてて本棚から埃をかぶった内村鑑三の『代表的日本人』を久しぶりに紐解いて、その名を確かめました。そしてすぐにAmazon kindle で門冬二『上杉鷹山の師 細井平洲』を購入し、両国橋で辻芸人と一緒に街頭講義をしていた平洲を藁科松伯が米沢藩にスカウトし、上杉直丸(のちの鷹山)に初講義をするあたりまで一気に読んで、「白隠さんに似ているなあ~」と唸ってしまいました。

 平洲は、藩主の教育係になっても街頭講義はやめないと宣言し、お屋敷の中で突然、庶民相手の講談口調で話し始めて家臣たちをビックリさせた。平洲は「たとえどんなよい内容であっても、表現が難しければ一般には理解できない。相手側の身に立って、どういう話し方をすれば理解できるかを工夫することが大切だ。それが人間に対する愛情なのだ」と諭し、両国橋で庶民に語り掛ける話法で若殿と家臣を教育したそうです。

 

 白隠さんが残した膨大な書画も、相手のレベルに合わせ、白隠さんがさまざまな“メディア”を駆使して表現した禅の教えです。その教えの真意を正しく“解凍”し、現代へつなげようと、まずニューヨークやヨーロッパで白隠禅画を説き、東京国立博物館ではなく渋谷のBunkamura で白隠展を開いて若者や外国人の関心を集め、保守的な宗門や歴史家たちに刺激を与えているのが芳澤勝弘先生。平洲の「相手側の身に立って工夫するのが愛情」という一節が、そのまま重なるようです。

 

 平洲と芳澤先生。並べてみてふと思い出したのが「芳洲」でした(すごーい単純な発想でスミマセン)。朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩お抱えの儒学者雨森芳洲で、当ブログでも過去何度か触れてきました。こちらの記事が一番分かりやすいかな。

 

 ここで2007年制作の【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】のシナリオから林隆三さんに朗読していただいた一節を紹介します。

【雨森芳洲(1668~1755)】

「滋賀県高月町雨森村に実家のある雨森芳洲は、17歳のころ、江戸で儒学者木下順庵の門下生となり、22歳で対馬藩に仕えます。そして長崎で中国語を、釜山で朝鮮語を学び、対馬藩の朝鮮担当役として活躍します。1711年と1719年には朝鮮通信使に江戸まで随行しました。」

「晩年、芳洲が著した『交隣提醒(こうりんていせい)』。この中に、文化の違う国とつきあう上で、芳洲が大切にしていたことが数多く記されています。」

 

(交隣提醒の朗読)

朝鮮との交際は、第一に人情・社会のありようを知ることが大切です。日本と朝鮮とは、何事によらず風習が異なり、好みも異なりますから、そういうことに理解なく日本の風習で朝鮮人と交わろうとすると食い違いが多く起こるのです。

 朝鮮人は、日本人と言葉の上であっても争わないように心がけていますから、いつも自分の国のことは謙遜して言います。ところが日本人は、酒ひとつとってみても、“日本の酒は三国一でござるから、皆もそう承知しなさい”と威張り、朝鮮人がなるほどと答えれば同意したと思い込みます。もし彼らが日本の酒が三国一であると思っているなら、皆で集まる宴会の際、とくに日本酒を工面して用意するでしょうに、そうしないのは、日本人の口には日本酒がよく、朝鮮人の口には朝鮮の酒がよく、中国人の口には中国の酒がよく、オランダ人の口には焼酎に香草を浸した酒がよい、というのが自然の道理だからです。

 誠信の交わりとは、多くの人が言うことですが、意味をはっきり理解していません。まことの心ということで、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることをいうのです。

 

 

 朝鮮通信使のシナリオハンティングで最も印象深かったのが滋賀県高月町でした(脚本執筆時の苦労話についてはこちらもぜひご覧ください)。芳洲を郷土の偉人として町全体で称え、芳洲ゆかりの地は国際交流の場として活用されています。言葉や文化の異なる相手の立場を思いやる・・・そんな芳洲の教えが今の教育に生かされている。郷土の偉人をこんなふうにまちづくりに活かすって理想的だな、と思いました。

