杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

人口変動を考える

2014-09-02 16:03:24 | 本と雑誌

 先月の静岡県ニュービジネス協議会中部サロンで、静鉄ストアの竹田昭男社長から「食品スーパーにとって重視するのは人口減少問題」とうかがい、なるほど、と思いました。ちょうど歴史人口学者・鬼頭宏氏の『2100年、人口3分の1の日本』を読んでいたからです。

 日本の人口は、現在の1億3000万人が50年後に9000万人に、100年後には4000万人にまで減ると予想され、政治経済や労働環境、家族関係など社会全体を激変させるといわれていますが、日本では長い歴史のなかで過去何度か人口変動を経験している。その変動の波を歴史人口学者の立場で分析したユニークな学術書です。

 

 

Imgp0618  まず、2020年という近々の未来を想定した静鉄ストア竹田社長のお話。現在、1億2805万人の日本の人口は1億2410万人となり、単純計算で約3%=395万人の胃袋が減ります。しかも高齢化が進んで生産人口は780万人も減る。世帯数はというと、数字の上では増えるんですが、全世帯の3分の1が単身世帯で、その3分の1が高齢者の単身世帯となります。

 

 過日発表された、静岡県が人口減少全国ワースト2位という数字にショックを覚えた人も多いと思います。あらためて竹田社長が具体的に解説してくれましたが、平成25年データで、人口が減った都道府県は①北海道▲8154人、②静岡県▲6892人、③青森県▲6056人、④長崎県▲5892人、⑤兵庫県▲5214人とのこと。

 

 静岡県▲6892人の内訳をみると、①沼津市▲1239人、②焼津市▲858人、③静岡市▲775人、④富士市▲610人、⑤牧之原市▲515人の順。静岡市の場合、2010年時点の人口71.6万人が、2020年には68.2万人(▲3.4万人)と想定されています。2020年段階で今より人口が増えると予想されるのは、長泉町、吉田町、御殿場市、袋井市、裾野市の5市町だけだそうです。・・・静岡って気候温暖で交通至便で富士山も見えるし食材にも恵まれているし、住みやすさでは日本トップクラスと自負していたのに、単に住みやすい、なんて条件では人口増加どころか流出を食い止めることも出来ないんですね。

 

 

 人口が減って、高齢者の単身世帯が増えるという変化に、静鉄ストアのような食品スーパーは敏感にならざるを得ません。我が家から最も近い静鉄ストア千代田店は、弁当・惣菜コーナーを増設し、イートインコーナーまで併設しました。生鮮品も小分けパックがずいぶん増えています。売り場面積で計算したらずいぶん効率が悪いだろうなあと思いつつ、静鉄ストアは、売り場の論理ではなく「客が欲しいと思うもの」を「客が買いやすいスタイルで売る」ことに徹しようと舵を切ったのでしょう。

 

 人口減少に手をこまねいているわけではなく、家庭で料理を楽しむ人を育てようと、お弁当作りのチラシを作ったり、料理教室を開催したりと食育活動も展開中です。

 

 「今後、人口増加が見込まれる長泉、御殿場、裾野等、県東部地区への出店が有望」という竹田社長。さらに東の神奈川県は全国でも人口増加が期待される地域だけに、静鉄ストア県外出店!もまんざら夢ではないと思いますが、店名は変えたほうがいいかもしれませんね。

 

 

 

 

 『2100年、日本の人口3分の1』によると、日本は過去何度か人口減少の時代を経験していますが、その理由は戦争、気候変動、災害といった外因というよりも、文明が成熟した必然的な結果のようです。

 

 弥生時代には大陸・半島から稲作文化がもたらされ、人口移動もあった。7世紀まで存在した倭人は東シナ海や黄海を拠点にしていたし、9世紀までは遣隋使・遣唐使といった外交使節や仏教僧たちの交流も活発でした。この時代の日本は“人口増加時代”だったのです。

 

 転じて遣唐使を廃止(894年)した平安時代から元寇のあった鎌倉時代までは人口減退期。日明貿易が活発化した室町~安土桃山~江戸時代初期は増加に転じ、東南アジアへも進出した。江戸時代は狭い耕地から多くの収穫高をあげるため中国から新種稲を導入したり、溜池・灌漑用水路の整備、肥料や農機具の改良、家族単位の労働集約的農業の進展等、有機エネルギーをベースにした高度な農業社会が確立し、当時の日本列島が持つ限界(3000万人)まで人口が増大したようです。

 

 江戸後期、度重なる飢饉によって少子化現象が起き、周辺諸国との交流も薄かったことから人口減少に転じ、幕末明治~欧米諸国との技術交流や貿易が活発になると、人口はふたたび増加し、西南戦争後の1880年から2000年までの約120年間で人口は3・4倍、GDPは70倍に膨れ上がったそうです。

 

 鬼頭氏によると、日本が諸外国に対して閉塞的な環境下では政治や芸術、文学、生活様式に日本的な独自性が確立したが、経済的には総じて低成長。外延的な成長が困難な状況が、人口減退期を導いた。つまり、わかりやすくいえば、経済発展する時代は人口が増え、低迷すれば減る。その代わりに文化は発展する。人口変動は、産業文明の宿命ということです。

 

 

 人口が減ることは、事前に予測できます。戦後初めて1959年に発表された『人口白書』では、1985年頃の1億486万人をピークに以降は減少に転じ、2015年には8986万人まで減少すると推測されています。59年当時、まだ本格的な高度経済成長は起きていませんでしたが、ベビーブーマー世代が数年後に労働市場にデビューしたとき、労働力過剰になるのを恐れ、ときの政府はなんと「子どもは2人が限度。人口ゼロ成長を目指せ」と“増子化対策”を打ち出したのです。1974年に発表された戦後2回目の『人口白書』でも政府は出生抑制を強化し、メディアがこぞって「出生率を下げよう」と大宣伝し、結果として翌75年から合計特殊出生率2・0を下回り、以降、低下の一途をたどったのでした。鬼頭氏は「日本の少子化は政府主導で始まった」と明言しています。

 

 

 少子化対策、女性活用、地方創生・・・安倍改造内閣の目玉政策とされていますが、政治家の先生方は目先の経済指標にとらわれ、時代を読み間違えないよう、広く深い歴史観を持ってもらいたいものです。