杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳」発行しました

2015-10-23 06:34:25 | 地酒

 2015年10月23日、静岡新聞社より【杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳】を発行しました。静岡新聞出版部の担当の方々が21日から県内書店に営業挨拶に回ってくださって、私も22日から取材関係者先に挨拶回りを始め、「もう書店に並んでたよ」「目立つところに平積みしてあったよ!」と言われてびっくりアタフタ。嬉しいフライングでした。

 

 

 前作【地酒をもう一杯】から17年。亡くなった蔵元さんや杜氏さん、やむをえず店をたたまれた酒販店さんや飲食店さんもいらっしゃって、17年という歳月の重みを実感する取材でした。17年前のご自分の掲載写真を見て照れ笑いし、ご家族や従業員さんから冷かされるお元気な蔵元さんや店主さんから「お互い齢をとったけど、頑張ろうね」と言われたときは、酒の取材をライフワークにできたことを心底嬉しく思いました。

  

 地方の出版・書販環境の厳しさは、地方の酒を取り巻く環境にどこか似ているところがあります。本を作る、売る、買う人の情熱もまた、酒を造る、売る、飲む人のそれに通じるところがあると感じます。本も酒も、生きていく上で必要不可欠な生活必需品、というわけではないかもしれませんが、本も酒もない人生なんて想像出来るでしょうか・・・文明を持ち始めてからの人類の歴史で、書物と酒のない時代なんてあったでしょうか。都会だろうが地方だろうが、その土地の文化を伝える大きな柱に違いありません。地方には地方の、本と酒が生き残る手法があるはずだ・・・そんなことを、挨拶回りをしながらつらつら考えました。

 

 なんだが上から目線の物言いですみません。今回は【地酒をもう一杯】の改訂版というよりも、私の個人的な酒歴をベースにした読み語り風に仕上げてあります。このブログで書き溜めたネタもたくさん出てきます。表紙は静岡新聞出版部の20代の編集者兼イラストレーターに「同世代の読者がクールだと思うデザインにして」とお願いしたところ、こんな感じの、おんな酒場放浪記ふう(笑)になったのですが、若い人ってこういうのがクールなんだ・・・!と目からウロコでした(笑)。

 

 本書の文末に用意した謝辞を紹介させていただきます。ページが足りなくなって、掲載した謝辞はうんと短くなってしまったのですが、ここでは全文を掲載いたします。

 今後、【杯が満ちるまで】に載せられなかった写真等も、この【杯が乾くまで】で随時紹介してまいりますので、【満杯】【乾杯】ともによろしくお願いいたします!

 

 

 ある料理人から「店に飲みに来た客に、この酒を造っている人はね…って話して聴かせ、会話が弾む、そんな物語を書いてほしい」と注文されたことがありました。解説本にありがちな「どういう味か」「どうやって造ったのか」より、「どういう人が造っているのか」。よく知られていない銘柄、知られすぎている銘柄にも、産みの苦しみがあり喜びがあります。「酒の味とは、造る人自身」―これが、四半世紀以上の取材活動を通して得た私自身の確信でもあります。

 この本ではこれまでご縁をいただいた造り手の尊い酒造人生を伝える重みを受け止め、自信を持って書けるまで新たに取材や調査を加え、それがかなわなかった造り手は割愛させていただきました。県内全蔵元・全杜氏を等しく紹介できなかったことを、まずはお詫び申し上げます。

 

 静岡新聞社発行のタウン情報誌『静岡ぐるぐるマップ』のライターをしていた昭和62年(1987)頃、取材先の店で偶然、酒造りに情熱を傾ける人々に出会い、静岡吟醸の味に感動。一人の静岡人として、「地酒なんだから地元の人と一緒に呑んで感動を分かち合いたい」という単純な欲求に駆られ、酒販団体の会報誌や地域情報誌で少しずつ酒の記事を書くチャンスを得て人脈を広げました。

 20年前の平成7年(1995)、静岡市南部図書館で静岡の酒をテーマにした市民講座を企画し、一般の方々に地酒について直接語りかける場を得ました。講座はキャンセル待ちが出るほどの盛況で、「有料でもいいから続けて」という声をいただきました。