 

 駿河白隠塾がどんなベクトルで進むのか、私には想像できませんが、平洲を活かした東海市(こちらを参照)、芳洲を活かした高月町のように、一般にメジャーでなくても出身地の人々が学校で当たり前のように学び、その教えを自然に身に着け、地域社会を豊かにしていく、人づくりによる地域創生につなげてほしいですね。そのために白隠塾でも各地の偉人活用事例を積極的にリサーチし、地域間同士で情報交換や学びあいの機会を作ったらどうかと思います。白隠さんと雨森芳洲は同世代に生きた人ですから、どこかですれ違っていたかもしれないし・・・!

 そうそう、静岡県では平成21年に国文祭があったとき、【輝く静岡の先人】という偉人カタログ(白隠さんも載ってます)を作ったんですが、こういうのも作りっぱなしじゃダメですよね・・・。


沼津白隠学の未来

2014-12-20 14:45:26 | 白隠禅師

 今年は沼津で2回、7月と11月に開かれた白隠フォーラムに参加したことで、白隠さんと、白隠さんが終生暮らした沼津というまちをグッと身近に感じています。これまで沼津といえば、食や酒や観光の取材がほとんど。白隠さんを通してみた沼津には新鮮な驚きや発見がありました。今後、自分がこのまちとどう関わっていくのか、不思議な転換期になった感があります。

 

 11月の白隠フォーラムでは、沼津で新たに【駿河白隠塾】という組織が立ち上がることが発表されました。白隠さんの生家・長澤家の現在の当主長澤一成さんが代表に、芳澤勝弘先生が塾長となって、フォーラムや縁地ツアー等を定期的に開催し、地元で白隠さんをきちんと学ぶ場にしていこうというもの。11月に参加した友人たちは、わりと軽く、「沼津市が白隠さんを担ぎ出して町おこしするんだ~」というとらえ方をしていましたが、私は自治体のシティプロモーションという枠ではとらえきれない深いものを感じていました。静岡市が2007年にシティプロモーション予算で映画【朝鮮通信使】を製作したときの“裏側”を経験し、誰もが知っている有名人や人気キャラクターではなく、一般に馴染みのない人物や片寄った見方をされがちなテーマでシティプロモーションするという作業はハンパな覚悟では出来ないと思っています。

 長澤さんは現在、耕文社という印刷メディア企業を経営されており、芳澤先生は白隠学の世界的権威ですから、このお2人がヘッドとなれば、かなりのことは出来ると期待されますが、川上のほうで盛り上がるだけでは長続きしない、川下のほうからジワジワ熱を上げる導火線というか発火源みたいなものも必要ではないでしょうか。

 

 そんなこんなで駿河白隠塾の船出を川下のほうから見守るつもりでいたところ、思いがけず運営委員に、というお声かけをいただき、18日に開かれた顔合わせの会合に参加しました。代表と塾長のほか、理事5名、運営委員16名、事務局5名というしっかりした組織で、県や市や経営団体代表者や文化事業者など等、立派な肩書きの方々ばかり。静岡市民でフリーランスのライターで地酒研究会・・・なんて自分は場違い感アリアリで、挨拶では地酒「白隠正宗」の話と朝鮮通信使制作時の裏話ぐらいしか出来ず(苦笑)。もうちょっと沼津に貢献できそうな、マシな自己アピールができなかったかなーと帰宅後に反省し、過去、沼津について書いた原稿を精査してみたら、ありました!

