私は家族や親戚にお寺の関係者がいるわけでもないのに、なぜか物心着くころからお寺が好きで、このブログでも再三触れているようにお寺さんとは様々なご縁が出来ました。好きなものを好きだ好きだと言い続けていると、不思議なことに次から次へとご縁ができるみたいで、年明け早々、静岡市内の某寺院のホームページを作る仕事をいただきました。目下、酒蔵取材の合間に図書館で資料を読み漁り、今まで知らなかった“駿府の仏教宗派勢力図”みたいなのがわかってワクワクしています。
静岡市内の仏教寺院でダントツに多いのが曹洞宗。次いで臨済宗。いずれも禅宗一派です。今までは漠然と、家康公のお膝元だからなあと思っていましたが、別に徳川家が禅宗オシしてたわけではないようで、大御所時代、家康は仏教全宗派のトップを駿府に集め、「各宗派で寺院や僧を統制するように」と命じたんですね。これが、本山末寺制度の始まり。信長や秀吉が比叡山の僧兵や浄土真宗の一向一揆等に苦労したのを反面教師にして、有力寺院に「大本山」のお墨付きを与え、宗門をコントロールさせた。このピラミッド方式が、今のお寺と檀家さんの関係につながっているわけです。
なんで静岡で禅宗が多いんだろう? いつから禅宗のお寺が増えたんだろう?と調べてみると、面白いことがわかりました。その前に仏教の主要13宗を整理してみると、古い順に、
法相宗(奈良時代) 宗祖/道昭 本山/興福寺、薬師寺 代表寺院/法隆寺
華厳宗(奈良時代) 宗祖/良弁 本山/東大寺 代表寺院/新薬師寺
律宗(奈良時代) 宗祖/鑑真 本山/唐招提寺 代表寺院/西大寺
天台宗(平安時代) 宗祖/最澄 本山/延暦寺 代表寺院/輪王寺、三千院
真言宗(平安時代) 宗祖/空海 本山/金剛峰寺 代表寺院/智積院、長谷寺
融通念仏宗(鎌倉時代) 宗祖/良忍 本山/大念仏寺 代表寺院/来迎院
浄土宗(鎌倉時代) 宗祖/法然 本山/知恩院 代表寺院/増上寺、光明寺
浄土真宗(鎌倉時代) 宗祖/親鸞 本山/西本願寺、東本願寺 代表寺院/高田専修寺、仏光寺
臨済宗(鎌倉時代) 宗祖/栄西 本山/妙心寺 代表寺院/南禅寺、相国寺
曹洞宗(鎌倉時代) 宗祖/道元 本山/永平寺、総持寺 代表寺院/大乗寺、妙厳寺
日蓮宗(鎌倉時代) 宗祖/日蓮 本山/久遠寺 代表寺院/本門寺
時宗(鎌倉時代) 宗祖/一遍 本山/清浄光寺 代表寺院/無量光寺
黄檗宗(江戸時代) 宗祖/隠元 本山/萬福寺 代表寺院/崇福寺
駿河の国というのはもともと天台宗や真言宗の力が強かったようで、今の久能山東照宮の場所にあった久能寺は大小150余りの伽藍を有する天台宗の大寺院。また建穂寺(たきょうじ)は“駿河の高野山”と呼ばれるほどの真言密教の大寺院で、この2寺が駿河の宗教地図を二分していたそうです。
駿河生まれの名僧といえば、なんといっても静岡の茶祖・聖一国師(1202~1280)。藁科川上流の栃沢出身です。聖一国師は幼い頃、久能寺で天台宗の教えを学びました。さらに井宮出身の大応国師(1235~1308)。幼い頃、建穂寺で真言宗の教えを学んだそうです。このお2人はご承知の通り、その後、臨済宗―日本の禅宗を代表する高僧となりました。江戸期以降の本山末寺制度がなかったこの頃は、いろんな宗派を自由にハシゴ修行できたんですね。
お寺はもともと一つの氏族がスポンサーになり、高僧を招いて開山とし、一族の慰霊や繁栄を祈願する、というパターンで増えてきました。学問的要素の強かった奈良仏教系、現世利益を求め貴族階級に支持された密教系、そして日本独自の発展を遂げた鎌倉仏教のうち、念仏系の浄土宗派は民衆に、坐禅を旨とする禅宗派は武家階級に広まりました。
今川氏初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。その範国は清水の真珠院(一説には遠江見附の正光寺)に、二代範氏は島田の慶寿寺、三代泰範は藤枝の長慶寺と、代々個別に埋葬されました。今川氏クラスの名家ともなると、一族一寺ではなく、一代一寺の香華院(=菩提を弔う寺院)を築く力があったんですね。
今川氏は10代、230年に亘って駿河遠江を治め、香華院は10ヶ寺。しかし大半は廃寺となってしまい、現在残っているのは七代氏親が眠る増善寺と、八代氏輝の臨済寺のみ。慈悲尾にある増善寺は法相宗の宗祖道昭が681年に開いたという名刹で、法相宗→真言宗と変遷し、氏親が曹洞宗に改宗させました。彼は幼いときに父義忠を亡くし、家督争いに敗れて焼津の法永長者に匿われた。法永が榛原に創建された曹洞宗石雲院の賢仲和尚に帰依しており、氏親は石雲院の支援を受けて家督を奪取。これがきっかけで曹洞宗が勢力を広げたようです。
氏親の葬儀は戦国時代でも例を見ない大規模な葬儀で、「葬儀記」という記録まで残っているほど。以前、葬送の歴史について調べた内容を思い返し、戦国大名が葬祭の意味合いを大きく変えていったんだろうか…とふと思いました。
臨済寺は氏輝自ら建立し、京都妙心寺から大休和尚を開山に迎えました。大休和尚は後奈良天皇と師弟関係にあったことから、「勅東海最初禅林」のお墨付きをもらい、ともに大岩にあった五代範忠が眠る宝処寺、六代義忠の長保寺、九代義元の天沢寺を吸収合併し、磐石な勢力を築きました。
ちなみに、臨済寺の28代倉内大閑老師は昭和61年から平成3年まで臨済宗妙心寺派655世管長を、また羽鳥にある曹洞宗洞慶院の丹羽蓮芳老師は昭和60年から平成5年まで永平寺77世貫首を務められました。同時期に禅宗2大宗派のトップを輩出したなんて、聖一国師&大応国師以来、駿府静岡が脈々と繋いだ禅宗法系の底力を感じさせてくれます。
イスラム国の邦人殺害予告のニュースを観るにつけ、宗教を利用する支配者、支配者が求める宗教について考えさせられます。日本でも、家康が天下泰平を築くまで、仏教宗派は戦国武将に呼応するように勢力地図を塗り替えてきました。家康が確立させた本山末寺制度というのは、今の檀家制度の基盤になったと考えると堅苦しく思えますが、寺が同一宗派で組織的に機能し、各地域の末寺が区役所や掛かりつけ医や生涯学習センターのような役割を果たしていたことを考えると、徳川時代は社会の中で宗教がうまく潤滑していた時代だったのではないでしょうか。
維新後、明治政府は徳川時代の制度をすべてひっくり返すべく廃仏毀釈を進めた。同時に欧米からいろんな宗教や価値観が入ってきたことで、せっかく仏教によっておだやかにまとまっていた日本人の宗教観まで混乱してしまいました。今の日本人が宗教に無頓着でチャンポンだ、なんて揶揄されてしまう遠因もそこにあるような気がします。
ふるさと駿河が培ってきた宗教観について、もっとちゃんと勉強していきたいと思っています。