杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡県の葬のローカル・ルール③火葬のしきたり

2022-09-07 20:14:12 | 歴史

 今回は土葬と火葬のローカル・ルールをご紹介します。


 そもそも火葬は6世紀の仏教伝来とともに大陸から伝わり、天皇家や武家等の支配階級を中心に広がりましたが、庶民の火葬は伝染病等の罹患者に限られ、20世紀に入る頃まで庶民は埋葬方法は土葬でした。
 静岡県では、昭和50年代頃まで土葬の風習が残る地域があり、それぞれ地域性に応じたしきたりがありました。

 

〇熱海では埋葬地に目印となる石を置き、柱4本の小さな屋根を立てた。棺が腐って沈むまで2~3年そのままにし、石碑に建て替えた。

〇伊豆松崎では土葬が終わると草履を履き替え、「穴巡り」をし、その草鞋を残して帰った。

〇静岡周辺では少しでも遺体の腐敗を防ぐため、棺に茶の実や木炭を詰めた。

〇静岡や焼津の一部では、棺を穴に入れたら石を投げつける地域があったが、次第に土を掛けることに代わった。

〇本川根では、穴を掘ったら木の枝を2本、十字にして置き、そこから鎌の柄にヒモを付けて刃が上を向くように吊した。魔除けのカマキリといい、作業が終わったら酒を飲み、棺が到着するまでその場を離れない。

〇遠州では土葬をカマカキといい、濃い身内や隣家が務めた。一升瓶を必ず飲み干してから穴を掘る。

〇佐久間では六文銭として10円か20円を墓所に納めてから穴を掘る。棺を穴に入れるときは、穴底が近づくと一気に縄を放して地面に落とし、死者への未練を断ち切った。

 火葬が一般に浸透し始めたのは明治以降で、都市化の進展に伴い、火葬場の整備も進み、現在は火葬が99.6%となっています。
 昭和54(1979)発行の論文集『南中部の葬送・墓制』に、静岡県が昭和51・52年度に調査した〈土葬から火葬に切り替わった時期〉の記述があります。調査地域が限定されていますが、時代別に概ね次のとおり。

 

〇明治期/西伊豆町岩谷戸

〇大正初期/掛川市上垂木西側

〇大正中期/南伊豆町毛倉野、富士宮市下条

〇大正末~昭和初期前後/富士宮市杉田、富士川町木島室野、静岡市南沼上、藤枝市瀬戸谷塩本、中川根町地谷・家山塩本、豊田町立野長森

〇昭和10年前後/清水市宍原、金谷町菊川、竜洋町掛塚蟹町

〇昭和20年前後/天城湯ヶ島町柿の木・上船原、沼津市立保、長泉町元長窪、沼津市井出、蒲原町善福寺、清水市杉山・吉原庄可沢、静岡市俵峰・根古屋、島田市西向、菊川町牛渕長者原、春野町石切、森町大河内・亀久保、袋井市豊沢法多、豊岡村敷地虫生、細江町気賀呉石

〇昭和35年前後/東伊豆町北川、修善寺町本立野、中伊豆町原保、西伊豆町田子月東、富士宮市内野足形、静岡市有東木・栃沢・水見色、本川根町藤川、佐久間町川上、磐田市匂坂中

〇昭和50年代/天城湯ヶ島町西平、戸田村井田、静岡市口仙俣・大間、岡部町三輪

 

 初期の火葬は葬儀と葬列が終わった後、夕方から夜にかけて行いました。薪や藁を使っていたため、焼き上がるまでかなりの時間を要し、焼き方を均等にするため死体を動かす手間もかかったようです。
 夜間の長時間作業に付き添う身内のため、近親者や隣組の人々が酒や菓子を差し入れる習慣があり、静岡では「火屋見舞い」、焼津や旧大東町では「ノバ見舞い」、竜洋町では「サシビ見舞い」と呼んでいました。
 他、火葬にまつわるローカル・ルールをいくつか挙げます。