 

 以下は、スルガ銀行のシンクタンクから受注していた仕事で、沼津市の教育関係者の座談会(2009年11月開催)を記録したものです。その名も「夢ある人づくり塾」。改めて読み返してみたら、沼津には素晴らしい教育哲学があるんだと深く感じ入りました。○○塾というネーミングも、この頃から定番だったのかな。白隠さんの名前が出てくる部分を書き出してみます。

 

 

「白隠さんは世界のインテリの王道のように扱われていますが、白隠さんは地獄が怖くて仕方なくて、地獄から遠ざかるにはどうすればいいかが修行のきっかけだったという。そういうことは子どもたちにもあって、いじめに対する恐怖は共通して持っている。いじめられたくないから、いじめ側に入るわけでしょう。子どもたちには、ポジティブな夢ばかりでなく、ネガティブなものだって目標になるんだと教えてもいいのではないでしょうか?何でも夢にならないものはない、地獄ですら目標になるんだと。」

 

「白隠さんに関しては、私どもが中学高校のころはまったく触れられていなかったと思います。たまたま私は本を読んで知っていたのですが、たぶん今、白隠さんを市の教育で取り上げるとなると、宗教や個人崇拝云々の問題になるでしょう。社会全体、日本全体が夢を持っていないというのはそのとおりですが、地球規模の環境問題がクローズアップされている中、これをテーマに日本人が世界を救う、みたいなことをやろうじゃないかと考えています。」

 

「夢があっても挫折する場は多い。私の弟は東大の赤門を見て絶対ここに入ると宣言しながら入れなかった。私も入れませんでしたが、そんな挫折はしょっちゅうあっても何とかやっていくのが人間です。今、自殺が非常に多いのは、夢破れると簡単にあきらめてしまう。夢ある人は子どものことばかりでなく、生涯教育の面でも通じることだと思います。」

 

「教育委員会で小学校や中学校を訪れた時、先生の退職率が高いと聞きました。小学校や中学校が勉強の場ではなく、生活指導の場になってしまっていて、生活指導をしてくれない先生に親がクレームをつけるという。家庭教育が崩壊したため、躾から何からみんな学校に押し付け、先生は「こんなストレスの多い仕事はやってられない」と退職率が増えているというのです。家庭教育の崩壊をいかに食い止め、再生させるかを考えないと、いくら学校改革をやったところで何も解決しないと思います。」

 

「白隠禅師は子どものころ、地獄が怖くて夜も眠れず、大きくなるまで母親が懐にひしと抱きしめて眠らせたという。親というのは、学校の先生にどう文句を言おう、じゃなくて、子どもと正面から向き合い、ひしと抱きしめてほしい。手を上げるにしても、抱きしめた後で叩いたほうがいいんじゃないでしょうか。いきなりぶん殴られて、喧嘩にならないほうがおかしい。夢だって、親が釣りに夢中なところを見せてもいい。どんなつまらない魚だって夢中になって釣りをしている父親を見れば、一緒にやってみようと思うでしょう。そういう親子関係が基本ではないでしょうか。白隠さんのおっかさんのような理想が、故郷にあるじゃないですか。家庭におけるしつけも含めた教育のモデルが、わが故郷に在り、ですよ。」

 

「大事なところは本に親しむ、かかわる、読み書きを大切にするということですね。東北大学の先生が脳の血液の流れを調べたところ、読み書き計算をしているとき、脳の活性化に役立つということがわかりました。とくに小学校中学校の教育では大切ですね。もうひとつ、家族の構成が、家庭教育において非常に大きい。私が子どもの頃は、母親に叱られても祖父がなだめてくれたものです。家庭教育で互いに分担できるのが理想でしょうが・・・。」

 

 「地獄を怖がっていたらひしと抱きしめてあげてくださいよ。地獄なんてテレビゲームでしか見たことないなんて親子は、お寺に行って地獄絵を見てきなさいといいたい。宗教教育は日本で徹底的に禁じられていますから、家庭で教えるしかない。南無妙法蓮華経を唱えようとしたら、次の選挙に影響するからなんて言われる。そんなの関係ないでしょう。日蓮さんが命をかけて伝えた教えです。山岡鉄舟は馬で龍譚寺(白隠が開いた禅道場)まで行って参禅して、また馬で江戸城まで帰って勤務についたという。それぐらい自己研さんに励んだ人です。そういう人を輩出したのが駿河静岡なんです。」

