杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その7)~ソグドの壁画とウルグベク天文台

2018-01-09 20:58:50 | 旅行記

 視察記その5で紹介したように、アフラシャブの丘は13世紀にモンゴル軍に破壊される以前、2000年近くサマルカンドの中心地として栄えていた場所です。今は荒涼とした砂と岩の台地ですが、アレキサンドロス大王の東征時代のコイン、ゾロアスター教の祭壇、7~8世紀にここを治めた王イシヒドの宮殿のものと思われるフレスコ壁画など数多くの出土品が発掘され、それらを収納展示するアフラシャブ歴史博物館があります。

 館内は300円程度の撮影代を払えば写真やビデオの撮影は自由といわれ、ビックリしましたが、最近はデジカメでもスマホでもフラッシュを必要としない高感度レンズが普及しているから問題ないのかな。


 まず感動したのが、宮殿の王座の間を再現したレイアウトで展示されたフレスコ壁画。イシヒド王へ嫁ぐチャンガニアン知事の娘の花嫁行列を描いたもので、行列の先頭には白象に乗った花嫁(破損していて白象しかわからないけど)、その後にラクダと馬に乗った従者が続きます。真ん中のラクダの従者2人は顔の色が違うけどソグド人の典型とか。

 一方の面には船に乗った中国人風の女性など海の交易の様子が描かれています。内陸の国なのに面白いですね。

 

 最も興味を引いたのはゾロアスター教の祭壇。風葬や鳥葬なんですね。ゾロアスター教は善と悪の二元論を唱えた世界最古の一神教。最高位の善神アフラ・マズダーが人間の肉体を保護しているのだから、清浄な死者の肉体に不浄をもたらさないよう、自然に委ねる(=風葬や鳥葬)という教えです。高温多湿な気候で、山川草木に八百万の神が宿ると考える日本では生まれてこない教えだろうと思いました。

 19世紀にはじまった発掘調査は現在も進行中。私たちが帰国した後、サマルカンドの東南約30キロにある王の離宮カフィル・カラ城遺跡で、奈良帝塚山大学等の調査団が世界で初めてゾロアスター教関連の板絵を完全な状態で発掘したと新聞記事で知りました。最上段に女神、下段に弦楽器や琵琶を奏でる楽隊が彫られ、奈良正倉院には似たような楽器が伝わっているとか。シルクロードは本当にサマルカンドと奈良をつなげていたんだな、と強く実感できました。

 平成29年11月3日(金)静岡新聞朝刊

 

 アフラシャブの北東にあるチュパン・アタの丘には、ティムールの孫で天文学者ミルゾ・ウルグベク(1394~1449)が作ったウルグベク天文台跡があり、15世紀に造られた天文台の基礎と、半径40.2m、弧長約63mという巨大な六分儀の遺構が見学できます。ウルグベクは仲間の天文学者とともに、ここで恒星年(一年の長さ)を365日6時間10分8秒と計算。今の精密機器の計算では365日6時間10分9.6秒。つまり、望遠鏡もない時代に約2秒しか違わないという驚きの成果を上げたのです。彼らはまた地球の赤道傾斜角を23.52度と計算。コペルニクスの計算を凌駕し、現在に至るまで最も正確な値とされています。

 ウルグベクは優れた天文学者であると同時に、歴史学や芸術にも造詣が深く、サマルカンドに数多くのモスク(寺院)やメドレセ(神学校)を建設。一族が眠るアミール・ティムール廟も再建しました。しかし科学を敵視するイスラム教の指導者たちがウルグベクの息子たちをそそのかして父親に刺客を差し向けさせ、彼は55歳で非業の死をとげます。天文台もその直後に破壊されてしまいましたが、サマルカンドの天文学は脈々と継承され、コンスタンティノープルに逃れた弟子たちが天文表ジドジュを守り、17世紀半ばにヨーロッパへ伝わってオックスフォード大学で出版されました。20世紀初頭には考古学者のV.ヴィヤトキンによって天文台の遺構が発見され、ウルグベクの功績に再び光が照らされたのでした。

 1941年にはソ連の学術調査団がアミール・ティムール廟の墓を調査し、遺骨の状態からティムールが足に障害を持っていたこと、ウルグベクが斬首されたことが判明しました。

 これはビビハニム・モスクの路上画家から購入した絵葉書サイズの細密画。誰を描いたのか教えてもらいませんでしたが、どうみてもウルグベクさんですよね。彼の100年後に登場したガリレオでさえ宗教裁判にかけられたのですから、やっぱり生まれる時代が早かったのかな。

 今年のお正月に私の愛読書であるみなもと太郎の歴史ギャグ漫画『風雲児たち』がドラマ化されましたが、風雲児たち海外編があればぜひ登場していただきたい!と思える人物です。(つづく)


 


ウズベキスタン視察記(その6)~自動車工場と紙すき工房を訪ねる

2018-01-09 10:00:10 | 旅行記

 ウズベキスタン4日目の10月16日は、伊藤忠といすゞ自動車が現地企業に出資した合弁会社サムオートを訪問し、生産部門責任者のアリフジャノフ氏に案内していただきました。