 これをきっかけに、平成8年(1996)、しずおか地酒研究会という愛好会を作りました。発足直後は120人ほど集まり、静岡県沼津工業技術センターや県内の山田錦圃場を見学し、南部杜氏のふる里ツアーを敢行。蔵元vs酒販店のパネルトーク、女性だけの地酒ディスカッション、山田錦の玄米を食べる会、静岡在住の外国人を招いて地元農家の母さん手作り酒肴と蔵元のコラボ、酔い止め用のお茶の飲み方講座、陶芸家を囲んでMY酒器自慢のサロン、駿河湾地引網体験、2004年浜名湖花博での庭文化創造館地酒テイスティングなど等、地域資源や人材を活かしたプログラムで地酒未体験者を巻き込んで、地酒の持つ潜在的な魅力の掘り出しに努めました。個人の思いつきでこんなことが続けられたのも、新しいファンが確実に増えているからでしょう。

 

 しずおか地酒研究会の発足間もない頃、『開運』の土井清幌社長(現会長)が、会の“効能”を「地元のいい酒を楽しい雰囲気で呑んでいると、隣に座った初対面の人が長年の親友のような気分になる。お茶や饅頭じゃこうはいかない」と評価してくださいました。

 地酒は人と人をつなげ、地域コミュニケーションを円滑にし、実り多きものにしてくれます。今では売り手や飲み手の方々が独自に酒の会やイベントを開くようになり、業界の外から投じた“貧者の一灯”は、少しずつですが光量を増しているように感じます。

 これまで思い込みだけで突っ走ってきた自分を辛抱強く導いてくださった造り手・売り手・飲み手の皆さまには、心から感謝申し上げます。皆さまは私に「本」という杯に注ぎ込む地酒の物語をたっぷり聞かせてくださいました。本当にありがとうございました。

 

 その杯を用意してくださったのが静岡新聞社出版部の石垣詩野さん。彼女のしなやかな感性と酒への好奇心が、今までにない地酒本を生んでくれました。

 共に注ぎ手になってくれたのがフォトグラファー山口嘉宏さんと佐野真弓さんです。佐野さんは静岡ぐるぐるマップ時代からの“戦友”。山口さんは世界中を飛び回り地球の裏側の街の路地裏・酒場・子どもたちの写真を撮り続ける映像作家でもあります。2人のレンズからは、造り手・売り手の今まで見たことのない生き生きとした表情が引き出され、書き手として大いに刺激をいただきました。3人の“チーム地酒満杯”にも深謝いたします。

 静岡の酒が読み手・飲み手の皆さまにとって得難い人生パートナーになることを祈って、酒縁に乾杯!

 

 

 なお、県内主要書店にてお取り扱いいただいていますが、静岡県外のかたにはネット通販(静岡新聞社アットエス、amazon)をご利用いただくことになります。サイトでの掲載まで少々時間がかかりますので、もうしばらくお待ちください。「早く読みたい!」とおっしゃる奇特な方がいらしたら、鈴木までご一報ください♪


大村屋酒造場七夕酒蔵コンサート2015 ご案内

2015-06-27 07:10:58 | 地酒

 もうすぐ七夕。ということで、当ブログにも『若竹』『おんな泣かせ』の醸造元・大村屋酒造場(島田市)の恒例・七夕酒蔵コンサートの検索訪問が増えてきましたので、今年のご案内を。

 今回は杜氏の日比野哲さんイチオシの、音楽パフォーマーのだゆきさんと、世界で活躍中のオカリナ奏者河崎敦子さんのライブです。いつも出張中で不在が多い日比野杜氏も、今回は万障繰り合わせて会場で迎えてくれるそうですので、ぜひお楽しみに!

 

 

大村屋酒造場 第19回 七夕酒蔵コンサート

◇日時 2015年7月7日(火) 開場18時30分、開演19時

◇場所 大村屋酒造場 島田市本通一丁目1-8  TEL 0547-37-3058 *JR島田駅より徒歩5分

◇出演 のだゆき(音楽パフォーマンス・ピアノ)、河崎敦子(オカリナ)

◇コンサート終了後、ひんやりひやした樽酒等を試飲できます。

◇入場無料

 

 無料コンサート&試飲会につき、早々に満席になります。入りきれない人はこんな感じで立ち見(立ち聴き)になります。蔵の中は結構ムシムシしてますので、うちわor扇子は必携です。試飲会では北海道直送の美味しいトウモロコシ、ゆでじゃが、枝豆が振舞われます!