 

「人間の問題は、本質的に人間自身を深めていかないと解決しないように思います。個人と、社会的存在としての人間をどうするかを考えないと、根本は解決しないのでは。教育問題から離れてある種の哲学の問題になるのかもしれませんが、我々学生のころは哲学的なことを一生懸命考えたものですが、日本にそういうものがなくなってしまいましたね。」

 

「親や先生から「お前の夢は何だ」と聞かれること自体にストレスを感じる子どももいるようです。世の中には夢を持って邁進する人もいれば、夢を持った人を支え、協力して叶えようとする人もいます。よくイギリス人は「人間には『キャプテン』と『クルー』の2種類いて、全員キャプテンだったら船は動かない。キャプテンが指示する方向に櫂をこぐクルーがいて、初めて船は進む」という。だから子どもたちに夢を聞いた時、友だちにはっきりした夢を持ってリーダーシップを発揮できる子がいたら、自分にこれという夢がなくてもその人についていく―そういうことも大事だよと教えるべきだと思います。」 

 

「日本の戦後教育は、みんなキャプテンになるよう教えたんですね。それは無理なんだよね。悪しき平等です。平等はあくまでも機会の平等です。もうひとつ、家庭は教育を目的じゃなく手段にしてしまっている。ようするに、いい大学に行くためにいい高校に行き、いい高校に行くためにいい中学に行くという。何になりたいのか、そのためにどの学校を選ぶかという発想がない。親が失敗したことを子どもにもしているように見えます。」

 

「地獄大菩薩の絵を見て潰れそうな会社を立て直した社長さんが実際にいたんですよ。地獄でさえ夢になるのです。言葉教育に力を注いでいる沼津なら、別に白隠さんや地獄大菩薩でなくてもいいので、基礎能力の慣用と道徳心を大切にしてほしい。お隣の小田原には二宮尊徳さんもいるでしょう。尊徳さんの素晴らしさは彼が残した文字や言葉から学んでほしい。大人も子供も精神の骨格は同じです。子どもは親の道具じゃないし、教師は学校の職務業績の指標として見てほしくはないのです。」

 

「我々の世代はキルケゴールやニーチェなどをかじり、神は存在するかどうかなんて思案したものですが、我々下の世代、つまり今の親の世代ではそういうことはしないでしょう?哲学は今の日本は非常に貧困です。大学自身がそうですね。今の学生はまず漫画でしょう。我々は文学やらいろんなものを読みましたが。」

 

「死と直面することで人は哲学になれるんですね。戦前の人が哲学的だったのは、いつ徴兵されるかわからない状況で生と死を考えざるを得なかった。そういう状態に戻すというのは平和に逆行するわけですが。結論は出なくてもいいのです。ある種、自分の在り方についてフレキシブルに考えるというのが大切です。」

 

 「子どもは葬式にたくさん連れていくべきでしょうね。人の死をたくさん見せるべき。」

 

 「言葉の教育は非常に大切です。言葉というのは、ようするに情報を伝えるだけでなく、自分自身が言葉を通してしっかり考えている。その意味で言葉の重要性を考えなければなりません。我々学生のころは、酒を飲みながらも議論をしたものですが、今の学生は議論しません。」

 

 「今の臨床心理学や心理療法では、世界共通で「物語」になっていると相互理解が進むといわれています。物語という形になっていると、なぜ人と人が結ばれるかが理解できる。世界中で、言葉を使って物語にすることで、世界を解釈できるのです。これには子どものころから本を読み、物語が好きになることが大切です。」

 

「日本は言霊の国だったのです。日常の中で言葉を大切にしていた。沼津の理想は言葉教育先進シティです。」

 

 

