杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

継醸と継筆

2015-02-14 20:57:13 | 地酒

 今日、訪ねた某蔵で、麹室の前に出麹が並んでいました。風の通りをつくるために、このような筋を刻みます。禅寺の枯山水の庭の白砂に似ているでしょう。白砂にこのような文様を付けるのは、禅が説く「空」の表現だといわれます。酒蔵の麹を通り抜ける風は、酒の神様の吐息なんだろうかと妄想してしまいました。

 

 2月も早や半月。毎朝、3時4時に起きて簡単にデスクワークを済ませ、県内の酒蔵へ取材に行き、寄り道せずにまっすぐ帰って夜22時前には就寝するという禅寺のような?規則正しい生活をしているせいか、おかげさまで風邪一つ引かず、健康的に過ごしています。・・・というか、生活費を切り詰めて酒蔵取材に投資しているので寄り道する余裕どころか、日に一食はカップ麺か缶詰惣菜でしのぐ有様。少しは痩せるかなと思ったけどジャンクフード率が高くなるとダメですね(苦笑)。

 紛争地域で命を落とした後藤健二さんとはレベルが違いすぎる話ですが、食費を切り詰めるしかない暮らしでも気持ちが萎えないのは、目的をもって取材活動できる幸せを噛み締めているから。どんな状況でも取材したい対象があって伝えるべきメッセージがあるなら自分の身は二の次、という思いに駆られるのがフリーランスの取材記者の性(サガ)だろうと思います。

 哀しいかな、私のような請負仕事が多いローカルライターでは、自分が書いたものが読者にちゃんと届いているのか、反応らしいものを得る機会がほとんどありません。書いたら書きっぱなし。発注元から次に声がかかれば、「ああ及第点をもらえたんだな」と安堵する。その声かけが年々減る中で、フリーライターの矜持とは何かに向き合わざるを得なくなり、ライフワークである酒の取材を丁寧にやり直そうと一念発起しました。

 いざ、取材に動いて、自分は少なくとも静岡県内では酒のライターとしてそこそこ知られているんじゃないかと自負していたのが、実際のところ、代替わりした蔵元や杜氏、新規に回る酒販店や飲食店では、一から名刺を差し出して自己紹介するところから始めなければならない。過去に自分が書いたものなんて、まともに届いていないんだという現実に直面します。そんな、自分の慢心に気づかされただけでも、今期の取材は意義がある・・・と実感しています。

 

 先日、就寝前に読んだ山田無文老師の説話集『和顔』に、天龍寺の開山・夢想国師のエピソードが紹介されていました。国師がお若い頃、伊勢神宮を参拝し、神主から「神様は清浄がお好きで、穢れが一番お嫌い。ご神前で金を撒いたり願い事や頼み事をなさらないように」と言われたそうです。神様への願掛け=合格祈願、良縁祈願、病気平癒、家内安全、子孫長久など等は、欲という心の穢れ。人間に必要なものは何もかも承知なさっているのが神様であって、こちらから催促してはいけない。五十鈴川で手を清め、口を清め、参道を静かに歩き、心を清め、ご神前に立ったら柏手を打って「今日も無事暮らさせていただきまして、ありがとうございます」とお礼を申し上げる・・・それが真実の神詣であると。国師はそのように聞かされ、「日本の神様の教えも仏法の教えも同じだ」と悟られたそうです。

 私の慢心を諌めたのは酒蔵におわす神様か、禅僧のような形相で酒造りに勤しむ杜氏や蔵人のみなさんに相違ない・・・。全人格を賭して伝えるに値する取材対象と出合えたことに感謝せねば、と思うのですが、煩悩多き身ゆえ、一筋縄ではいきません(苦笑)。

 

 

 以下は、2月前半に訪ねた酒蔵写真をいくつか紹介します。

 

 磯自慢(焼津市)の多田信男杜氏。多田さんの麹造りはまさに〈神業〉。つねに背筋がピーンと張り詰める、神聖な気持ちにさせてくれます。右の写真は、蒸し米を甑から掘り起こす蔵人の八木さん(イケメン!独身!)と受け止める寺岡社長。社長も現場の大事な戦力です。