 

 

 


東北弾丸バス旅②~南部杜氏自醸鑑評会

2015-06-03 09:31:30 | 地酒

 東北バス旅報告の続きです。5月21日は昼過ぎに仙台へ戻って駅ビルで牛タンカレーを食べ、東北本線(ローカル線)を乗り継いで岩手県花巻へ。仙台駅ではsuicaで入ったのに、新花巻駅ではsuicaが使えず。駅員さんから「どこから乗りました?」と訊かれ、「仙台から」と応えたら、「えっ??」とビックリ二度見されちゃいました。静岡人からすれば、仙台も花巻も同じ東北で、さほど離れてるって感覚はなかったのですが、実際は静岡―名古屋間ぐらい離れてるんですよね(苦笑)。

 

 夕方、新花巻駅近くの【ケンジの宿】という格安ペンションにチェックイン。1泊朝食付きで3200円という価格ゆえ、あんまし期待はしてなかったのですが、風呂・トイレ・洗面所は共有ながら、お部屋は広くて清潔で、翌朝の朝食がビックリするぐらい美味しかった!かなりのヒロイモノでした。

 21日夜は、富士錦と萩錦で杜氏を務める小田島健次さんと落ち合い、花巻駅近くの居酒屋【早池峰】で取材。以前、小田島さんの下で働いていた長野県在住の若手蔵人さんがちょうど小田島家に泊まりに来ていたので、3人で岩手の地酒と酒肴を堪能しました。このお店、掘り炬燵があって地方色満点!小田島さんが事前にオーダーしてくれたみたいで、メニューにある料理を端から全部、次から次へと出していただいて、取材そっちのけで夢中で飲み食いしちゃいました。

 

 

 翌朝、小田島さんに宿まで迎えに来ていただいて、道の駅石鳥谷にある南部杜氏協会へ。南部杜氏による南部杜氏のための鑑評会・第96回南部杜氏自醸清酒鑑評会の一般公開に参加しました。日本で一番早い?朝7時30分から始まるきき酒会です。私は今回で3回目ですが、こんなに早い時間から参加するのは初めてです。

 

 全国で活躍する南部杜氏協会所属の杜氏さんが出品するこの鑑評会、今年で96回という歴史あるコンテストです。吟醸酒の部、純米吟醸酒の部、純米酒の部の3部門あって、今年の出品点数は吟醸135醸341品(うち入賞100醸)、純吟94醸201品(うち入賞53醸)、純米69醸147品(うち入賞45醸)。審査員は岩手県工業技術センターの小田島智弥理事長を審査長とし、全国の国税局鑑定官室長、東北~北関東の各県研究機関の部長・主任研究員など総勢27名の専門家です。入賞率が6~7割という比較的穏やかな?審査のようですが、一般公開の会場では「入賞漏れ」の酒が窓際に並べられ、それはそれでシビアだな・・・と。

 

 吟醸酒の部は1位から15位まで、純吟の部は5位まで、純米の部は3位までランキングが公表され、一般公開に続いて開かれた表彰式では、ランクインしたすべての杜氏・蔵元が表彰されます。壇上には岩手県知事が「総裁」という名目で来賓席中央に陣取り、花巻市長、北上市長、遠野市長、紫波町長、矢巾町長など南部杜氏支部管内の首長、JA組合長、地元新聞社社長、税務署長、職安所長等、公職のお歴々がズラリ。延々2時間、杜氏さんが入れ替わり立ち替わり壇上に登って賞状やトロフィーを授与され続けます。

 旧態依然、といえばそのとおりなんですが、南部杜氏という職能集団がこの地域にとっていかに大きな存在か、そのコンテストで表彰されるということはいかに重いことかが、よく伝わってきました。かつて首位賞には国から大蔵大臣賞が授与されていたそう。自ら蔵人を率い、雇い先ではよりよい条件で働きたいと願う杜氏さんにとって、箔を着ける意味でも大事なコンテストだったろうと思います。

 

