杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『葬と供養』を読んで(その2)~戒名を考える

2014-09-21 08:15:03 | 仏教

 先月の旧盆前から図書館で借りて読み出した五来重氏の大著【葬と供養】。秋のお彼岸になっても読み切らず、焦っています。

 それでも、バイト先のお寺で実際に葬儀や周忌行事の準備を手伝いながら、今までは深く考えることもなく、単に「こういうもんなんだー」と受け流していた道具や手順の一つひとつにちゃんと意味があることを、薄々感じ取るようになりました。前回のブログ記事を読んでくれた茶道仲間のU氏から「“そういうもんだ”と思考を止めていたことを反省した」と感想をもらい、あらためて、習慣化されたものの中に先人たちが築いた生活の知恵や宗教観が深く刻まれていることを、今の世代がしっかり認知する重要性をかみしめます。

 

 はからずも、【葬と供養】の508ページで五来氏がしっかり述べておられました。

 

 日本仏教が葬送にかかわる前には、原始葬にあたる風葬、水葬があったことが想定され、これが埋葬の民俗葬になっても「殯」(もがり)として継承された。この民俗葬が仏教化して仏教葬になったけれども、葬送の儀礼や葬具などは民俗葬がそのまま現在ものこっている。

 

 民俗葬では殯に花縵(はなかずら)を立てたものが、仏教葬では散華と布施の花籠となって、現在でもおこなわれているようなものである。また死者にさしかけた笠は天蓋となり、これに「迷故三界城、悟故十万空、本来無東西、何故有南北」と書くのは、仏教の迷悟の哲理によって、死者を成仏させ、生者には仏教の信仰と修行をすすめるものである。

 

 民俗葬で死者の滅罪のために立てた旗鉾は仏教葬では四本幡となり、これに書く「諸行無常、是正滅法、生滅々己、寂滅為楽」は、仏教の極致とされる「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の三法印をあらわしたものではないか。何処の誰が葬送は仏教でないなどというのであろうか。しかもこれらの葬具は『続日本記』天平勝平八歳(756)五月十九日条の聖武太上皇の葬送に明記されているのである。

(中略)

 日本の仏教といわれる寺院や仏像や経巻、仏具・荘厳具なども、葬送と葬後供養(菩提)のために造られたものが多い。菩提寺とされるものは死者の菩提のために造られたものであるし、またそのために寄進された文化財は莫大である。われわれはその寄進者や、勧進に応じた民衆の死者哀惜をわすれて文化財を鑑賞しているが、そのほとんどが葬墓文化財であることを忘れてはならないとおもう。

 

 

 さて、お寺の仕事でいつも戸惑うのが、法事の前、お布施の金額を訊かれるとき。戒名によって違うんですね。

 では戒名によってなぜ異なるのか、そもそも戒名の違いって何なのか、今までは“思考停止”のまんま、「私じゃ分かんないので、和尚さんに聞いてくださ~い」と受け流していました。

 

 お寺の本堂の真裏にある位牌堂。戒名が書かれた位牌が段々に並んでいて、毎朝、お供えのご飯とお茶を上げるのが仕事になっているんですが、面白いことに、「霊気を感じる」といって入るのをためらうバイト仲間もいるんです。私は第六感的なものをまったく持ち合わせていない鈍感人間で、霊的現象にもトンと縁がなく、仲間の話を「へえ~」と冷やかし半分に聞くだけでした。

 

 

 【葬と供養】の戒名に関する記述を私なりに噛み砕いてみると―

 ご存知の通り、戒名は、仏教に入信するときに授戒される名前。もちろん生きている人が対象ですから、死んでしまってからでは手遅れです。

 ところが日本では、死者でも生まれ変わって、或いは生まれ清まって仏教徒になれるという日本独自の概念が加わりました。死ぬことによってすべての罪がリセットされて、霊魂として再生できる・・・これはもともと日本人が原始時代から、共同体のために生贄となって死んだ者は神として再生すると考えた民族の思想ともいうべきもの。靖国神社のA級戦犯合祀もその延長線上ではないでしょうか・・・。そして、インドにはなかった“死後成仏”という思想を実際に根付かせるには、七々日や周忌という“滅罪手続き”を必要とした、ということです。

