杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河茶禅の会京都禅寺ツアー(その1)

2016-05-09 21:48:07 | 駿河茶禅の会

 今年のGWラスト2DAYS(5月7・8日)は、新緑目映い京都へ、駿河茶禅の会の皆さん21人を素人アテンドしながら行ってきました。京都国立博物館で開催中の【禅ー心とかたち】にちなみ、通常非公開の禅宗大本山塔頭寺院が特別公開されているので、巡れるだけ巡ろうと、今年の年明けから計画していたのです。しずおか地酒研究会20周年アニバーサリー企画と同時並行につき何度も混乱し、加えて茶道の師匠望月静雄先生が急に不参加となり、生徒だけのお遊びツアーになってしまいましたが、なんとか無事催行できました。

 

 7日は10時前に京都駅に集合し、JR嵯峨野線に乗って嵐山へ。ちょうど1週間前に放送されたブラタモリで紹介された渡月橋や天龍寺を散策しました。天龍寺の百花苑は先月、枝垂桜が満開の時期に下見に来た時とはうってかわって一面、新緑の洪水。その中に色鮮やかな初夏の和花がキラキラと輝き、茶室に飾ったらさぞ美しいだろうと心躍る思いがしました。自分ちに茶室はないけど(苦笑)。

 

  お昼は天龍寺直営の篩月で精進料理をいただきました。簡素な食事を想像していたら、あにはからんや、ずっしり食べ応えのある一汁一飯五菜(写真の膳に賀茂茄子田楽&果物がプラス)。どれもさすがに手間暇かけた皿ばかりでした。我々は予約をしましたが、少人数なら予約なしでもOKみたいで、ファミリーやカップルの海外観光客がひっきりなしに入ってきました。貸し切り満席の日が何日かあるようですので、ご利用の際はサイトで確認してみてください。

 

 嵐電を乗り継いで次に向かった大本山は妙心寺。塔頭の大法院でお抹茶をいただきました。ここは春と秋に限定公開されていて、紅葉の時期が有名のようですが、この季節も清涼感たっぷり。お茶をいただいた客殿の前には、枯山水が多い禅寺の中では珍しい露地庭園(茶庭)が広がります。

 大法院は江戸時代の寛永二年(1612)、信州松代藩主だった真田信之(大河ドラマで大泉洋演じるお兄ちゃん)の孫・長姫が、信之の遺命により菩提寺として妙心寺山内に創建した塔頭です。長姫は妙心寺百七十五世・絶江紹堤(ぜっこうしょうだい)禅師に禅を学んでいたことから、その法嗣にあたる淡道宗廉(たんどうそうれん)を開祖とし、院号は真田信之の法名「大法院殿徹岩一明大居士」より命名。松代藩主真田家からは毎年五十石が施入され、藩寺として保護されたとのこと。今でも長野県民の参拝者が多いそうです。

 墓所には真田信之の墓と、幕末に吉田松陰や坂本龍馬を育てた佐久間象山(1811~64)の墓もあります。象山は松代藩主の儒臣で、元治元年(1864)に京都三条木屋町で攘夷派の熊本藩士・河上彦斎らに暗殺された後、ここに墓が造られました。真田信之と佐久間象山の墓を一緒に拝めるなんて、歴史好き&大河ドラマファンなら見逃せませんね!


 院内には土方稲領(ひじかたとうれい)が描いた襖絵「叭叭鳥図(ははちょうず)」があります。叭叭鳥は中国に生息するカラスに似た鳥で、九官鳥のように人の声を真似る鳥だそうです。稲領が描いた叭叭鳥図は鳥100羽が梅の老木に群がり飛ぶ様子が描かれ、禅語の「長空鳥任飛(自らの心境のまま、自由自在の有様)」を表現したそうです。また佐久間象山筆の「常賞」という字も掲げられています。


 妙心寺からJR花園駅⇒JR二条駅⇒地下鉄烏丸御池と乗り継いで、次に訪ねたのは三条釜屋にある大西清右衛門美術館。この地で約四百年にわたって茶の湯の釜を作り続ける千家十職の釜師・大西家の伝統と技に触れました。


 幕末の大老で茶人でもあった井伊直弼は『茶湯一会集』の中で「釜は一室の主人公に比し、道具の数に入らずと古来云い伝え、此の釜一口にて一会の位も定まるほどの事なれば、よくよく穿鑿をとぐべし」と記していたそうですが、なるほど、目利きの茶人が好みそうな切子釜、提灯釜、達磨釜などユニークな形状の釜がズラリ。釜の形状のルーツは、①煮炊き用の鍋や釜など生活用具から発展したもの、②大陸の影響をうけたもの、③宗教の道具から影響をうけたものに分けられるそうで、とくに宗教の影響としては経典を保存する経筒、仏事で使用する香水壺や護摩炉釜、九輪(仏塔の最上部にある九つの宝輪)などからデザインや製法のヒントを得たようです。

 いずれは錆びて朽ち果てる鉄を原料にし、鋳型の技術、彫刻の技術、槌起や彫金の技術、熱処理や漆の技術など複雑で難度の高い加工を必要とする上に、茶人からハイレベルな要求があるのか、はたまた職人としてのプライドからか、さらに凝りに凝った意匠にこだわる職人たちの心意気。これが、数百年経て〈侘び味〉〈やつれ〉と言われる独特の味わいに生まれ変わるのでしょう。西欧には鉄器に対するこういった価値観はないそうです。

 お茶の道具は、使い手からみると、戦国時代は権力者のシンボルに、江戸時代は財産替わりに利用され、侘茶の精神とは違う世界のように感じていましたが、道具の作り手からすれば、技を究めるひとつの精神修養にも思えます。

 利休百首の中に

「茶はさびて 心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ」

「釜一つ あれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚な」

という歌があり、その一方で、

「かず多くある道具をも押しかくし 無きがまねする人も愚な」という歌もあります。

 誠心からもてなせば道具は高価なものや珍器でなくても有り合わせのもので十分。道具ではなく心で点てよと言いつつ、たくさん道具を持っていながら、さも持っていないような顔をするのは愚かだ、持っているなら十分活用せよと言うこと。確かに、道具の良し悪しや数に囚われるというのは、禅が戒める執着心の表れ、とも言えますね。釜、茶碗、棗、茶杓等々、種々の道具を用いる茶道では、道具の数だけ心も試されるのかもしれません。(つづく)