〇西伊豆の妻良では漁協の側に焼き場があり、俵薦(ムシロ)を20~30枚かけて焼いた。

〇西伊豆の仁科では安城山の近くに焼き場があり、漁協組合員が荷車3台分の薪を運んで組み合わせ、この中に棺を安置した。近くの御堂から僧侶を呼んで読経してもらい、夜中に点火し、朝までかかって焼いた。この間、組合員が3交替で立ち会った。

〇蒲原や清水では、火葬の骨上げをして帰宅した時、タライに死者の着物を入れ、足を3~4回突っ込む真似をしながら清めの塩を振った。

〇御前崎では、遠洋漁業者が多いため、主人の留守中に死者が出ると火葬しておき、主人の帰港後、葬儀を出していた。火葬は火持ちのよい柿や松の薪を使い、身内の者が焼いた。



 葬にまつわる縁起かつぎには、「清めの塩」や「友引の日を避ける」等、今でも色濃く残るものがあります。県下に残る珍しい伝承を集めてみました。

〇伊豆では四十九日まで死者の魂が家に留まっているとし、屋内では針を使わなかった。

〇伊東では葬儀後、喪家は21日間入浴を禁じられていた。

〇伊東の富戸では死者を出した家の作物の種は「死に種」と言われ、1年間もらわなかった。

〇天城湯ヶ島では四十九日まで鉱山の仕事を休んだ。

〇西伊豆田子でも四十九日まで漁に出ない。他地区でも最低1週間は休漁した。

〇由比でも葬式を出した漁師の家では1週間船を出さず、葬式の手伝いをした者も3日は休漁した。

〇シラス漁の網に死体が引っ掛かると「縁起がいい、大漁になる」といわれ、そのまま引いて港に戻った。沖で漁をするサクラエビの網ではなかなか引っ掛からない。

〇御前崎の遠洋漁業でも海で死体を見つけると大漁になるとされた。

〇遠州地方では、一年のうちに2人死ぬと、2度目の葬儀のとき、古い木槌か金槌にヒモを付けて埋葬地まで引っ張っていき、棺と一緒に埋めた。

〇お彼岸に亡くなると極楽に行くと歓迎され、お盆に死ぬと地獄に行くと嫌われた。そのため盆が明けるまで葬式を出さなかった。

 

 一般の死者とは異なり、非業の死を遂げた者や、子どもが親より早く亡くなる逆縁の場合、通常とは異なる葬法がとられました。

〇伊豆では子ども・未婚者が亡くなると、土葬した場所に「お天道様に当たらないように」とコモを被せた。死者の魂が荒ぶれないよう封印する意味とされる。

〇同じく大仁、修善寺、天城湯ヶ島では土葬の場所に鎌を立てた。

〇熱海、由比、静岡、焼津では、お産で母子ともに亡くなった場合「ヌノザラシ」を立てた。40~50センチ四方の白いサラシの布に母親の名前と年齢を書いて棒に付け、村を流れる小川の水場に立てる。竹の柄杓を置き、側を通る人に水をかけてもらい、字が消え、布がボロボロになったら成仏できるとされた。

〇沼津では水死者が上がった際、身元がわかれば髪の毛だけを葬り、わからなければ通常の野辺送りをし、無縁墓地に葬った。無縁仏を供養すると後生がよいとされ、盆や彼岸の供養も丁重に行った。

〇死産の子や生後間もなく死んだ子は、丁重に葬ると生まれ変わることができないとされ、葬式は出さなかった。親しい者が一人立ち会って僧侶に読経してもらうだけ。静岡ではこのとき他家の者が一人立ち会った。

〇遠州地方では子どもの埋葬のとき、母親の着物の左袖を切り取って顔に掛け、共同墓地に土葬した。親は埋葬に立ち会わない。後追い自死しようとする者もいたため。

〇共同墓地に埋葬された子どもに百日参りをした後、家の墓にお地蔵様を建てることが多かった。