 

 一方で、生きているうちに、出家を目的とはせず一定の修行を経て滅罪手続きをして、“一旦死んだことにして、清浄な心身に生まれ変わろう”と考える人もいました。こういう考えを「逆修(ぎゃくしゅ)」といい、ふだんの暮らしをしながら仏の教えを実践する。こういう人々は「居士」「大姉」という戒名をもらいます。代表的なのが茶の湯の千利休で、「利休」は正しくは「利休居士」なんですね。

 

 逆修によって生前に戒名をもらう人は、権力者や富裕層など一部に限られていました。逆修の法事ができるのは選ばれし高僧に限られ、その法事には莫大な費用がかかったからだそうです。そうなると、純粋に仏教に帰依するというよりも、「大金をかけて一旦死んだことにして戒名をもらったのだから、自分は清められた」「無病息災で長生きできる」という、人間の俗っぽいホンネも介在したろうと思います。

 

 鎌倉時代になって二十五三昧講、大念仏、融通念仏といった”カジュアルな逆修”が登場し、大衆に広まりました。戦国時代には「入道」という逆修戒名をもらった武将が立派な禅宗寺院を建て、禅僧を厚遇した一方で、「長生きのお墨付きをもらった」「授戒で仏弟子になったから罪穢は消えた」からと殺戮を繰り返した。・・・日本にはキリスト教やイスラム教のような目に見える宗教戦争はなかったとされますが、宗教を利用した戦争は確かに存在したわけです。

 

 

 授戒に対する考え方が時代によって変化していったことで、戒名の付け方も変わっていったようです。「なんとか院」という戒名は、よく、権力者が一院を建立したことにして院号を付けたという擬似建立説が知られていますが、五来氏は、庶民信仰である修験道の山伏たちも院号を使っていたことに着目します。修験道では厳しい入峰修行の後、即身成仏の儀礼の際に院号が与えられたそうで、最も古い「禅定」という戒名も、修験道から出たもののようです。肉体を限界まで酷使した命がけの厳しい修行の過程で、達成レベル別に戒名が与えられるというのは想像できる。逆修のほんとうの意味がそこにあるのです。

 と同時に、おそらく、仏教がさまざまな宗派に枝分かれしていくうちに、信徒獲得のため、「うちではここまでやれば、こういう戒名を与えます」といったセールストークみたいな教義が登場してきただろうとも想像できます。

 修験道についてはまったくの不勉強で、今のレベルでこれ以上無責任に書くわけにはいきませんが、五来氏が再三指摘される〈日本の庶民仏教と庶民宗教を顧みる姿勢〉が、戒名にも当てはまることに少し驚きました。日本で一番最初に位牌を作ったのは足利尊氏だと何かで読んだことがあって、戒名自体もそのくらいの歴史だと思い込んでいたのです。

 

 

 現代では、逆修の功徳を知る機会もなく、戒名をもらわずに亡くなり、和尚さんがあわてて『法名・戒名大字典』を開く・・・というケースがほとんど。実際に頭をひねりながら戒名を思案している和尚さんを見ていると、コピーライターの新商品ネーミングよりも難しそうだなあと同情してしまいます(苦笑)。

 

 戒名の種類や金額については、それこそネットで検索すれば簡単に分かりますが、自分や家族のもう一つの名前について、ネット情報をみて「そんなもんか」と思考停止のままでいいんでしょうか・・・。学問としての仏教は専門家に任せるとして、我々庶民(少なくとも死後、お寺でお世話になろうとしている者)は、庶民信仰としての仏教について関心を持つべきだろうと実感させられます。