 今年の首位賞(吟醸酒の部1位)は福島県の【会津吉の川】。なんと昨年に引き続いて2年連続の首位賞です。静岡県は上位入賞はなりませんでしたが、吟醸酒の部で「臥龍梅」「富士錦」「富士正」、純吟の部で「正雪」「富士錦」、純米の部で「臥龍梅」「出世城」「正雪」「富士錦」が入賞しました。臥龍梅の杜氏菅原富男さんは、ゴールデンウィークまで清水で酒造りが続き、故郷へ帰ってきてからは南部杜氏協会理事として鑑評会準備に追われ、この日も会場案内役で走り回っていました。

 

 昼過ぎに表彰式が終わり、静岡から駆けつけてこられた富士錦酒造の清信一社長や小田島さんとお昼をご一緒し、午後は一人で南部杜氏伝承館、石鳥谷歴史民俗資料館、農業伝承館をじっくり見学しました。ここも訪れるのは3回目ですが、一帯が【道の駅石鳥谷】として整備されてからは初めて。道の駅で酒の施設って大胆だなあと思いつつ、酒造りの文化がこの地域の日常にいかに溶け込んでいるかが伝わるようです。

 南部杜氏伝承館で、岩波映画【南部杜氏】を久しぶりに最初から最後までじっくり観賞しました。この映像に触発されて映画作りを試みて、いまだ道半ば・・・。でも昭和62年に制作されたこの映像がいまだにこうして活かされているんだと思うと、「何年かかっても記憶に残る映像を残そう」という熱意がフツフツと甦ってきます。

 

 

 石鳥谷農業伝承館では、【石鳥谷はたおり同好会】の皆さんが体験室で昔懐かしい機織をされていました。「頭や指先を使うからボケ防止にちょうどいいのよ~」とお母さんたち。ちゃんと動く機織機がそろっていて、実際に活用されているって羨ましいですね。

 

 

 鑑評会行事の後片付けがひと段落したところで、世話役で奔走していた磯自慢の杜氏・多田信男さんと落ち合い、多田さんのご実家がある北上へ。【吟醸王国しずおか】の撮影でお世話になって以来、7年ぶりに奥様や長男ご夫妻にご挨拶し、多田さん行きつけの銘酒処【枕流亭】へ。店主岡島芳明さんに「新政」やら「十四代」やら東北自慢の希少酒を(多田さんの解説付きで!)ふるまっていただいて、眠気や疲れも吹っ飛びました(笑)。

 途中から多田さんの同級生が合流され、焼津では見たことのない名杜氏のくつろいだ笑顔にホロッとさせられました。二次会では同級生さん行きつけのカラオケスナックにご案内くださって、北上在住の演歌歌手観音めぐみさんや作曲家原田孝二さん(こちらを参照)とご一緒し、大いに盛り上がりました。

 

 

 磯自慢は南部杜氏鑑評会では入賞しませんでしたが、晴れがましい壇上でお偉いさん方から表彰されなくても、多田さんの功績は地元の人々が熟知していて、我がことのように誇りに思う、まさにその現場に居合わせることができて、今回の東北弾丸旅の真の目的が達成できた感がありました。

 

 22時30分北上駅発の夜行バスに乗って東京へ。早朝の新幹線で静岡へ戻り、23日朝10時からFM-Hi のスタジオで【かみかわ陽子ラジオシェイク】の収録に飛び込みセーフ。昨日(6月2日)のオンエアを聴いたら、前夜のカラオケでムチャしすぎたせいかガラガラで低すぎて酷い声 お聴きになった方がいらしたら申し訳ありませんでした


富士の白酒

2015-02-26 11:42:18 | 地酒

 2月23日は静岡県が条例で制定した『富士山の日』(その理由についてはこちらもぜひ)。各地でさまざまな行事が執り行われた中、私は【白隠正宗】の醸造元・高嶋酒造(沼津市原)で早朝から取引先酒販店や飲食店のみなさん70余名が集って行なった【富士山の日朝搾り】のラベル貼り&出荷作業を取材しました。23日未明から搾って瓶詰めしたての静岡県産米「誉富士」精米歩合60%純米生原酒おりがらみ。アルコール度数は16.9度。日本酒度+2、酸度1.2。この数値が示すように低酸でおだやかな、実に静岡酒らしい優麗な味わいでした。