 サムオートはサマルカンド郊外にある敷地15万5620㎡、建屋3万7000㎡の大型自動車製造組み立て工場で、年間4000~5000台のバス&トラックを生産しています。設立した2007年当時はバス70%にトラック30%という生産比率だったのが、10年経た2017年にはバス30%・トラック70%と逆転。バスは56人乗りの低床都市型バスで、エンジンはいすゞ製。タシケントやサマルカンド市内で見かけた乗り合いバスは、100%サムオートの名前がクレジットされていました。

 この10年で生産量が激増したトラックは30車種以上を手掛け、中にはタンクローリー、救急車、ゴミ収集車のような特殊車両も含まれます。中央アジアは真夏には気温が50℃近くになり、アラル海近隣では塩害も。車輛には、日本とは違うレベルの耐久性が求められます。工場では原料の鉄はロシアから、機械はおもにドイツやイタリアから輸入し、トヨタのカイゼン方式もしっかり導入。社員は日本で研修を受けてコストダウンや職務改善の重要性を学び、生産部門のみならず事務スタッフにも徹底させたそうです。

 原料素材も本来ならば日本製がベターですが、輸入コストがかかり過ぎるため、安価で品質も安定しているロシアや最近ではスウェーデンからも導入。完成品はロシア、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン等の近隣諸国をはじめ、トルコ、グルジア、アゼルバイジャン、アフリカ等へも輸出されています。ロシアでは今はまだディーゼル車のニーズが高いそうですが、今後は天然ガス車も有望になるようです。

 事務棟の玄関には小さな日本庭園がしつらえてあり、工場内は日本の生産方式を遵守し、整理整頓が行き届いていました。流ちょうな日本語をあやつる若手通訳のファルモンさんは、日本語弁論大会で優勝したそう。前回記事で紹介したサマルカンドの複雑な歴史を顧みると、日本のやり方をよく受け入れてくれたと思います。まさにこの国が2000年以上にわたって異文化を柔軟に吸収し、折り合いをつけ、今は国自体が若く、伸びしろが非常に大きいという証拠を目の前で実感できました。

 

 午後は時空をぐ~んと遡るように、かつてサマルカンドの町が栄えたアフラシャブの丘周辺を観光しました。

コンギルメロス紙すき工房は、751年、この地に連行された唐の捕虜から伝わった紙すき技術の伝統を伝える水車小屋。19世紀半ば、紙すきの伝統はいったん途絶えたものの、1998年にこの工房が建てられ、1基だけですが昔ながらの紙漉き水車が稼働しています。

 昔、和紙の紙漉きを取材したことがあり、作り方は基本的に同じだと思いましたが、サマルカンドペーパーは養蚕に使う桑の木を原料にしていたことからシルクのような美しい光沢を持ち、細かい文字や細密画、印刷等にも最適と高く評価されているそうです。

 中央アジア随一の紙産地となったサマルカンドからはペルシャ、アフリカ、ヨーロッパへと製紙法が伝わり、シルクロードならぬ「ペーパーロード」が築かれました。事前に友人から『ペルシャ細密画の世界を歩く』(浅原昌明著)という新書を借りて読んでいたので、お土産用に細密画が印刷されたサマルカンドペーパーを購入しました。

 ペルシャ細密画は、手書きで写した書物に挿絵が入ったもので、ペルシャ3大美術(建築・工芸・写本芸術)の一つに数えられます。書は神の言葉コーランを伝えるものですから最高の芸術とされ、コーランのアラビア文字をより美しく写すことは神への善行とされました。挿絵は限られたスペースで書の意味を補完するため細密にならざるを得なくなり、それが芸術性を高め、13~14世紀には挿絵のレベルを超えた「細密画」として認知されました。

 自分用に購入したのがこれ。文字よりも挿絵の方が完全にメインになっていますから、元の絵はそんなに古くない時代のものだろうと思います。緑や青は砂漠の民ソグド人がゾロアスター教を布教させていた時代、聖なる色として珍重していたカラーだそうです。ソグド人の足跡、ほんのちょっとでも見つけられてよかった!

 イスラム教では偶像崇拝を禁じていたため、人間や動物を描く画家は書家よりも低い地位に置かれていましたが、モスクや廟といった宗教施設以外の場所=王宮内などではさかんに描かれました。一方、宗教施設では装飾芸術として人間や動物の代わりに幾何学模様、植物模様、文字文様などが発達したんですね。翌日訪ねた聖地シャーヒズィンダ廟群では、装飾アーティストが幾何学模様の制作実演を披露していました。

  自動車組み立て工場サムオートでは、ウズベク人の手先の器用さや真面目な仕事ぶりが印象的でしたが、その源泉は、ペルシャ美術に宿る「神の言葉をより正しく、より美しく、より分かりやすく伝える」という精神にあるように思えました。(つづく)