 

 2月4日立春の日は、若竹(島田市)で朝6時から取引先酒販店120店余が集まって、「立春朝搾り」のラベル貼り&梱包を行い、大井神社に参拝しました。初めて参加した友人が「ほんとうに日本酒らしい行事!」と感心していました。

 

 杉錦(藤枝市)の生もと造り。味見させてもらったところ、酸味のない、ほのかに甘いヨーグルトのような味。徐々に酸味が湧いてくる=自然に乳酸が生成されるのをじっくり待つわけです。

 

 臥龍梅(静岡市清水区)の鈴木社長が洗米作業を見つめています。杜氏と蔵人計7人。現在、世界13カ国へ輸出されている絶好調の蔵。それだけに社長が背負うものも大きいだろうと思います。一方、右の写真は、たった一人で全工程行なう葵天下(掛川市大須賀町)の蔵元杜氏山中久典さん。最も米の量が多い掛米(留)は蒸し上がりから仕込みまで3時間かかるそうです。一人でやるんだから仕方ないですね。臥龍梅に比べたら造りは小さいものの、背負う大きさは変わらないだろうと思いました。造り手がどうあれ、酒屋や飲食店で並んだら、うまいかどうかの判断だけ・・・ですものね。

 

 このキュートで爽やかな女性は富士正(富士宮市)の蔵元長女・佐野由佳さん。最近マスコミでも紹介されていますね。朝霧フードパークにある富士正の酒蔵では、化学分析室や瓶詰めライン工場で女性が大活躍。「時代が一歩進んだ・・・!」と実感しました。由佳さんはこれからの静岡酒のシンボリックな存在になるはず。精一杯応援したいと思います!

 「継醸」は、牧野酒造(富士宮市)の神棚。ハッとさせられた言葉でした。続けることは生み出すことと同じくらい難しいことですね。私の場合は「継筆」かな。いつまでライター稼業で食べていけるんだろうか・・・わびしい食卓を前についつい膨れ上がる不安や不満をグッと飲み込み、なんとか折り合いをつけながら、日々精進してまいります。


サトウキビからアル添酒へ~dancyu3月号日本酒特集追補

2015-02-06 13:46:00 | 地酒

 もうすぐバレンタインデー。ということで、この時期の酒蔵取材での手土産も、必然的にチョコレートとなります。先日、某蔵へ、チョコではなく(以前取材した)高糖度トマトを差し入れに持っていったら、社長から「最近チョコをもらえなくなったんだよなあ」とポロッと言われちまいまして、帰りに百貨店のバレンタイン特設コーナーをのぞいたら、高級輸入チョコがズラリ。全取材先に配ったら破産しそうなプライスでした(苦笑)。

 疲れがたまるとき、すぐにエネルギーになる甘いものは重宝しますよね。最近、醸造アルコールの原料でもあるサトウキビの歴史を調べてみて、日本酒に対する見識をまた一つ深めることが出来ました。

 

 砂糖の原料となるサトウキビ。発祥の地は南太平洋ニューギニアともインドとも言われているそうで、インドの仏典に砂糖やサトウキビに関する記述があることや、砂糖の英語名「Sugar」の語源がサンスクリット語で「Sarkara(サッカラ=さとうきび)」に由来することから、インド発祥説が有力のようです。

 ハチミツに頼らずに甘味が得られる魔法の葦=さとうきびは、インドから東は中国へ、西はアラビア→ヨーロッパへと伝播しました。日本には鑑真和尚がもたらしたとされていますが、遣唐使がちょこちょこ持ち帰っていたらしく、当時は、お茶と同様、高価な薬として貴族や僧侶など上流・知識階級の間で重宝されていたようです。

 中国では13世紀、元の初代皇帝フビライ・カーンが中国福州にアラビアから技術者を招いて草木の灰による精製法を確立し、白い砂糖が製造されました。これを見たマルコ・ポーロが東方見聞録で「白い砂糖がある!」と驚きの記述をしています。