 

 

 西は名古屋、東は町田から集まった取引先のみなさんは、こういう作業に参加するということに大変なやりがいを感じていたようで、作業終了後に蔵元がふるまってくれた朝ごはんのかやくおにぎり&豚汁を美味しそうに頬張り、またこの日の夜、県内各地の飲食店で開催された「しずカパ(2月23日、誉富士の酒で18時30分に一斉に乾杯するイベント)」でもこの酒で大いに盛り上がったようです。私が平成8年(1996)にしずおか地酒研究会を発足したときに掲げた活動テーマ「造り手・売り手・飲み手の和」のカタチが、20年経てこんなに進化したのか・・・と、じんわり感動しちゃいました。もっとも私はこの日、富士~沼津地区で3軒取材をして疲労が重なり、熱を出して自宅でおとなしく寝てました(苦笑)。

 

 現在、各蔵の上槽(搾り)作業を取材していますが、搾りのタイミングというのはもろみの醗酵状況によって実に慎重に計ります。何日の何時に搾るか直前にならないとわからないため、こちらも事前に予定が立てられず、運よくタイミングがあった蔵元にしか行けません。それだけに、2月23日朝に搾ると事前告知し、このタイミングに合わせて醗酵をきちんとコントロールした蔵元杜氏・高嶋一孝さんの手腕には惜しみない拍手を送りたいと思います。ちなみに3月22日は“逆さ富士の日”と銘打って、富士山の日朝搾りを加水火入れして限定発売するそうです。入手可能な取引先酒販店は高嶋酒造(こちら)へお問合せください。

 

 

 

 ところで、私が注目したのは、富士山の日朝搾りのラベルです。初代歌川広重と三代歌川豊国が共同制作した『双筆五十三次・はら』という浮世絵。高嶋さんは所蔵先の国立国会図書館まで出向いて許可を取ったそうです。

 

 ここに描かれた「富士の白酒」。おりがらみの誉富士純米生原酒のラベルに実にぴったりですが、「富士の白酒」自体は今現在、高嶋さんが造っておられる純米酒とは違うスペックのようです。 

 

 実は、昨年来、酒造史料の調査で県立図書館に日参しているうちに、偶然、平成8年(1996)7月に富士市立博物館で開催された企画展『郷土と酒』の図録を見つけて、ちょうどひと月ぐらい前、博物館へ直接出向いて図録を入手したばかりだったのです。私は当時、発足間もない地酒研活動に忙殺され、企画展を見逃してしまったため、図書館で図録を見つけたときは「あ~っも~っ」と声を上げるほど自分にガッカリ(苦笑)。その図録に「富士の白酒」のことが詳しく紹介されていました。

 

 

 それによると、「富士の白酒」が文献や浮世絵に登場し始めたのは江戸後期。北斎の東海道五十三次・吉原(1803~10頃)では「白酒のもろみを石臼で磨く図」、駿河国新風土記(1840~43頃)には「富士酵、糯を焼酎に和して醸す、味美なり」、本市場村明細書上帳(1843)には「立場茶屋、名物白酒商売仕候」等などと紹介されています。本市場(現在の富士市本市場付近)は、江戸時代、吉原宿と蒲原宿の間にある東海道の間宿で、富士川流域の加島平野に位置していた。この地域は“加島五千石”とうたわれた穀倉地帯で、西北にあたる岩本村は1233石を誇り、幕藩体制下の村としては最大規模に近かったそうです。こういう土地で酒造りが活発になり、名物とうたわれるようになるのもナットクですね。

 

 駿河国新風土記に「富士酵、糯を焼酎に和して醸す、味美なり」としか記述がないため、白酒がどのように醸造されていたのかは不明のようですが、白酒の一般的な醸造法を紹介した江戸時代の百科辞典・和漢三才図会によると、

 「白酒は精米したもち米7升を1斗の酒の中に漬け、かたく封をする。これを春夏なら3日、秋冬なら5日たって口を開け、箸でその飯粒をとかす。なめてみて甘味が生じたのを見計らって、このもろみを(石臼)で磨く。白色は乳のようで甘い」