 白隠さんの物語をつむぐ、芳澤先生という素晴らしいキャプテンの指し示す新たな航路。一番下っ端クルーとして一所懸命漕ぎ続けていきたいと思います。なお駿河白隠塾では2015年2月27日(金)18時から、プラザヴェルデで第1回フォーラムを開催予定です。講師は芥川賞作家玄侑宗久さんと芳澤先生。チラシが入手出来次第、詳しくご案内しますのでご期待ください。

 


白隠フォーラムin沼津 2014 (その3)~白隠劇場の役者たち

2014-11-23 15:46:50 | 白隠禅師

 11月9日白隠フォーラムin沼津の続きです。

 三番目に登壇されたのは、このフォーラムの顔ともいえる芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所副所長・教授)です。

 ちょっと面白かったのは、フォーラムが始まる前、花園大学側代表者の挨拶で「若い頃より年齢を重ねてからのほうが、禅を学ぶ面白さが分かると思います」と、熱心に社会人入学を勧めていたこと。入場無料でこれだけ充実したプログラムを提供するのはこういうPRも兼ねていたのか、と妙にナットクしてしまいました。私自身は出来るものならすぐにでも芳澤ゼミに入学したいと願っているのですが、今のところ京都へ遊学できる時間&経済的余裕はナシ(涙)。時間とお金に余裕のあるシニアのみなさん、ぜひ学生になって本格的に学んでみてはいかがでしょうか。こちらの大学HPを参照してください。

 

 さて、7月のプラザヴェルデ開館記念講演で「富士大名行列図」を取り上げた芳澤先生。今回は「布袋吹於福」をメインに紹介してくださいました。「布袋吹於福」は、布袋さんが煙草を吸いながらお多福(於福)を吹き出すという、一度見たら忘れられない奇天烈な絵。2年前の渋谷Bunkamura白隠展のビジュアルツアー映像(こちら)に紹介されています。2分10秒~30秒あたりをご確認ください。

 

 布袋さんというのは中国に実在していた僧で、本名は契此(かいし)。生まれはさだかではありませんが916年に亡くなっています。山やお寺に籠もっている人ではなく、街の盛り場を行き来して人々に物乞いをしては袋に詰め、かついで歩いていたので「布袋」というニックネームがついた。お天気や人の吉兆を予言し、けっこう当たっていたそうですが、メタボ腹の見るからにだらしのない怪しげな乞食坊主だった。916年3月、奉化県(今の浙江省寧波市)の岳林寺の廊下で遺体となって発見され、そばに、

 「弥勒真弥勒、分身千百億、時時示時人、時人自不識」

 という偈(げ=仏の教えを説いた韻文)が残されていました。「我こそは真の弥勒菩薩なり。されど誰もわからなかった」という意味だそうです。このことが布袋伝説を生み、禅宗とともに日本にも伝わって、七福神に加えられました。

 白隠さんはこの布袋さんをとても敬愛し、数多く描いています。先生曰く「白隠劇場の主演男優」なみの扱い。お多福を吹き出したり、春駒(張子の馬)を操ったり、人形遣いを演じさせたりと、大道芸人並みのパフォーマンスをさせている。白隠監督のもとで布袋さんが演じた一番人気のキャラクター「すたすた坊主」は、お参り代行をして日銭を稼いでいた乞食坊主のことで、寒い冬でも裸で縄の鉢巻をし、腰に注連縄を巻いて面白おかしく口上を述べながら東海道筋を闊歩していた。元禄時代に来日したオランダ人ケンペルも、「街道でたくさん見かけた!」と目撃談を日記に書き残しています。すたすた坊主や大道芸人のようなストリートパフォーマーの存在を白隠監督はしっかり認識し、画題に採用していたんですね。

 

 お多福は先生曰く「白隠劇場の主演女優」。おふく、おかめとも呼ばれます。丸顔で鼻が低く、おでこが大きくて両頬がぷっくり。今風に言えば「ブサカワ」って感じでしょうか。神代、天照大神が岩戸に籠もってしまったとき、岩戸を開かせようと妖しいダンスをした天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、いわゆるお多福顔だったそうですが、当時はそれが美女とされていた。今年の正倉院展で話題になった「鳥毛立女図」も蛾眉豊頬のお多福系美女。美の定義は時代や地域によっていろいろ変わるものですね。

