杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

京都をもっと知るための仏教史

2017-02-23 18:40:43 | 仏教

 若い女優さんが仕事を放り出して出家したというニュース。浮き沈みの激しい世界に身を置く人にとっては、宗教が心の支えになることもあるだろう…と我が身に置き換え、ちょっぴり同情の念を感じてしまいました。

 自分が仏教に興味を持ったきっかけは、ミッションスクールの中学高校に通っていたころ、図書館で見つけた仏教本。毎朝の礼拝で読んでいた聖書の教えとの違いが「面白い」と感じ、やがて、日本の宗教へと関心が広がり、京都の大学に進学。20~30代は幸い仕事に恵まれ、宗教本を紐解く時間はほとんどありませんでしたが、40歳を超えたころから浮き沈みの辛さを感じ始め、再び京都へ通うようになりました。といっても特定の宗教にハマったわけではなく、歴史を知ること自体がストレス発散になったのです。現実逃避かもしれないけど(苦笑)。

 

 2月18日、JR静岡駅前の宝泰寺サールナートホールで開催された京都学講座では、花園大学文化遺産学科教授の師茂樹先生が神道と仏教の関係性をわかりやすく説いてくださいました。改めて学んでみると京という都を成立させていた宗教のキホン、ちゃんと理解していないと、ホントの京都は楽しめないと痛感しました。師先生のお話をキーワードをもとに整理復習してみたいと思います。

 

「神仏習合」「神身離脱」

 映画『沈黙』で印象的だったのは、主人公の宣教師が、奉行のイノウエ(イッセー尾形)や、日本の仏教徒になった先輩宣教師(リーアム・ニーソン)に、転宗を勧められるシーンでした。ストーリー展開は別にして、仏教の教えというのはディベート向きだと感心したのです。過去ブログ(こちら)でも触れたとおり、日本固有の神道が外来宗教である仏教とどのように融合したのかは、日本人の宗教観を理解する上で大事なポイント。師先生も「仏教は説明能力が高い。キリスト教が入ったときもGODを大自在天に置き換えて仏教の世界観に取り込んだ」と太鼓判を押しました。

 6世紀に伝来した当初、仏教は大陸からやってきた新種の神のひとつとされましたが、説明上手な仏教が「日本の神々は仏教の六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の最上位に属す」と持ち上げ、それでも輪廻転生は免れないため、天変地異や疫病がおこると「神が仏法による救済を願って苦しんでおられる」と説く。でも神は自分で読経も写経も出来ないし仏像を彫ることもできない。人間に代行してもらうしかない。それで、山岳修験者たちが中心になって、神が住まう山奥にお寺が建立されるようになったということです。お寺の正式名に山号(〇〇山△△寺)があるのはその名残り。ちなみに日本で一番数の多い八幡神の称号「八幡大菩薩」は、「菩薩」が仏道修行中の身分を指すことから、❝神様ただいま修行中❞ってこと。これぞ神仏習合の典型ですね。

 



「清水寺」「鞍馬寺」「広隆寺」「延暦寺」

 この4つは平安京が出来る前に創建された古寺ベスト4です。清水寺は778年、奈良興福寺系の子島寺(高取町)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)が、夢のお告げで現在地の音羽山で建立。当時この一帯には渡来人が多く住んでいたそうです。鞍馬寺は770年、唐招提寺でおなじみ鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)がやっぱり夢のお告げで鞍馬山に建立。この2つは南都(奈良)の僧が作ったんですね。

 広隆寺は603年に秦一族の秦河勝が聖徳太子から仏像を譲り受けて建立したといわれます(一説には622年の聖徳太子没年に供養のために建立されたという)。秦氏は歴史教科書でも習ったとおり、秦(中国)から朝鮮半島を経由して渡来した漢民族系の帰化人といわれ、今の太秦・嵐山あたりに住み着いて、養蚕、機織、酒造、治水など産業インフラを担った一族。酒造神・松尾大社は桂川の治水拠点として秦氏が建立したのです。

 延暦寺は788年に最澄が比叡山に建立。大津の坂本はもともと最澄の生まれ故郷で、唐に渡って修行して実家に戻ってきたって感じかな。広隆寺と延暦寺は同じ渡来系といえるわけですが、比叡山延暦寺の存在が際立ったのは、南都仏教からの❝独立❞を果たしたからです。

 当時、仏僧は国家資格であり「戒壇」という儀式が必要で、戒壇院は日本に3か所(奈良東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)しかありませんでした。天台宗を開いた最澄は独自に僧を育成するしくみを作ったものの、南都仏教派から猛反発を受け、最澄没後7日目に嵯峨天皇からお許しを得たとか。でもこれによって延暦寺はその後の日本仏教の総合研修大学みたいなポジションとなり、10~13世紀にかけ、良忍(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)等などお馴染みの宗祖を輩出しました。彼らはみ~んな延暦寺で修行したんですね。すごい!

