私は茶道や華道といったお稽古事の経験がまったくなく、歴史やら伝統やらを識者ぶって論じながら、和の基本的な所作や教養がまったく身に着いていないのが、ずーっとコンプレックスでした。論じるだけ、と、身に着いている、じゃぁ雲泥の差。坐禅をするようになって和尚さんから猫背をひどく注意され、初めて自分ってそんなに姿勢が悪かったんだと気づいた始末です。
4年前、静岡県ニュービジネス協議会の研究部会として茶道に学ぶ経営哲学研究会という会をつくったところ、協議会会員(経営者や管理職)をはじめ、私の酒友やその家族友人等から思った以上に「私も和のマナーを勉強したい」「昔やってた茶道を復習したい」「作法の意味をちゃんと勉強したい」という声が集まり、3年半、充実した活動を続けることができました。そして今月からは会員有志による手弁当の勉強会『駿河茶禅の会』をスタート。22日に第1回例会を行ないました。
初回のテーマは「私の好きな禅語」。いわゆるお稽古事の茶道教室で禅語を学ぶ機会はほとんどないそうですが、茶室の床の間には徳の高い僧が書いた禅語が掛け軸として飾られます。茶の湯は禅の教えをベースにした、禅の修行の一環、と考えれば、茶室に入室し、まず掛け軸に礼をする、という所作の意味がナットクできるわけですね。昨今、茶道の家元が書いたものや日本画を飾るケースが増えてきたそうですが、禅僧の墨書を掛けるのが基本中の基本。亭主がだれのどの禅語を選んで飾ったかが、その茶事の大きなテーマとなります。そんな大事なことなのに、茶道教室でなぜ禅語を勉強しないのか門外漢には不思議です・・・。
3年半の研究会では、講師の先生からさまざまな禅語を教えていただきましたが、「駿河茶禅の会」は学習意欲のある仲間が手弁当で始めた勉強会ですから、初回は自己紹介がてら、自分のお気に入りの禅語を持ち寄っていただきました。お馴染みの熟語から初見の熟語までいろいろ集まり、なぜお気に入りなのかをうかがううちに、その人の経験や現在の心境が伝わってくる気がして、相互理解にもつながる充実した学び合いとなりました。
以下に無記名で紹介します。参加者のみなさん、ありがとうございました!
「遊戯三昧」
■作者/無門彗開 ■出典/無門関
■「遊戯」とは、「ゆうぎ」とは読まないで「ゆけ」と読みます。意味は、悟りの境地に徹して、それを喜び楽しむこと。「三昧」は、「サマーディ」の音訳です。何か対象が決まっていて、それと自分とが全く「ひとつ」になること。勉強するなら勉強に、絵を描くなら描くことに、全く「ひとつ」になって余念がないこと。一旦こうと決めて生き始めたらからには、人から褒められようと、くさされようと、罵られようと、一向に意に介さず生きていくこと。我を忘れて無心に遊んでみないか、仕事も趣味も生活でなすことも、さらには人生の運不運も、全て遊び心で生きることがすばらしい。
■「ワークライフバランス」や「仕事とプライベートの両立」だけでは解決できないことを解決する糸口が「遊戯三昧」という言葉の中にあると思います。いまは、ちょうど就職活動の季節。面接では学生からもそれらの言葉が聞かれますが、若い人にこそ、楽しいことをするのではなく、することを楽しむことの大切さを知って欲しいと思います。
「日々是好日」
■作者/雲門禅師 ■出典/雲門広録
■多くの人は「今日もよい一日でありますように」と願い、無事を願う。が、現実はその願いどおりにはいかないので、様々な事象があってもこの日は二度とない一日であり、かけがえの無い一時であり、一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、それが日々是好日となる。それは自らの生き方を日々坐して待つのではなく、主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの言葉の真意がある。以前教えていただいた「話尽山雲海月情」と似た言葉かなと思いました。
■どのような日でも毎日は新鮮で最高に良い日だという意味。「 雨の日も風の日も、その時の感情や状態を大いに味わって過ごせば、かけがえのない日になる」。
「柳緑花紅」
■作者/蘇東坡 ■出典/東坡禅喜集より「柳緑花紅真面目」
「あるがまま」をシンプルに表現した禅の言葉。柳は緑色、花は紅色をしているように、自然はいつもあるがままの美しい姿をしていることから、禅宗では、悟りの心境を表す句。あるがままのものが、あるがままに見えてくるまでには、苦しい道程を経なければならないが、悟ったからといって特別に変わったということもなく、悟らぬ前も“花は紅”であり、悟った後も“柳は緑”であると。
※一休禅師「見るほどにみなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅」
※沢庵禅師「色即是空 空即是色 柳は緑 花は紅 水の面に 夜な夜な月は 通へども 心もとどめず 影も残さず」
「随喜功徳」
■作者/釈迦 ■出典/妙法蓮華経・随喜功徳品第十八
人の幸せや喜びを妬むのではなく、共に喜ぶことが功徳になるという仏教語。「随喜」とは仏法を聴く事で喜びを得ること。または、人の幸せや喜びを共に共感すること。
「一」
字面ではただの「一」で、禅語との定義は憚りますが、「万法帰一」(碧巌録)をはじめ、「一華開五葉」(達磨の偈)など成句として多数あります。また茶道の稽古科目として、「一二三之式」という名称の点前もありますし、「稽古とは一より習ひ十を知り、十よりかへるもとのその一」とは言わずもがなの道歌で、茶には縁の深い語であります。三十年以上も昔に、松堂老師に染筆頂いた「一」の掛軸は人生の節目節目に掲げ、肝に銘じて参りました。
「花無心招蝶 蝶無心尋花」
■作者/老子 ■出典/道徳経
