杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国際白隠フォーラム2015(その1)公開講座「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」

2015-07-24 17:34:57 | 白隠禅師

 久々の更新です。かねてよりご案内のプラザ・ヴェルデ開館1周年記念事業が7月19~20日に開催され、【国際白隠フォーラム2015】は7月19日午後から600名余を集め、盛大に開催されました。19日は午前中からフォーラムパネリストの海外研究者が公開講座として研究発表されました。講座&フォーラムについて何回かに分けてご報告します。

 

 

 

 公開講座最初の演題は「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」。講師はスイス・チューリッヒ大学のハンス・トムセン教授です。トムセン教授はデンマーク人。宣教師のお父様が京都に赴任されていた関係で京都で生まれ、子どもの頃は、なんと、袋井のデンマーク牧場で過ごされたそうです。デンマーク牧場を開設したのが、教授のお父様ハリー・トムセン牧師。袋井の土地を取得し、牧場と農学校を設置して、不登校児の自立支援を目指して牧場仕事をしながら学ぶフリースクールを始められたのでした。

 私、20年ぐらい前にデンマーク牧場の支援団体日本福音ルーテル協会の関係者の紹介で取材したことがあり、はじめのころ「トムセン牧場」と呼ばれていたと聞いてました。一昨年も、社会福祉法人として介護施設や精神科療養施設を拡充した様子を視察したばかり。その息子さんに、禅宗の白隠さんについて講義してもらうことになろうとは・・・。

 

 そんなこんなで、日本で生まれ育ち、静岡県にも大変ゆかりのあるトムセン教授は、もちろん日本語ペラペラで、浮世絵や伊藤若冲といった日本美術に造詣が深く、沼津市出身の古美術商・田中大三郎氏の薫陶を受け、白隠禅画を研究されています。今講座では、西洋で禅画を発掘したパイオニアたちを紹介してくださいました。

 

 浮世絵、若冲、白隠禅画・・・いずれも19世紀末から20世紀にかけ、ヨーロッパにおける美術品としての評価が日本に“逆輸入”されたものですね。いたしかたありません。日本にはそれまで「美術」という概念がなく、明治6年(1873)に日本政府として初めて参加したウィーン万国博覧会をきっかけに作られた言葉だったのです。仏像を彫刻、書画を絵画として扱うようになったんですね。

 ちなみに、万博開催の先駆けとなったイギリスでは、1851年、1862年、1871(~1874)年にロンドン万博が開催され、フランス・パリでもこれと競い合うように万博が企画されました。幕末・明治だけで1855年、1867年、1878年、1889年、1900年と開かれ、日本は1867年以降の4回のパリ博全部に参加。1878年のパリ万博では、フランス大統領から古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されました。これがヨーロッパにおける日本美術ブームに拍車をかけます。1873年ウィーン万博参加以降、日本は官民ともに明治時代だけで40近い博覧会に参加しました。現在、ミラノ万博が開催中で、日本の和食が大変な人気を集めているようですね。140年前は美術、今はグルメかぁ~。

 

 それはさておき、幕末~明治は日本にも多くの外国人がやってきました。大半は横浜10km圏内の外国人居留地に住んでいたので、よく目にしたのが鎌倉大仏。ヨーロッパの街では広場や公園など屋外にブロンズ彫刻が置かれているので、同じように屋外の自然の中に安置された大仏さまを、公園でよく見かけるような身近な彫刻芸術ととらえた、とトムセン教授。奈良東大寺のように大仏殿の中にあったら、また違っていたかもしれませんね。

 1884年、フェノロサと岡倉天心が奈良法隆寺の救世観音像を発見し、「超一級のギリシャ彫刻のようだ」と絶賛。ドイツの東アジア美術史家でケルン東洋美術館を創設したフリーダ・フィッシャー女史(1874~1945)は、延べ10年におよぶ日本での滞在日記「明治日本美術紀行」の中で、“日本人は美術館に展示された仏像を、寺と同じように拝んでいた”とし、日本における美術とは、宗教的意味と芸術的意味の2つあることを指摘しました。しかし当時、日本の美術館にも〈禅画〉はありませんでした。

 

 白隠禅画を初めてヨーロッパで紹介したのは、ドイツの美術研究家クルト・ブラッシュ(1907~1974)。父は大阪の第三高等学校ドイツ語教師で浮世絵研究家。母は日本人。1928年に同志社高等商業学校を卒業し、京城ドイツ領事館に務めた後、ドイツに帰国し、戦後の1948年に再来日。貿易商を営むかたわら、仏教美術や日本文学を専門に研究し、その過程で出会った白隠禅画に魅了され、1957年に美術解説本『白隠と禅画』を出版しました。そして1959年から1960年にかけ、ヨーロッパで初めて大々的に禅画の展覧会を開催したのです。

 そのスケジュールがまたすごくて、1959年1~2月にウイーン、4月にケルン、6~7月にベルン、9月にコペンハーゲン、10~11月にベルリン、12月ミラノ、翌1月ローマ。「作品にとってはよくないが、影響力は絶大だった」とトムソン教授。白隠の弟子東嶺や、後世の禅僧・仙義凡の作品が中心だったようですが、初めて禅画に触れたヨーロッパ人は、当時注目されていたモダンアートに近い新鮮な驚きと高い関心を示し、ZENブームのさきがけとなりました。ちなみに展覧会のために作られた図録には、日本大使館後援のクレジットがあり、浮世絵を扱う古美術商の広告もちゃっかり入っていたそうです。

 この展覧会の反響が、日本にも伝わってきて、日本の美術館や博物館でもようやく禅画が扱われるようになりました。トムソン教授は「日本人にとって禅画は日常の中にあり、かえってその価値観に気づかなかったと言える。西洋のパイオニアたちの中には日本語が読めない人も多かったが、幕末の浮世絵と同じように、新しい見方や考え方で禅美術への認識を日本へ逆輸入した」と説きます。

 アメリカではギッター・イエレンやピーター・ドラッカーといった有名コレクターの収集品が展覧会で続々と紹介されました。スティーブン・アリウスという研究家が研究発表のために訪れたカンザスシティで、たまたま町の床屋さんに立ち寄ったら、店主から「禅画の話をしに来たのか、HAKUINはどう思う?」と訊かれ、ビックリしたとか。スゴイですね、いま、沼津の床屋さんで、そんな質問のできる人、何人いるんだろ・・・。

 

 ちょうど1年前のプラザ・ヴェルデ開館記念講演会で初めてまともに白隠禅画のことを学び、まったく初心者の域から脱っしていない私ですが、かつてフィッシャー女史が指摘した、〈仏像を芸術作品とみるか、あくまでも信仰の対象とするのか〉、この二項対立構造は、素人目にみても、いま現在、白隠さんを取り巻く状況にそのまま当てはまっているように感じます。

 トムソン教授は「いまや、白隠に対する認識や歴史、知名度は、日本だけでなく、世界中のものとなっている。白隠は沼津だけでなく、世界のHAKUIN。白隠についての西洋視点と、日本人の心にある価値観を互いの言葉で大いに議論しよう。外国人も日本人もひとつになって、沼津の一禅僧が発信した素晴らしいビジョンを享受しよう」と締めくくられました。「議論しよう」というメッセージを、公開講座に出席した一部の市民しか聞いていないというのは、なんとももったいない話だと、つくづく思います。