 とあります。富士の白酒の場合、酒ではなく焼酎に漬けていたようです。いずれにせよ、造り酒屋が大々的に造って売り出したというよりも、本市場の農家が間宿で茶店を兼業し、店頭で旅人にふるまったささやかなおもてなし、だったようで、浮世絵でさかんに描かれたということは、さぞかし“味美”で評判だったのでしょう。

 

 東街道覧図略には本市場の茶店にこんな狂歌が残っていたと紹介されています。

 

 「風になひく雲にはあらての旅人のひつかけてゆく富士の白酒」

 「白さけの看板に立つや雪の不二」

 「何みても雪かと斗見せつきの女子の顔も富士の白さけ」

 「年よりて又のむべき思ひきや銭のあるたけふじの白酒」

 

 静岡県産米の誉富士と、静岡県で開発された静岡酵母で、実に静岡らしい純米酒を醸し、それを富士山の日の朝に搾り切り、取引先を集めてもてなした高嶋さんの心意気に感動するとともに、白隠禅師や富士の白酒というかけがえのない郷土の歴史を酒のラベルに載せて発信する姿勢に、酒の蔵元がなぜ地域に必要かを改めて考えさせられます。

 東海道筋に多い静岡県の蔵元は、他県の蔵元が欲しくても得られない「歴史」という財産を持っています。今の若い売り手や飲み手には、すぐにはピンと来ないかもしれませんが、歴史、とりわけ街道という人やモノや情報が行き交う場所で育まれた歴史と、歴史が伝える「物語」は、国内のみならず、世界に誇れるオンリーワンのもの。物語のチカラを、これからの造り手・売り手・飲み手も上手に活かしていくべきでは、と思います。しずおか地酒研究会で歴史部会でも作ろうかな。


酒造の三位一体

2015-02-22 17:15:18 | 地酒

 先日、藤枝市の杉井酒造で、室町時代に奈良菩提山正暦寺で確立した『菩提もと』の再現を取材しました。詳しくは別の機会に紹介するとして、正暦寺は日本清酒発祥の地として知られています。仏教の戒律で飲酒が禁じられているにもかかわらず、なぜお寺で日本酒が造られ、その技術が脈々と継がれてきたのかは、歴史&仏教好きの地酒ライターにとって“永遠の取材テーマ”かもしれません。以前、こちらのブログでちょこっと書いたことがありますが、今回、実際に菩提もと造りを目の当たりにして、さらに突っ込んで調べてみたくなり、別の蔵元の事務所本棚で興味深い論文を発見しました。日本醸造協会誌第109巻第9号に掲載されていた伊藤善資氏の【酒造の三位一体について~酒と神仏(信仰)と金融、三者の深い関係】です。

 

 この論文は酒造と宗教と金融が“三位一体”で古代~中世の日本社会の基盤となっていたというもの。酒造が神事と深くつながっていて、仏教が伝来して神仏混合となってから仏教とも密接になっていったことは理解していましたが、酒が神社や寺院の金融活動の原資となり、社寺の権威を有力農民や新興豪族が利用し、経済を動かしてきたという視点は新鮮でした。新鮮というか現実的というか、人間やっぱり今も昔も変わらないんだなあって。

 

 大陸から稲作が入ってきて農耕社会が構築された弥生時代、もっとも大切にされたのはその年に最初に実る初穂で、初穂には大いなる霊力があると信じられていました。初穂と、初穂で醸された酒を神々に供え、そのお下がりを収穫祭でいただく。穀霊が宿った酒に対する人々の畏敬の念は計り知れなかったと思います。農民は翌年、お供えの初穂を種籾として借り受けて、収穫後、借りた稲に神への謝礼を上乗せしてお返しした。借りた稲が「元本」で、上乗せ分が「利稲(りとう)」。これが日本列島で利息(金融)の起源となったそうです。この習慣をシステム化したのが、律令国家における「出挙(すいこ)」。地方のお役所が農民に稲を貸し、収穫後、元本と利稲を返却するというもので、のちに利稲だけが税金として徴収されました。

 

 6世紀に入ってきた仏教は、このシステムに大きな影響を与えました。昨年、あべのハルカスで聴講した講演会【神も仏も日本のこころ】(こちらにまとめました)で触れたとおり、日本は、土着(神道)と新興(仏教)の宗教が共存共栄した世界でも稀な国。なぜ宗教戦争が起きずに済んだのか、先の講演では思想的な背景を学びました。