良寛の詩で知りました。春になれば、蝶が花を求め飛んできます。誰に決められることもなく二つのものが自然にむすばれる大自然の法則そのものがすばらしく思え、また、きれいな漢字が使われている好きな言葉です。仏教でいう「因縁」という奥深い意味もあり、なるほどと思います。
「照見脚下」「脚下照顧」
足元を見よ、とは、自分の本性を見なさいという教えだという。もとより私は自分を顧みて反省するようなタイプではないが、この言葉には共感できるところがある。昔から私はその日着るものを靴から決める。雨降りか否かのコンディションに加え、フォーマルかカジュアルかの違いも靴がいちばん明確だからだ。何を着て行こうと考えるといつまでも決まらないのに、靴が決まると頭のテッペンの帽子やウイグの型まで即座に決まってしまう。だから足は自分の芯だと、ずっと感じてきた。日本人の美意識の芯も白足袋にあると思う。地面と接しているもっとも汚れやすい部分に真っ白な足袋を履かせる。その徹底した清潔感こそが日本人らしさではないだろうか。しかし、このところ自分の足元が危うくて悲しい。酔っ払って転げることもしばしば。それも、年を取った自分に気付きなさいーと芯が警告してくれているということだろうか。
「随処作主」
■作者/臨済義玄 ■出典/臨済録
自分の主体性を持って取り組むことが大切。たとえ、辛い時や理不尽なことがあっても一生懸命行動し努力していれば、道は開けるという意味です。他人や外部のせいにしないよう戒められます。
「無事」
■作者/臨済義玄 ■出典/臨済録「無事是貴人」
「主人公」
■作者/瑞巌和尚 ■出典/無門関十二則「瑞巌主人公」
自宅で年中掛けている私のお気に入りテーマ2つです。「無事」は家に帰って、中に入ると目に入る場所。友人が書いてくれた書で、心を落ち着かせてくれます。「主人公」は茶室もどき部屋の、床の間に掛け、自分を確認し、自分を見つめる場にしています。
「行雲流水」
■出典/『宋史』蘇軾伝
好きな言葉としてあげた理由は三つあります。一つめはこの言葉の語源にあります。語源は文章の書き方について中国の昔の文豪が言った言葉だそうですが、その意味に惹かれ、自分の仕事の目標にしています。書けば書くほど、不自然に凝り固まっていく自分の在りようを、「行雲流水」という言葉が和らげてくれるように思ったのです。
二つめは、若い頃、川釣りをされる人に「川っていうのは人生のようなもんですよ。流れがあって、淀がある」というようなことを教えていただき、とても感銘を受け、私も今起きていることに逆らうのではなく、身を任せて受けいれることで、今日の日を大切に、楽しんで生きられるのではないか?と思うようになりました。その心持を言葉にすれば、やっぱり「行雲流水」なのかな、と。人生に於いても、人付き合いに於いても、去る者は追わず、来る者拒まずをモットーに、自然体でいたいと思っています。
三つめは、富士の麓で広い空と豊かな川に恵まれて育ったため、雲を眺めることや、川辺、海辺が大好きなことです。「行雲流水」の文字を見ているだけで、私にはいろんな表情の富士川や、富士山にかかる、刻々と変わる雲が思い出されます。
「一期一会」
■作者/千利休
『山上宗二記』の中の「茶湯者覚悟十躰」に、利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、主ヲ敬ヒ畏(かしこま)ルベシ」という一文があります。さらに江戸時代末期、大老井伊直弼が茶道の一番の心得として、著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」と表現したことにより四字熟語の形で広まったようです。私は、“過去は変えられないが、未来は自分が創れる”を信条に、過ぎたことは振り返らず、今を大事に取捨選択して行動して来ました。ただし、過去があって未来があることは理解しています。
最後に私が挙げたのは、このブログでも再三紹介している、白隠さんの「動中工夫勝静中百千億倍」と、大乗涅槃経にある「自未得度先度他」。「動中」は日常生活の一切の行動。日頃の動作で、静中(坐禅)のときと同じように正念相続(=正しい信念を持ち続けること)するほうが何倍も勝る。私の座右の銘です。
「自未得度先度他」は自分の得より他人の得、という利他精神を説いたものと言われますが、自分はまだ悟りに達してはいない未熟者だけど懸命に修行し続けていると、他者のためになることもある、と解釈しています。酒の会もこの会も、自分は修行中の身で、会を運営できるような立場ではありませんが、自分の修行になると思ってお声かけをしたらこんなに集まってくださった。みなさんに共鳴していただけた・・・と驚き、嬉しく、感謝しているところです。
こうして並べてみると、「遊戯三昧」「一」「随所作主」「主人公」「一期一会」「動中工夫勝静中百千億倍」あたりは、変化を前にして、自分を鍛えよう、自己改革しようと意を決する人が選んだ言葉なのかなあと思えてきます。一方で「柳緑花紅」「花無心招蝶 蝶無心尋花」「行雲流水」あたりを選んだ人は、すでに何か大きな変化の中にあって己を見失わないよう心落ち着けようとしているのかなあと。
・・・そう考えると、茶席の亭主は、その日に招いた客の経歴や今の心境を慮って言葉を用意するわけです。これは大変奥深い、おもてなしの極致。流行語のOMOTENASHI、とは次元が違うようです。
ちなみに「一期一会」は、英語で「one meeting, one chance」と直訳されることが多いそうですが、禅語の精神を正しく伝えるならは「once in a-life-time meeitng」となるそうです。英訳することで言葉の真意が顕在化することもある・・・禅語って面白いですね、ホント。