 15世紀末、コロンブスが西アフリカ・カナリア島産のサトウキビを、西インド諸島の一つヒスパニオラ島に移植し、アメリカ大陸にも伝播していきます。室町期の日本では禅僧を中心とした茶文化とともに、和菓子に使われる砂糖が一般に広まっていきます。また1549年に来日したフランシスコ・ザビエルが、ボーロ、カステラ、金平糖といった南蛮菓子を初めて紹介しました。このあたりは昭和女子大学国際文化研究所の荒尾美代研究員が興味深いレポートを発表していますので、こちらのサイトを参照してください。

 

 コロンブスによってアメリカ大陸にもたらされたサトウキビは、ブラジルやカリブ海を中心にサトウキビ・プランテーション(・・・世界史の授業で習ったなあ)を展開し、現地で生産された砂糖はアフリカから送られる多くの奴隷と交換されるなど国家間の重要な貿易物資となっていきます。サトウキビは糖分のピークを見計らっていっせいに刈り取りを行い、刈り取った後は発酵を防ぐために硬い茎を急いで粉砕し、搾り汁を取ります。これを鍋で煮詰めて冷やして結晶化させたのが砂糖。刈り取り・粉砕・搾り作業は大量の人手を擁し、一気にやらねばならぬ労働集約型産業ですから、黒人労働者たちが酷使された情景を想像すると心が痛みます。昨年アカデミー賞作品賞を受賞した【それでも夜は明ける】は、綿花のプランテーションが舞台になっていましたが、さとうきび農場でも同じような歴史が繰り返されていたんですね。

 プランテーションの過酷な暮らしの中から生まれたのが、サトウキビを原料としたラム酒やカシャーサ(カシャッサ、ピンガとも言う)といった蒸留酒でした。廃糖蜜(サトウキビの搾り汁を煮詰め結晶化させた砂糖をとった残りの液。糖分は約60%)を水で薄め、35~45℃で発酵させた後、それを蒸留して樽に数年間貯蔵したもの。農場主は労働者たちの気晴らしや疲労回復につながるなら、と彼らの飲酒を黙認し、そのうちに自分たちも飲むようになり、オランダから高性能の蒸留機械が持ち込まれたりして酒質が向上したようです。詳しくは東京農業大学名誉教授の中西載慶先生がこちらで解説されていますので参照してください。

 

 サトウキビ・プランテーションとして厳しい歴史を刻んだブラジルでは、カシャーサが国酒として愛飲されています。1789年、ポルトガルに対して起こった独立運動は失敗しましたが、この時、独立を叫んだ若い将校たちが「独立の乾杯はポルトガルワインでなくカシャーサだ」というスローガンを打ち出したことから、独立のシンボルとして一般大衆に浸透し、愛飲されるようになったそうです。現在は大衆向けに一般流通されているカシャーサと、希少価値の高いアルチザン・カシャーサがあります。私はカシャーサをライムと砂糖で割ったカクテル「カイピリーニャ」は飲んだことがありますが、酒造職人こだわりのホンモノのアルチザン・カシャーサ、一度は飲んでみたいものです。

 

 

 そんなこんなで、前置きが長くなりましたが、日本酒に添加される醸造アルコールは、今やサトウキビから蒸留されたエタノールをバイオエネルギーにまで展開し、この分野の先進国となったブラジルから輸入されています。海外から輸入した、しかも米以外の原料で造られた醸造アルコールを日本の国酒に添加するということは、酒の業界の中でも長年、大きな論争になっていますが、本日2月6日発売のdancyu 3月号日本酒特集で、「喜久醉」の青島酒造蔵元杜氏・青島傳三郎さんを取材し、アルコール添加の解説記事を書かせていただきました。醸造アルコールの精製方法や添加方法についてはこの記事(P59)を参照してください。