 白隠さんの時代、お多福はあいにく醜女の典型として扱われました。芳澤先生は白隠画のお多福の髪形や前帯姿から推察し、「宿場町の旅籠の飯盛り女か女郎を演じさせたのでは」と説きます。社会の底辺にいた醜女を「主演女優」にしたからには、当然、描きたい、伝えたいテーマがあったはず。着物の柄に「壽」という文字や「梅鉢紋」が躍っていることから、不幸の象徴ではなく、長寿の天神様のつもりで描いたのではないかと先生。

 醜いお多福が実は天神様の化身だった。大道芸人のような布袋さんが実は弥勒菩薩の化身だった。・・・白隠さんは「見た目で判断しちゃいけないよ」って教えたかったのでしょうか。

 

 白隠画の主題を探る“hakuin code”ともいうべき〈画賛〉を、先生に解説していただくと、

 

  随分とおもへど、おふくばかりは吹にくひものじや

  (一生懸命きばって吹き出そうとしたが、お福さんばかりはなかなか難しいものじゃ)

  善導吐三尊彌陀。布袋吹二八於福。吐彌陀依稱名功、吹於福將其何力。

  (中国浄土宗の開祖、善導大師が念仏を唱えるとそれが阿弥陀さまになったそうだが、この布袋は、煙草の煙から妙齢のお多福美人を吹き出すのだ。阿弥陀さま を吹き出すのは念仏の功徳だが、このお福さんを吹き出せるのは、さて、いかなる功徳によるのか)

  

 布袋が生きたころの中国には煙草がなかったので、煙草を吸う布袋さんとは、大の愛煙家だった白隠自身のこと。布袋さんの腰のあたりに描かれた瓢箪の根付には『道楽通宝』の四文字。室町時代に大陸から伝わった通貨『永楽通宝』を明らかに捩っています。

 これらの描写から、白隠さんが画賛に込めたメッセージとは「わしは煙草道楽もするが、人々に法を説き、福を分け与えるのが一番の道楽なんじゃ」と解読できるようです。衆生を救うのが道楽だという表現、とても面白いですね。芳澤先生によると「白隠が描く道楽とは、仏道修行によって得る楽しみと、酒色や趣味におぼれ放蕩し財産を食いつぶすという真逆の意味が込められている」のだそうです。

 各キャラクターにも二面性をしっかり与えています。すなわち、酒色道楽の象徴であるお多福が実は天神様の化身であり、すたすた坊主にまで身をやつした布袋は弥勒菩薩の化身であり、白隠自身でもある。・・・ものすごく高度で重層的な表現です。極楽と地獄、美と醜、正と邪、強さと弱さ―社会も人もつねに表裏一体、相反し、矛盾するものを孕んでいる。それをまるごとひっくるめて受け入れ、救うのが白隠禅の目指すところ、といえるのでしょうか。

 

 

 先生はこのほかに「雷神」を取り上げてくださいました。雷神が風の又三郎(風神)に「雲どもに集まってとお願いして」と手紙を書き、その返事を庄屋(宿場町の代表)が待っているという絵です。恵みの雨=仏の教えを乞う人々への思いやりが伝わってきます。お寺の名前に「雲」の字が多いのは、仏の教えのことを慈雨と表現するからだそうです。

 

 白隠フォーラムin沼津(その1)でも触れたのですが、このような絵と画賛を当時、どれだけの人が正しく読めて、内容を理解できたのか不思議です。そんな自分の疑問を見透かしたかのように、芳澤先生が明快に語りかけてくださいました。

 「当時の人々は、ひらがなを150文字ぐらい知っていた。今の人は50文字しか知らない」。・・・そうだった、ひらがなは、今使っているひらがなだけじゃなかったんだ、と今更ながら目からウロコでした。みなさんは変体仮名をどれだけご存知ですか?