 伊藤氏が参考文献にあげた義江彰夫氏著『神仏混合』によると、律令時代、「皇祖神」の威光を持つ朝廷神祇官が国家の祈年祭で霊力で満たした初穂を地方の神社に分け与え、それへの感謝の名目で租税を取り立てることができたが、8世紀後半になり、地方の有力神社やそれを支える地方豪族が初穂を受け取りに行かなくなった。地方には地方の問題が山積する中、国家規模の霊力をありがたがる余裕などないというわけです。そんなときに「悩める神も仏教に帰依すれば救われる」という思想が入ってきて、各地に神宮寺が建立されるようになった。税の徴収を、神への服従と初穂献上にすり替えることが難しくなったと判断した朝廷は、しぶしぶ神宮寺を認め、9世紀に入り、仏教が王権レベルまで浸透していったということです。神仏混合の裏に徴税システムありってすごーく現実的な話ですね!

 

 8世紀末に書かれた「日本霊異記」に、紀伊国の薬王寺で薬草園の基金を増やすために村主の姑に資金(稲)を与えて酒を造らせ、金利を得ていた。村主の姑は酒を人に貸し与えて利息を回収していたという。また讃岐国の郡長の妻が酒に水を加えて増量し、貸すときは小さな枡で、返却させるときは大きな枡で計って大儲けした。稲を貸すときもあくどい手を使った強欲な女だったというエピソードが紹介されているそうです。この時代に女性の酒造家がいたこと、酒が利付き貸付されていたなんてちょっとビックリ!! 寺が稲を農民に貸し出して、その米で酒を造らせ、酒を売って利益にしていた。その後、お寺で酒造りの画期的な技術が開発されたことも、なんとなくつながりますね。

 

 そこで冒頭の疑問。不飲酒戒の仏教寺院で酒造や酒販がOKだったのはなぜか。加藤百一氏著『日本の酒5000年』では「寺院酒造の起源は、寺院の境内にあった鎮守へ進献する神酒造りだった」とし、松尾剛次氏著『破戒と男色の仏教史』では「中世において延暦寺は京都の酒屋を管轄下に置き、税金をとっていた。他人に酒を売らせ、上前をはねていた。おそらく酒屋に対して、延暦寺に金などを寄付することで酤酒(こしゅ=酒の販売)戒を犯したことを償える。寄付は作善の一つだから、それによって酒の製造販売を容認してもらっていたのではないか」とあります。寺への寄付であり善き行いだとみなされ、許されたんですね。

  ちなみに松尾氏の『破戒と男色の仏教史』によると、戒律を守れという厳しいお達しが再三出されたのは、戒律を守らない僧侶がたくさんいたから。当時、男色は官僧では一般的で、東大寺の別当まで務めた宗性という僧侶は95人経験し、100人越えたらさすがにマズイと日記に書いているくらいです。今のモラルや常識では想像できないと思う反面、僧侶の妻帯を是とする今の常識を疑わなくてよいのか・・・とも思う。一方で、今の時代、アルコールレスやセックスレスの若者が増えていると聞きます。ストレスフルの現代社会において、酒造家や宗教家が果たすべき役割は、ご当人方が思う以上に重要ではないかと想像しますが、どうでしょうか?

 

 それはさておき、延暦寺の門前では11世紀頃から「日吉神人」が暗躍していました。神人(じにん)とは俗身分のまま寺社に奉仕し、祭儀やその他雑事を務める一方で、寺社の権威を借りて商売や金融活動をしていた人々。日吉神人には大変な財力があり、その中から土倉(どそう)という専門の金融業者が現れ、延暦寺の鎮守である日吉大社に奉納される米や銭で酒造業を営み、やがて京都の商業・金融業を牛耳っていったそうです。土倉勢力は室町時代にピークを迎え、酒造業も爆発的な発展をみせたということです。

 『菩提もと』を確立した正暦寺をはじめとする僧坊酒も、室町後期~戦国時代に大いに品質向上しますが、この話に行き着くまで、伊藤氏の論文と参考文献を読み解く時間がもう少し必要です。今日はこのへんで。