 

 dancyuというメジャー誌、しかも日本酒の特集雑誌ではダントツの売上を誇るメディアで初出稿させていただくテーマがこれか・・・と、最初はビビリましたが、アル添解説を引き受けた青島さんの「うちがアル添酒を造っているのは事実だし、この機会にうちの考えをしっかり伝えることも大事だと思ったから」という大人な対応に感化され、自分なりの調査や取材経験を加味してみました。レイアウトの都合上、ここに書いたブラジルのさとうきび蒸留史をはじめ、青島さんの個人体験等の記述はカットすることになりましたが、“異物を添加した不純な酒”とみなされがちなアル添酒の背景に、植民地の歴史や砂糖の伝播史があること、現代のアルチザン(職人)が先人の築いた技をどう生かしているのかを知る有意義な取材でした。

 日本酒も大陸から伝わった稲を原料にし、貧しい民が大地を懸命に開墾して稲を育て、豊作の年もあれば凶作に苦しむ年もあり、その中から試行錯誤を繰り返して澄んだ醸造酒を造り上げ、江戸時代には焼酎(蒸留酒)を添加して品質を保持する技術を、明治~大正~昭和と近代化のもとで原料米の不足を補う添加技術を生み出し、戦後、豊かな時代になってようやく米100%の純米酒がフツウに飲まれるようになった。・・・われら日本人の民族の酒が刻んできた変えようのない歴史です。今回の執筆にあたっては、アル添酒を○か×かで論じるのではなく、出来る限り広い歴史観を持って国酒の歩んできた道を認識し、純米酒が支持される時代に造るアル添酒の価値や意義を考えてみました。アメリカ大陸のプランテーションで蒸留酒を育んだ人々への敬意を“添加”して―。

 

 私自身は、アル添の有無にかかわらず、どんなお酒も、そのお酒との出会いに感謝し、アル添ならば美味しいアル添が飲める今の時代を幸せだと思って美味しくいただいています。記事の文末でつづった思いそのものです。dancyu3月号についてはプレジデント社公式サイト(こちら)をぜひ。


〈自未得度先度他〉の酒蔵取材

2015-01-19 13:10:00 | 地酒

 2015年も、早や半月が経ってしまいました。完全休養できた日は正月2日の一日のみで、慌しい年明けとなりました。フリーランスにとっては幸先のよいスタートですが、19日になるというのに新年の飲み会がゼロでお誘いもなし(- -;)。こんな新年初めてかも。ちゃんと元日に酒の神様にお参りしたのに何か粗相をしたのかなあ。

・・・というのは冗談で、今冬は連日、酒蔵取材で神聖な気持ちで過ごしています。年明けには思いがけず大好きな人が作る雑誌から、大好きな蔵元の取材を依頼され、とても難しいテーマでしたが精魂込めて書かせていただきました。また静岡で開催されたIT事業者の全国規模のレセプションでは地酒ブースをお手伝いし、久しぶりに【吟醸王国しずおか】パイロット版を上映。若い男性が想像以上に地酒に関心を示してくれました。

 私が書いた記事や撮った映像やイベントブースで紹介できる銘柄はごく僅かで、日本酒の魅力を知るきっかけがないばかりに呑まずにいる(だけの)若い世代に、伝えられることは本当に小さい。そのことをあらためて痛感しましたが、たとえ小さな力でも、キャッチしてくれる人の力を信じ、ていねいに伝え続けていかねば、と思います。それは小規模な仕込みでも手を抜かず、妥協せず、誠心誠意造りに臨む蔵元・杜氏・蔵人さんたちからいただく大切な教え。禅の本で見つけた「自未得度先度他」=自分は未熟でも真摯に努力し続ければ他者のためになることもある、という言葉が胸に迫ってきます。 

 以下は当ブログを訪問してくださった地酒愛飲者の方々へのお年玉フォト集です。絶賛仕込み中の静岡美酒にどうぞご期待ください!