 

 

 

 


白隠フォーラムin沼津2014(その2)~延命十句観音経

2014-11-22 20:53:44 | 白隠禅師

 11月9日の白隠フォーラムin沼津2014 続きです。

 お2人目の講師は臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺氏です。鎌倉の円覚寺といえば日本を代表する禅の名刹。その老師様と聞いて、勝手ながら高齢の方を想像していたら、自分より若い方だったのでビックリしました。1964年和歌山県新宮市のお生まれで、筑波大学在学中に出家。ご実家はお寺ではなく、身近な死をきっかけに小学生の頃から坐禅会に通ったり本を読んだり、ラジオで法話を聞いて仏教に親しみ、松原泰道氏に直接手紙を書いて教えを受け、仏道に入られたそうです。そういう経歴の方が40代で宗派のトップに就いたというのは、政治の世界より民主的だなあと感心しました(・・・エラそうな物言いですみません)。

 

 横田氏のお話は、白隠禅師が熱心に広めた『延命十句観音経』という、わずか42文字の短いお経について。

 

 観世音 かんぜーおん

 南無仏 なーむーぶつ

 与仏有因 よーぶつうーいん

 与仏有縁 よーぶつうーえん

 仏法僧縁 ぶっぽうそうえん

 常楽我常 じょうらくがーじょう

 朝念観世音 ちょうねんかんぜーおん

 暮念観世音 ぼーねんかんぜーおん

 念念従心起 ねんねんじゅうしんきー

 念念不離心 ねんねんふーりーしん

 

 漢字だけでもなんとなく意味がわかる、やさしいお経ですね。円覚寺では幼稚園児が毎朝唱えているそうです。

 白隠さんが59歳のとき、のちに筆頭弟子となる東嶺さんと出会い、後継者が出来て安心したのか61歳ぐらいから外の世界に視野を広げ、庶民に向けてこのお経をさかんに説くようになりました。「松蔭寺が山奥ではなく、東海道宿場町の街道沿いにあった町のお寺で、庶民の暮らしに身近に接していたから」と横田氏。白隠さんの功績からしたら、大伽藍を擁する大寺院の管首になってもおかしくないのに、白隠さんは生まれ故郷の町のお寺で生涯を送ったのです。おかげで原の町には全国から白隠さんを慕って修行僧や一般参禅者が大挙して押し寄せたんだとか。約250年後のこのフォーラムに700人集まったのですから、十分想像できます。

 白隠さんは75歳のとき、九州のさる藩主に宛て、このお経の功徳を紹介した手紙を書きます。それが「延命十句観音経霊験記」として伝わっています。


 大名は自身の日記で、白隠さんの手紙に、

 「この経を読んで瀕死の重病人が治癒した」

 「さる武将が敵に処刑されそうになったとき、このお経を読んだら敵将の夢に観音が現われ、処刑するなと諌めたため、命拾いした」

 「薄島(すきじま)のお蝶という娘が死んで地獄の閻魔大王に一生の罪科を調べられた。そのとき10歳位の小僧が現れ、たちまち観音様に変身し、“この娘は延命十句観音経を護念して未だに寿命が尽きないから、娑婆へ返して観音経の功徳を衆生に知らせる方が良い”とアドバイス。娘は生き返り、延命十句観音経の功徳を白隠に物語った」

 という摩訶不思議なエピソードが紹介されていたと書き残しています。いくらお経を勧めるためとはいえ、白隠さんが大名に奇跡話の類を説くのかなあと首をかしげたくなりますが、とにかくその大名の日記には、江戸でも白隠さんが説く延命十句観音経が大流行していると書いてあった。庶民がこの手の話を聞きつければ、間違いなくブームになるでしょう。

 