  延暦寺戒壇院

 

 

「東寺」「神護寺」「禅林寺(永観堂)」「勧修寺」「仁和寺」「醍醐寺」

 平安時代になって仏教は国家公認となり、官寺=国立のお寺として作られたのが東寺。定額寺=天皇や権力者個人が私的に建てた寺が和気清麻呂の神護寺、清和天皇の禅林寺、醍醐天皇の勧修寺でした。その後個人から一族の寺へと定額寺を発展させたのが仁和寺、醍醐寺など。お寺を好き勝手に建てられないのは、当時、僧侶の人数や配置を国で決めていたため。今の医師免許と似ていますね。当時最高の学問を身に着け、心身の治療や癒しが出来るお坊さんって、お医者さんみたいな存在だったわけです。ちなみに京都ってたびたび戦火に見舞われていますが、創建当時とまったく同じ場所で現存しているのは東寺と神泉苑だけなんですって。

 

「顕密諸宗」

 平安末期~鎌倉時代以降、顕密諸宗といわれる南都六宗(オープンな宗派)&天台・真言八宗(密教派)が発展します。各宗寺院は「寺に土地を寄進すれば免税になるぞ」と呼びかけ、全国に荘園を拡大。なんでも今の新潟県は大半が東大寺の荘園だったそう。興福寺や延暦寺などは荘園が強力な経済基盤となって独自に武力を有し、幕府に対抗できるまでになりました。ちなみに源義経が頼朝の追手から逃れられたのもお寺がバックアップしてくれたから。弁慶のように僧兵が頭巾をかぶって顔を隠すのは「オレたちは神仏の使いだぞ」って威厳を示すためだそう。

 

「五山官寺」

 室町時代になると禅宗が興隆し、五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺/南禅寺)が顕密諸宗に並び立つ存在となります。戦国時代には本願寺教団・法華宗(日蓮宗)が力を持ち、応仁の乱や天文法華の乱(延暦寺と日蓮宗の宗教戦争)で京都が焼け野原になった後は、豊臣秀吉が今の京都の景観を創り上げました。復興工事で地面から大量に出土した石がお地蔵様に見立てられ、京都では地蔵盆が盛んになったとか。

 

「徳川幕府の教団再編」

 江戸時代、徳川政権は寺院の力を封じ込めるため、仏教の諸制度を確立させます。檀家制度、葬式の華美化、年忌法要、寺社参詣の大衆化、寺院御用書林=仏教専門書の出版事業など、現代仏教の基礎は徳川が創り上げたもの。檀家制度は戸籍の基となり、葬式や法要などの決まり事を細かく制定することでコミュニティの統制化をはかりました。

 

「神仏分離・廃仏毀釈、初詣ブーム」

 明治維新は前政権(徳川)を全否定することから始まりました。明治新政府が目指したのは神道の国教化。寺院は廃合となり、僧侶や修験者は還俗させられ、全国に廃仏毀釈の嵐が巻き起こりました。南都仏教の雄であった興福寺は僧侶全員が還俗させられ、五重塔が25円で売り飛ばされたというのは有名な話。その後再興したものの、寺にあるべき壁や塀がない。今の奈良公園のオープンな姿は、興福寺からしてみたら屈辱的なんだそうです。

 しかし神道の国教化は思うように進みません。神官は布教・宣教活動に不慣れだったため、説法慣れした僧侶の力を頼ることになり、結局、神道国教化は頓挫。修験道や陰陽道といった伝統的習俗は廃れていきましたが、仏教側も宗派別に大学を設立するなど新時代への適応をはかったのでした。

 

 ところで現代人が宗教を最も身近に感じる日と言えばお正月の初詣。これって実は明治中期に鉄道会社が仕掛けてメジャーになった習慣です。東海道線が開通したことによって川崎大師がアクセス至便となり、それまでの「恵方詣り」「21日の初大師」と差別化するため、「初詣」という言葉を創り出したんだそうです。京成や国鉄成田線が開通すると成田山新勝寺も人気初詣スポットとなり、鉄道会社が正月の参詣客を引っ張り込むため、あれこれサービス合戦を始めたとか。恵方巻やバレンタインデーもしかり、日本人は仕掛けに乗っかって、ちゃっかり習慣にしちゃう天才ですね(苦笑)。

 

 仏教が、神道と上手に融合し、廃仏毀釈の憂き目に遭っても生き残ったのは、得体の知れないパワーを洗脳するような宗教とは違い、ちゃんと「説明」できるロジックを持っていたからだろうと思います。仏教史をたどると、荘園で経済力を蓄えたり権力者にすり寄ったりして小賢しいと感じることもありますが、人間の行動原理にある意味忠実で、清濁併せ呑む懐の深さ(=したたかさ)も。泥の中でも花を咲かせる蓮の強靭さを見習いたいと思います。