杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

日本の葬のヒストリー&フォークロア②

2022-09-19 10:56:01 | 歴史

 日本の葬式の歴史を振り返っています。日本で最初に火葬されたのは女性天皇だったんですね。

 

火葬で送られた最初の天皇は持統・元明姉妹

 日本は7世紀、大化の改新を経て律令体制時代を迎えます。

 古墳時代を象徴していた大規模墳陵による「厚葬」は、大化の薄葬令(はくそうれい=646年発布)によって一変します。薄葬令とは、中国の儒教的徳治主義に倣い、葬送に莫大な財と労力を費やし民衆に過度な負担をかけてはならないというもので、墳陵は小型簡素化し、前方後円墳も造営されなくなりました。古墳時代の事実上の終焉です。

 この時期に、大陸から伝わったのが仏教です。

 釈迦は80歳で亡くなる前、修行を成し遂げた者の遺体は火葬し、遺骨と遺灰を仏舎利塔(ストゥーパ)に納め、花輪と香料を捧げて礼拝するよう言い残しました。

 ストゥーパは後に中国で「卒塔婆」の当て字が付き、日本で後に塔婆供養の習慣へと根付いていくのですが、当時、仏教を伝えた僧侶や、仏教を受け入れた天皇家、有力豪族など一部の支配階級は、火葬を積極的に導入しました。

 

 文献上、日本で最初に火葬されたのは文武4(700)年に仏僧の道昭、天皇家では大宝3(705)年に持統天皇だったとされ、持統天皇は「葬送はつとめて倹約せよ」と遺詔しています。その妹で、後に聖武天皇の祖母となる元明天皇は、さらに「人々に負担をかけぬよう、死後は山に簡単な竈を造って火葬し、そこに常葉の樹を植え、碑を建ててくれればよい」と厳命しました。日本の皇族で最初に火葬と葬儀のシンプル化=薄葬を選んだのが2人の女性天皇だったというのは興味深い史実です。

 

 行基が聖武天皇から大仏建立の指揮を命じられた8世紀半ば、日本は天然痘と思われる感染症パンデミックや天平大地震によって多くの人命を失い、行基は火葬や供養に奔走しました。

 平安時代の承和7(840)年に崩御した淳和天皇は、亡くなる前に「人は亡くなると精魂は天に還るが墓を造るとそこに鬼物が憑き、祟りをなす。したがって火葬し遺骨は砕いて山中にまき散らせ」と強烈な遺詔を発し、承和9(842)年に崩御した先代の嵯峨天皇も葬儀の俗事をことごとく廃止しました。この頃に薄葬のスタイルが定着したようです。

 火葬は当時、専用の施設がなく、その都度、火葬場を造営していたため、火葬で荼毘に付すことができたのは財力のある支配階級に限られていました。

 行基のような僧侶の手で火葬された庶民の被葬者はごく一部。大地震、感染症、飢餓等で大量の死者が出た場合、その多くは川や山中に遺棄されていたことが、『御伽草子』や『今昔物語』で描かれています。

 

浄土教の教え、禅宗の作法が〈葬儀〉を創り出した

 10世紀になり、葬儀スタイルは大きな変化を遂げます。

 当時、仏教寺院の多くは官制であり、僧侶も官の立場で国家の行事に従事していました。そのため、仏教の教義を都合良く解釈し、貴族の言いなりに呪詛や祈祷に力を入れるなど、いわば“貴族仏教化”に傾いていました。

 これに反発し、庶民の救済を志して国の許可を得ずに得度する私得僧や、大寺院に属さない名僧=聖(ひじり)が民間に入って伝道活動を始めます。「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも極楽往生できるという浄土教の教えを広めた空也上人、『往生要集』を著した恵心僧都源信、『日本往生娯楽記』を著した慶滋保胤等が、念仏による葬送と追善供養を広めました。葬儀は、仏教の教えを庶民に浸透させる有効な機会となったのです。

 12世紀初め、中国では禅の修行僧の日々の行法や規律をまとめた『禅苑清規』が編纂され、留学経験のある栄西禅師や道元禅師がこれをベースに日本に合った生活規範を構築します。この中に、今に伝わる茶道のしきたりや、仏教葬儀の原型がありました。

