杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ルドンとゴーギャン魂の対話

2013-07-23 19:58:02 | アート・文化

 20日(土)午後、静岡市美術館で開催中の『オディロン・ルドン―夢の起源、幻想のふるさとボルドーから』を観に行きました。

 

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 ルドンは高校生の頃、美術の授業で自分の好きな花の絵を選ぶ機会があり、どういうきっかけか忘れましたが、ルドンの花の絵を選んで以来、ずっと好きな芸術家の一人でした。10代のころは、なんとなく浮世離れした、幻想的でグロテスクで神秘主義的なルドンの作風にハマっていたんですね。

 

 

 

 国内で何度か展覧会を観ていますが、静岡で観るのは初めて。今回は、ルドン展にちなんだ講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」があり、専門家の解説を聴講し、ルドンの人となりが判って、なんとなく大人目線で客観的に鑑賞することが出来ました。

 彼がワインで有名なボルドーの裕福な良家の出身で、お母さんとの関係が悪くて内向的な性格だったらしいけど、わりと大人しくて常識的な人・・・など等。作家自身のバックボーンを知って鑑賞するのって、ある意味、つまんないかもしれないけど・・・(苦笑)。

 

 

 

 ゴーギャンと深い関わりがあったことは、今回初めて知りました。20日14時からの講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」は多摩美術大学の本江邦夫教授が講師を務めました。

 

 

 ルドンは1840年ボルドーの良家生まれ。幼い頃から絵が好きで、父の勧めで建築家を目指すも、試験に落ちて挫折。画家を目指し、当時、急速に発達した科学技術にも興味を持ち、顕微鏡で生物や植物を覗いては光と闇、生命と死について考察するオタクな人だったようです。

 

 

 

 

 一方、ゴーギャンは1848年パリ生まれでジャーナリストだった父の赴任先・中南米育ち。株式仲買人という当時の最先端ビジネスに従事していましたが、1883年、35歳で仕事をやめて画家に転身しました。

 2人が出会ったのは1886年の第8回印象派展。このときルドンは、明るい色彩の印象派の中で、黒一色の空想的な怪物を描いた作品を出品して周囲を驚かせます。でもゴーギャン的にはツボにはまったんでしょうね。人間嫌いで有名なゴーギャンにとって、ルドンは唯一無二の、尊敬・信頼できる先輩となったのでした。彼がパリに嫌気がさしてタヒチに移住するときも、植民地事情に詳しいルドンの妻(混血美女だったらしい)にいろいろ指南してもらったそうです。

 

 

 2人の親交の深さを物語るのが、互いに交換した作品。ゴーギャンはルドンに壷を、ルドンはゴーギャンに「聖アントニウスの誘惑」という作品を進呈しました。当時、作家同士で作品を交換することが最上の友好の証といわれていたようです。

 

 

 1890年9月、ゴーギャンがルドンに宛てたタヒチ行きの決意表明の手紙にはこんな一節があります。

 

 「私はタヒチに行きます。そして、そこで一生を終えるつもりです。おもうに、あなたが好んでくださる私の芸術はまだ胚芽にすぎません。私はそれを彼の地で、自分自身のために、プリミティブで野蛮な状態のまま育て上げたいのです。そのためには落ち着きが必要です。他人のための栄光など一体なんの意味があるのでしょう」

 

 

 また1901年8月に書かれたゴーギャンのルドン評にはこんな一節があります。

 

 「自然は無限の神秘と想像力をもっている。自然はその産物をつねに変化させつつ姿をあらわす。芸術家自身がこうした手段の一つであり、私にとってオルティン・ルドンは創造の連続性を維持すべく自然によって選ばれた者のひとりである。彼の描くすべての植物や萌芽的な存在は、本質的に人間的なものであり、私たちと共に生きてきたのである。だからこそまちがいなく、それらには、それらなりの苦しみがあるのだ」

 

 

 ところがルドンが後年、色彩を多用するようになると、タヒチで人づてにそれを聞いたゴーギャンは、痛烈に批判します。

 

 「ルドンについて言えば痛ましい限りです(もう老いぼれですよ!)。-だれかが彼に言ったのです。あなたは大変な色彩家ですと。そしてそれで十分だったのです。なにしろ彼ときたら色彩を理解することなど決してなかったのですから。それにまた(黒という)ただひとつの色調に全速力で駆り立てられた想像力が疲れ切ってしまったのかもしれませんね。

 

 ぼくがいつも言ってきたのは、画家の手になる文学的なポエジーというのは、特殊なもので、書かれたものの形を用いた図解でも翻訳でもないということでした。要するに絵画にあっては、記述よりも暗示を追求すべきであり、これは他では音楽がはたしていることです。ぼくの絵は理解しがたいとよく言われるのですが、それはまさしく、そこに説明的な側面を探そうとするからに他なりません。ぼくの絵にはそんなものはないというのに―」

 

 

 

 

 ゴーギャンは1903年、マルキーズ諸島ヒヴァオア島で心臓発作のため亡くなります。その2年前、死期を悟った彼は、自ら制作した花瓶にヒマワリを生け、その背後にルドンの黒の時代のトレードマークだった目玉の怪物を配置した絵を描き上げていました。ゴッホとルドンに敬意を表したんですね。

 

 ルドンは1916年、パリで亡くなりました。晩年はフォンフロワド修道院の図書室の壁画制作に臨みました。壁画をオーダーされるというのが、当時の画家にとって最高の名誉だったそうです。またゴーギャンの訃報に接した後は、彼を鎮魂する作品を何枚か描きました。

 

 

 

 紆余曲折があったにせよ、ルドンは76年の生涯を、わりとおだやかに、まっとうしたと思います。ゴーギャンのほうが芸術家らしい破天荒な一生だったかもしれません。そして芸術家としてのネームバリューは、あきらかにゴーギャンのほうが高い。

 

 しかし、そんなことは、後世の我々だから言えることで、同じ時代に生きて出会い、ときに尊敬しあい、反発しあい、切磋琢磨した者同士、どちらが上か下か、幸運か不運かなんて比べるのは意味がないこと。作品を交換したり、自分の作品に相手のシンボルを遺す・・・これは表現者同士のこの上ない絆の証明ではないかと思います。

 

 

 ルドンの後輩にあたる画家ドニの日記に、ルドンが残した印象的な言葉が残っていました。

 

 「ルドンのことば(ある若い画家に向けて)。

 《自然とともに閉じこもりなさい》。

 あらゆるものを、その素材にしたがって描くこと。ごつごつした樹木、すべすべした肌を。」

 

 

 静岡市美術館のルドン展は、8月25日まで開催中です。詳しくはこちらを。