 

 志太泉酒造(藤枝市宮原)です。瀬戸川のほとりに洗濯物の干し場があって、蔵人さんを追いかけていったら、干し場の足元に水仙が揺れていました。冬の水仙は私が一番好きな花です。志太泉の仕込み蔵には、新選組の池田屋事件の舞台みたいなものすごい急勾配の階段があります。2階にある麹室まで駆け足で蒸し米を運ぶ作業はまるで討ち入り(笑)。

 

  私が心惹かれるのは、作業の前後の掃除風景。清潔を保つというのは、必要だからというよりも、酒造りに向かう姿勢を自ら律する意味があるように思えます。「姿勢をつくる大切さ」というのは、武道でも芸道でも坐禅でも同じだな、と。志太泉では杜氏の西原さん自ら、麹室の床掃除をしています。

 搾り機ヤブタの掃除をしているのは森岡さん。地元藤枝の茶農家の奥様で、なんと、多田信男さん(現・磯自慢杜氏)が志太泉の杜氏だった昭和58年から勤めています。今では一番のベテラン蔵人で、若い西原杜氏も全面的に信頼しています。大阪出身の西原さんは、志太泉の杜氏になってから家族ともども藤枝に移り住み、正社員にはならず、冬は杜氏、夏は茶師という生き方を選択しました。この2人、志太杜氏がその昔、冬は酒造り、春~夏は茶師として地域産業の欠かせぬ担い手だった伝統をしっかり継承しているんですね。

 

 

 島田の大村屋酒造場へは、若竹PREMIUM純米大吟醸(誉富士40%精米)の洗米作業をどうしても見たくてうかがいました。売り出し中の静岡県産米「誉富士」を40%まで精米して大吟醸にしているのはここだけ(理由はこちらを参照してください)。高精白した米は浸漬での吸水状況をシビアにチェックします。杜氏の日比野さんの真剣な眼差しを見ればお解かりでしょう。

 理想の蒸し米にするための吸水を経て水を切った米は、南部(岩手)出身の蔵人加藤さんが麻布に丁寧にくるみます。加藤さんは、日比野さんの師匠である前任の南部杜氏・菅原さん、菅原さんの師匠である南部杜氏板垣馬太郎さんと、3代の杜氏に仕える熟練の蔵人。ここでも若い杜氏を、蔵を知り尽くしたベテラン職人がしっかり支えています。無駄口を叩かず、杜氏の手元をしっかり見据え、次なる作業にキビキビと移る蔵人さんは、酒蔵の宝だ・・・と実感しました。

 

 萩錦酒造(静岡市駿河区)と富士錦酒造(富士宮市)の2蔵で杜氏を務める南部杜氏小田島健次さん。萩錦で小田島さんの補佐をするのは萩原郁子さん。蔵元の奥様です。蔵元夫人が現場で主力となって働いている酒蔵、女性として心から応援したくなります!!。

 

 そして青島酒造(藤枝市上青島)の蔵元杜氏青島孝さん。喜久醉松下米の浸漬です。大村屋の日比野さんと同じ眼差しでした。二人とも眼鏡をかけているので、白衣を着たら化学者みたいですね。もっとも青島さんは、蔵入りとは出家したようなものだというのが口癖で、私の禅の修学にも付き合ってくれる“変人”です。彼のことだから、ひょっとしたらいつかホンモノの禅僧になるかも(笑)。

 

 小田島さんと青島さんは、引退した喜久醉の前杜氏で南部杜氏富山初雄さんの直弟子という共通項があります。富山さんは、複数の蔵を掛け持ちする小田島さんには、変化する環境に即応できるプロのスキルを、蔵元の経営者兼杜氏という立場の青島さんには〈守・破・離〉の精神を伝えました。私には、〈酒を伝えるとは、人を伝えることだ〉と教えてくださったように思います。

 

 

 

 そして1月15日、グランディエールブケトーカイの4階大宴会場シンフォニーで開催されたJANOG25 Meeting in Shizuoka 懇親会でのひとコマ。これだけのスクリーンで【吟醸王国しずおか】を流していただけたのは大変光栄でした。もっとも観ている人はほとんどいなかったけど(苦笑)、居酒屋「のっち」の福島夫妻が用意した静岡銘酒18升が2時間でカラになりました。酒の試飲会でもないのに、ブースの行列が途絶えず、「隣で呑んでた人に勧められて来た」「静岡の地酒がこんなにうまいなんて」「今夜に限って他のアルコールは要らない」とあちこちから嬉しい声。IT関係者の集まりで、20~40代がほとんどでしたから、この世代に訴求できたのは大ヒットでした。