 横田氏は「このお経を、丹田に力を込めて何度も唱える。その繰り返しの中で、己の心を検証させる。それが白隠さんの言う真の功徳です」と解説されました。霊験記は、このお経に関心を持ってもらうためのきっかけ、という位置づけなのかな。同等で語っちゃぁ申し訳ないんですが、私なんかも地酒の講座で、「この酒は皇室献上酒です」「有名人の○○さんが大量買いしました」なんて“盛ったハナシ”で関心を引いたりします。自分が心底自信を持って勧める酒ならば、きっかけなんてその程度でも十分アリだと思っています。

 

 東日本大震災の後、被災地のお寺の支援に入られた横田氏は、僧侶が何をすべきか真剣に悩まれたそうです。炊き出しや瓦礫の片付に汗をかく中で、物資以外に届けられるものはないだろうかと。そして、ある人の助言で、延命十句観音経と観音様の絵を色紙に書いて被災寺院に届けたら、たいそう喜ばれた。「避難所で色紙を本尊に見立てて読経したら涙を流して感謝された」「大勢の檀家が亡くなり、本堂も流され、絶望の底にいたときにこの色紙が届けられ、力が湧いてきた」という声も寄せられたそうです。現地の和尚さん方の何よりの励みになったんですね。

 このお話を聞きながら、2011年4月17日に歩いた福島県いわき市の久ノ浜海岸を思い出しました。空襲にでも遭ったかのように、瓦礫一面だった海岸沿いの町・・・そこで出会った男性に「家はすべて流され、これだけがめっかった(見つかった)」と見せてもらったのが、この小さな額絵でした。

 

 横田氏が経験されたこととは比べ物にもなりませんが、見ず知らずの自分に写真まで撮らせてくれたからには、この、ささいな言葉が家族の思い出として手元に残ったことを、この男性は本当に心の糧にされているんだと胸に迫ってくるものがありました。

 

 当日配られた延命十句観音経のプリントに意訳が書かれていました。とても丁寧な意訳でしたが、42文字のシンプルなお経ですから、私なりにシンプルに要訳してみました。

 観音さま、

 苦しいときに寄り添い、救おうとしてくださる仏さまの心。それは私たちが本来持って生まれたものなんですね。いろいろなご縁によって、そのことに気づかされます。

 人のために尽くす。それこそが楽しみであり、己を清める生き方です。毎朝、毎晩、仏さまの心に従い、離れないと念じます。

 

 観音さま(観世音菩薩)は数ある仏や菩薩の中でも、人の声を観る=心で聴くという力を持っていて、何かにすがりたいとき、聞いてもらいたいことがあるときに呼びかけるキーコードのような存在だと解釈しています。でもキリスト教のお祈りで天に向かって「主よ」と呼びかけることとは少し違う。救いとなる仏心は、実は自分の中にあって、自分の心を呼び覚ます、という意味もあるのです。

 世は無常=常にあらず。すべてのものがうつろいゆく世では、人は、ひとりでは生きられない。出合った人とつながり、慈しみ、支え合って生きるしかない。でも人は本来、この世で起き得るどんなことも受け容れる力を持っている。耐えられない試練は与えられない、とも言える。・・・そのことに気づかせてくれるお経だと、私は解釈しています。 

 

 フォーラム終了後、一緒に聴講した友人2人と行きつけの居酒屋で3時間熱く語りました。友人の一人は家族全員を相次いで病気で亡くして孤独になり、自分自身もガン闘病中。横田氏の講演中、涙がとまらなくなったそうで、「ずっと下を向いていたんだけど、最前列だったから横田先生に居眠りしていると思われたかも」と苦笑いしていました。

 お経を唱えるだけで病気が治る、命が助かるという白隠流のプレゼンテーション、本当にそうかもしれないと信じて懸命に唱えていくうちに、心が浄化されていく作用が確かにあったのでしょう。250年経ってもその作用は十分効くようです。

 

 こちらの著書に横田氏の思いが丁寧につづられていますのでぜひご参考に。円覚寺のHPはこちら