 禅苑清規に示された葬儀作法には、亡くなった僧侶とその弟子に弔意を示す〈尊宿喪儀法〉と、修行半ばで亡くなった僧を供養する〈亡僧喪儀法〉の2つあり、後者は、死者となった修行僧に読経し悟らせ、剃髪して戒名を授け、引導を渡して成仏させる没後作僧(もつごさそう)という作法に倣ったもの。後に浄土教や密教の念仏・往生祈願が融合発展し、在家の葬法=壇信徒喪儀法として確立しました。

 記録に残る貴族や武士の葬儀次第によると、

枕直し(北枕)→灯火→香焚き(消臭)→納棺→喪服(当日あつらえた素服)→出棺→葬列→葬儀所前で僧侶の儀礼→火葬→翌日拾骨、首骨から順に一人ひとり箸で挟んで順に送る

とあり、現在に近い葬送儀礼がすでに確立していたことがうかがえます。やがて、禅宗以外の宗派も、この喪儀法を導入していきました。

 

 

檀家制度の光と影

 仏教様式による葬送儀礼=葬式仏教は、17世紀の江戸時代に法制化されました。

 徳川幕府は各宗派の本山に末寺を管理させる本末制度を敷いて、寺院を幕藩体制に組み入れます。誰もがいずれかの寺の檀家となる寺請制度、必ずその寺で葬式をすることを義務付ける寺檀制度を確立。敷地内に火屋(火葬炉)を持つ寺も増えました。結果として、寺は住民の戸籍を管理する役所の機能を果たすことになり、地域社会の要と位置づけられました。

 明治維新後、政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動によって仏教寺院を取り巻く環境は一変します。明治政府は1971年、戸籍法を改正し、檀家制度は法的根拠を失います。1873年には、仏教の葬法であるという理由から火葬禁止令が発布。しかし影響の大きさから、2年後、火葬場と墓地を離すこと、市街地から距離を置き煙突を高くすること等を条件に、禁止令は撤廃されました。

 

 1897年の伝染病予防法制定を機に、自治体が火葬場の改修と新設を推進し始めると、火葬は徐々に増え、1900年の火葬率は29・2%、1909年には34・8%、1940年には過半数の55・7%に達しました。1980年には9割を超え(91・1%)、 現在は99・9%です。

 1898年に施行された民法は家制度を基調としたことから、火葬と家墓(イエハカ)がセットで普及し、寺院の檀家制度の下支えともなります。しかし1930年から始まった日中戦争とそれに続く太平洋戦争によって、寺院は再び苦境の時代を迎えます。

 1947年の民法改正で、家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続等における女性の地位向上等が改正され、家制度は事実上、憲法の人権規定が適用されない皇室のみに残ることとなり、檀家制度の大きな分岐点ともなりました。

 戦後の農地解放によって、寺院が保有していた小作地は取り上げられ、檀家総代として寺院を経済的に支えていた地主層も力を失います。寺院では兼職や保育施設の経営等で収入確保に努めますが、現在は人口減少という不可抗力によって檀家の減少を食い止めることはできなくなっています。

「寺は高い戒名料を取って儲けている」という声を聞くことがありますが、ひとつは、戦時中、軍部が仏教界へ戦死者に院号を授与するよう働きかけていたことを起因に、戒名料が一つの財政基盤となったと考えられます。院号は戦後、多額の布施をした檀家に授けるものとなり、高度経済成長期やバブル時代は一種のステイタスともなりましたが、そのニーズも今は薄れつつあるようです。

 現在、日本の葬儀と埋葬は、葬祭専業者を中心に成り立っており、時代の潮流とともに多種多様な形式・サービスを生み出しています。

 

〈参考文献〉

日本人の葬儀/新谷尚紀著 紀伊國屋書店 1992年

葬と供養/五来重著 東方出版(新装版)2013年

お墓の教科書/一般社団法人日本石材産業協会編・発行 2014年

捨てられる宗教/島田裕巳著 SBクリエイティブ 2020年

生物はなぜ死ぬのか/小林武彦著 講談社現代新書 2021年