 

 「自未得度先度他」の他者の役に立っているという手応えが、回りまわって自分の成長につながるんじゃないか・・・厳冬の酒蔵で汗を流す職人さんたち、また地酒ブースで眼を輝かせていた若者たちを目の前にして、ほんの少し、確信が持てたこの半月。この先も、追々、酒蔵写真をUPしますので、スズキマユミの成長ぶり?を汲み取っていただけたら幸いです。

 


信念の恋人

2014-12-28 17:14:56 | 地酒

 27日のNHK朝ドラ【マッサン】では、職人と経営者のガチンコ対決が描かれました。本場スコッチの長期熟成やスモーキーフレーバーにこだわって「わかる人だけに飲んでもらえればいい」と言い切ったマッサンと、「それでは売れない、大衆向けの味にしろ」と跳ね返し、マッサンに製造から営業への異動を命じた大将。信念と信念とがぶつかりあうモノづくり、しかも日本初の商品を生み出す苦労は、酒造業に限ったことではないと思いますが、「美味しい酒とはなんぞや? 酒の美味しさを伝えるとはどういうことか?」を考え続けてきた自分にとっては心揺さぶられる回でした。

 

 私が酒蔵取材を始めたのは、昭和から平成に代わったばかりの平成元年2月でした。以来26年。52年の人生の半分、酒蔵と縁をいただいてきましたが、白隠禅の勉強を始めて「知ったかぶりの罪」について考え、酒の取材者としての己の眼力には、かなりの垢や錆がこびり付いているのではないか…との反省から、今冬は県内酒蔵の仕込みを新鮮な気持ちで見つめ直しています。

 26年の取材歴で誇れるものがあるとしたら、静岡の酒質を飛躍的に向上させた職人=杜氏さんたちとのご縁。それこそマッサンみたいなこだわり職人さんばかりで、当然ながら最初のころはどこの素人の小娘か・・・という眼でみられ、距離感を縮めるのにずいぶん時間がかかりました。それでもこの冬は、杜氏さんのほうから「ここだけの話・・・」と耳打ちをしてくれるまでになった。取材者、いや、ひとりの人間として、縁ある人の職業人としての誇りある人生を、“知ったかぶり”で通り過ぎずに済むかも…という安堵感を覚えました。

 耳打ちしてくれたのは表立っては書けない苦労話ですから、表立って書く文章からは伝わらないだろうけど、「わかる人だけに伝わる」―そんな二重構造のような文章表現ができたら・・・なんて密かに願っています。

 

 

 思えばこのブログも、直接いただくのは「ダラダラ長すぎる」「難解」「勝手に実名を上げるな」と批判やクレームばかりで、中にはご丁寧に「こういうブログを参考にしなさい」と著名ブロガーさんを紹介してくれる人までいました。gooブログに引っ越してからは訪問者数がグッと減り、「個人ブログとはいえ公に発信する以上、読んでもらえなければただの独り善がりだな」と落ち込みましたが、しばらくして閲覧ページ数が逆に増えていることがわかり、「少数でもちゃんと読んでくれる人がいるんだ…」と凹まずにきています。

 

 26日、『正雪』の純米大吟醸の袋吊るし搾りを取材に行き、搾りたてを試飲させてもらったところ、初めて静岡吟醸に感動したころの香味が脳裏に甦り、「自分には懐かしく感じる味です」と杜氏の山影純悦さんに話したら、「実はこういう酒が、今、東京のお客さんから求められているんだよ」とのことでした。

 昨年、現代の名工に選出され、今年は黄綬褒章を受けた御年83歳の山影さん。名誉職で悠々自適に過ごしていると思ったら、現場で率先して動いておられ、「静岡吟醸らしさへのこだわりが再評価されている」と噛み締めるようにおっしゃる。静岡県の杜氏を代表する立場としてさまざまな試行錯誤を重ねてこられ、静岡らしさを醸し出すという信念をこの年齢で貫き通そうとする山影さんの言葉だけに、大変重いものを感じました。

