7月19日国際白隠フォーラム2015の公開講座、お2人目の講師は京都外語大学准教授の竹下ルッジェリ・アンナ氏です。1971年イタリア・シチリア州パレルモ市生まれで、身近にいた日本人の友人を通じて日本文化に興味を持ち、ヴェネツィア大学日本語学科で宗教哲学を学び、花園大学や大阪府立大学大学院を修了された方。鈴木大拙の影響から白隠禅師の研究を続けておられます。女性研究者らしく、講演のテーマは「白隠禅師の女性弟子」。白隠禅を研究しているイタリア人女性、しかも空手の名手だそう。興味をそそられると思いますが、残念ながら講演会は写真撮影NG。アンナ先生の見た感じを説明するのは難しいけど、健康的なイタリア人女性そのもの、って感じかな(笑)。
初心者の私にとっては、まず大きかったのが「白隠さんに女性の弟子がいた!」というインパクト。仏僧と女性のかかわりと聞けば、思い起こすのは一休さんと森女、良寛さんと貞心尼あたり。小説なんかでは老いらくの恋という描かれ方をされているので、最初、白隠さんにもそういう女性がいたのか・・・なんて妄想しちゃいましたが、一休や良寛のように風流に生きた人と違い、生まれ育ったジモトで大勢のお弟子さんを抱えていた白隠さんですから、醜聞沙汰になるような関係とは考えにくい。
実は醜聞がなかったわけではありません。原の町家の嫁入り前の娘が妊娠してしまって苦し紛れに「相手は白隠さん」と白状し、親はカンカン。でも白隠さんは一切反論せず。後で娘がウソを付いていたと認め、親が白隠さんにヒラ謝りするも、「子に父親がみつかって本当に良かった」と笑顔で返した白隠さんに、一家は心酔した・・・という逸話があるので、白隠さんに女性信者がいれば、いまの時代のワイドショー如く、ああだこうだ言われたのかもしれないな、と想像できるけど、今回のお話を通し、清くまっとうな師弟関係だったようだと確信しました。
記録によると、白隠さんには6人の女性弟子がいたようで、今回アンナ先生が紹介されたのは、阿察婆(おさつばあ)と親しまれていたお察さんと、恵昌尼という尼僧。お察さん(1714-1789)は、父と叔父が白隠さんの熱心な在家信者で、本人も14歳ぐらいから参禅。かなりの熱血信者だったようで、親が結婚を奨めたときも信仰に生きたいと抵抗したそうですが白隠さんに説得されて嫁ぎ、45歳のときに夫を亡くすと仏行にまっしぐら。白隠さんが亡くなるまでそばに仕えていたそうです。
お察22歳ぐらいのときに写経した「法華経」の写しには白隠さんが加筆した形跡があったり、白隠さんが自ら彫刻した「おさつの老婆像」というのがあって、これが白隠さんがよく描くお多福の顔によく似ているなど、お察が白隠さんの愛弟子だったことがよくわかります。そこに恋愛感情があったかどうか、小説家なら妄想をふくらませるでしょうけど、心から尊敬できる男性、しかも後に500年に一人といわれる不世出の宗教家のそばで、お婆ちゃんになるまでつかえ、お多福モデルになったお察さんは、もう、それだけで女性として十分幸せな生涯だったんじゃないかな・・・。
恵昌尼(?-1764)は清水の人で、夫に先立たれた後、出家し、興津の清見寺9世の陽春主諾(1666-1735)の弟子となり、陽春亡き後、陽春と交流のあった白隠さんに参じたようです。ちょうど修行の“同期”に、後に白隠第一の高弟といわれた東嶺円慈がいました。あるとき、修行仲間とうまくいかずに京へ逃走しようとした東嶺が愛用していた経本「普賢行願讃」を恵昌尼に与え、彼女はそれを泣きながら受け取った、というエピソードが記録に残っています。
こういうお話をうかがうと、白隠も東嶺も、女性を差別することなく、人として、修行者としてまっすぐに対峙していたことがわかりますね。
もともと原始仏教には女性差別がなく、よく言われる“五障三従”は、仏教の根本思想にはありません。「五障」とは、女性は生まれながらにして「梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、仏になれない障りを持っている」ということ。「三従」とは、女性は「幼い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない」・・・つまり女は男に無条件に従わなければならないという説。お釈迦様が生まれる前からインド社会にあった女性蔑視の考え方で、「五障」はヒンズー教の、「三従」は儒教の影響があるらしいとのこと。でもそれがいつの間にか仏教の真理として伝わってしまい、女性は仏教の救いから排除され差別され続けてきました。
日本で出家する女性というと、身分の高い女性が寡婦になった後、庵を結んで静かに余生を過ごす、そんなイメージを持っていました。ところが、禅宗では男の僧侶と同等に修行者として扱われようと思いつめたあげく、なんと、自分で自分の顔を焼いて醜女になる尼僧が多かったそうです。男女同権、男女共同参画社会の現代では想像もつきませんが、そこまでしないと修行者として認めてもらえなかったのです・・・。
そんな歴史背景を考えると、白隠さんが女性の弟子を大切に扱い、お察さんを愛嬌のあるお多福さんに描いたのは、男女の性差や見た目の美醜など関係なく、すべての衆生を救うのが仏道である、という強いメッセージが込められているように思います。大変進歩的な考えですね。
・・・改めて、こんな素晴らしい教えをたくさん遺しているのに、白隠さんのことが一休さんや良寛さんほど知られていないのは、なぜだろうと考えてしまいます。そもそも500年に一人の逸材と聞かされても、何がどうスゴイのか、一般の人にはピンと来ない。
もっともっと白隠という人物をクローズアップさせる、たとえば小説家が触手したくなるような人間らしい伝説や艶話の一つでもあれば・・・とも思うけど、今の日本の宗門の方々にとって白隠さんは絶対的存在であり、どこか、それを許さない空気があるようです。
白隠さんが救済の対象としていたのは、ありとあらゆる衆生であり、そこに、出家か在家か、男か女か、日本人か外国人か、なんて意味はない。その教えが普遍的でボーダーレスだからこそ海を越え、時代を越え、多くの外国人を惹きつけた。白隠さんのメッセージを、日本人が、静岡人が、今の時代にどう受け止め、伝えるか・・・お2人の海外研究者から大きな宿題をいただいたような気がします。
少なくとも『男女同権の先駆者』であることは間違いないのだから、現在、女性差別問題に取り組んでいる人たちにも、白隠さんの功績を知っていただきたい!ですね。