 

 

 その足で『萩錦』にいる南部杜氏の小田島健次さんを訪ね、搾り終わった誉富士純米酒を3種試飲させてもらいました。2品は香りがふんわり、味ものっていて、誰にもその美味しさが伝わるであろう素晴らしい出来栄え。残り1品は香味ひかえめでおだやかな味わい。先の2品に比べたら地味でしたが、「私個人はこれが一番好き」と言ったら、「ははぁマユミさんらしいなあ」と杜氏さん。味ののった2品は静岡酵母NEW-5で、私が選んだ1品はHD-1で仕込んだものだそう。杜氏さん曰く「この酒は秋口になってグッとよくなると思うよ」。そういう酒を選んだことを、「マユミさんらしい」とおっしゃってくれた。私が単にHD-1の酒が好きだと知ってのことか、ひかえめな酒が好きなのが私らしいと思ってのことかは分かりませんが、杜氏さんとの距離感が限りなくゼロになったような気がして無性に嬉しくなりました。

 

 

 リアルマッサンこと竹鶴政孝さんは「ウイスキーの仕事は私にとって恋人のようなものである。 恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない」と言っていたそうです。 遠く岩手の花巻から仕込みにやってきて正月返上で酒造りに勤しむ83歳の山影さん。同じく正月休みなく、『富士錦』『萩錦』の2蔵をかけもちする宮城の石巻出身63歳の小田島さん。「静岡で酒造り人生を全うするだろう」と語るこの2人も、静岡の酒にトコトン恋しているのだと思いました。

 

 私も、書くという仕事に恋をし、この仕事で出合った人々に恋をし、恋した人たちの生き様を記録することが自分の使命だと思って無我夢中で書き続けています。一流作家や学者先生のように執筆の場に恵まれているわけではなく、ローカルでささやかながら必死になって表現の場を探す中、2007年12月末、このブログをスタートさせました。放任主義で育てた粗雑でやんちゃな子どもみたいな存在ですが、この子の成長を見守ってくれている人が一人でもいるのなら、信念を曲げず、来年も引き続き、大切に育てていこうと思います。

 

 『杯が乾くまで』、8年目の来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 


 

 


近江商人の酒蔵

2014-12-02 22:40:21 | 地酒

 このところの“白隠禅師熱”を機に、白隠さんが生まれ育った東海道筋の歴史について今一度勉強し始めています。酒造業の関係本から調べ直し、「そういえば東海道筋では近江商人が隠密活動のために造り酒屋を作ったんだよな・・・」と思い出して、読み始めたのが【近江日野商人の研究】(日本経済評論社刊)。ここに明治~大正期の静岡県内の酒米事情が書かれていました。

 

 大正期に編纂された『静岡県産業調査書』によると、酒造原料については、県内産がメインだが、時には肥後米、近江米、三河米が使われ、中でも近江米が主力だった―とあります。明治初期の近江米は品質粗悪だったようですが滋賀県が音頭を取って大粒米の改良を進め、明治22年の東海道線開通も後押しになり、県外へ販路が広がりました。お隣りの京都に60万俵以上(県外移出の70%強)出荷されましたが、静岡県にも6~7万俵(同6~7%)は行っていたとのこと。明治32年の『滋賀県実業要覧』によると、近江米の県外移出先上位は①京都、②大阪、③御殿場 ④浜松―という順位だそうです。

 同要覧には近江米の特徴をこう記してあります。

 

「米質改良組合設置以来、稲種改良はもちろん、乾燥、調整等に留意し、保存に耐え、概ね皮が薄く精米しても減耗することなく、食味のよい米である。さらに白玉、渡船、雄町等のような良種が多く、酒造の原料に適している」

 

 ちなみに現在の酒米キング「山田錦」は兵庫県農試で昭和11年に誕生。それ以前の酒米キングといえは備前赤磐郡雄町産の「雄町」でした。「白玉」は福岡生まれ、「渡船」は滋賀生まれです。現在、静岡県の酒蔵では滋賀県産の山田錦を使うところが増えているみたいですが、その背景には近江との長く深いつながりがあったんですね。

 

 では当時の静岡県産米はどうかというと、『静岡県産業調査書』には具体的な産地が記されておらず、近江日野商人の山中兵右衛門家が御殿場で開業したマルヤマ酒造店(酒銘は「富士戎」「開山」「雲上正宗」「翁舞」「吉端」)の仕入れ台帳に、富士郡吉原町(富士市)、駿東郡沼津町(沼津市)の地名がありました。吉原には矢部庄七、沼津には岡本市郎平という有力な米穀商がいたのが大きかったようです。鉄道輸送経路に拠点を持つ米穀商から酒造玄米をコンスタントに確保した・・・さすが隠密のDNAを持つ日野商人ですね!

 

 話は逸れますが、私のこれまでの地酒取材で最も縁の深い「磯自慢」「喜久醉」の2蔵は、静岡県がPRする県産酒造好適米「誉富士」を使用していません。前回記事で紹介した新事業創出全国フォーラムの交流会で、全国から来られた企業人の皆さんが交流会の席でこの2銘柄を試飲するのを楽しみにされていたのですが、県知事が乾杯の音頭を取るから、という理由で、会場では誉富士使用の酒オンリーになり、この2銘柄が見事に外され、当然ながらその理由を多くの人から訊かれました。

 業界内の複雑な事情について第三者の私が勝手な解釈をするわけにはいきませんが、長年、取材者として感じてきたのは、酒造業者にとって最も重要な原料である米のことについて、この2蔵は本当に早くから、真摯に、きめ細かく情報収集をし、現場を歩き、生産者や流通関係者と信頼関係を築き上げていた、ということ。まさに、近江商人にひけをとらない信用力と情報収集力です。けっして「米のことをおろそかにし、誉富士の使用者リストから外されたのではない」と明言しておきたいと思います。

 

 【近江日野商人の研究】には御殿場マルヤマ酒造店を例に、明治~大正期の酒造方法についても詳しく書かれていました。私が目を惹いたのは、杜氏集団のこと。大正期の静岡県下では能登(石川)、愛知の杜氏が活躍していたとのこと。さらに「県内では志太・浜名両郡の出身者が目立っていた」とあります。

 志太杜氏は知っていますが浜名湖周辺にも杜氏がいたんですね。そういえば大正時代の県下酒蔵軒数を調べていたとき、志太郡と浜名郡が突出して多かったことを思い出しました。やっぱり杜氏集団がいたんだ・・・いやぁ不勉強不勉強(恥)!

 

 マルヤマ酒造店は大量に仕入れた玄米を御殿場の隣村の高根村大堰に設置された水車で精米しました。明治34年(1901)の記録では、921,25石の玄米が831,4石の白米になった。精米歩合は91%程度、つまり約1割磨くことができました。それまでの足踏精米ではどんなに時間をかけても八分搗きが限度だったそうです。これによって、麹米のみならず掛米にも白米を使用する〈諸白造り〉が完璧に可能となりました。

 諸白の技術は室町時代に奈良正暦寺で確立されていましたが、全量白米仕込みを生産現場で標準化させるというのは、精米技術の進化を待たなければならなかったわけです。酒造史の本ではほんの数行で書かれたことも、こうして実記を読み解くと、そんなに容易ではなかったんだ・・・と真に迫ってきます。

 

 白隠さんの生きた時代の東海道を調べようと思ったら、すっかり酒造史にハマってしまい、とんだヤブヘビです(笑)。まだ全部読みきっていないので、山中兵右衛門家がどういう商家だったのか把握していませんが、初代山中兵右衛門は宝永元年(1704)に行商を開始し、御殿場には享保3年(1718)に店を構えた。その後、山中家は沼津に明和7年(1770)、天保7年(1836)に韮山に出店したそうです。白隠さん(1685~1768)とは初代~二代目あたりがどこかですれ違っていたかもしれない。ていうか、歴史に名を残す大店ですから、ひょっとしたら白隠コレクターかもしれませんね。

 ・・・ああ知らないことが山ほどあって眠れなくなりそう。