杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

聚光院伊東別院訪問

2020-09-01 10:39:35 | 駿河茶禅の会

 9月の声を聴き、「コロナ」「猛暑」に先んじて、「台風」がニュースの冒頭を飾るようになりました。立秋を過ぎてから蒸し暑さが本格化するなど、季節の巡りが迷走しっぱなしの今年、台風シーズンがいつまで続くのか、秋はちゃんと来るのか心配は尽きません。

 そんな中、8月30日(日)に駿河茶禅の会で聚光院伊東別院を訪問しました。今年の初めに同院を取材し、小野澤虎洞和尚に茶禅の心得を直接うかがう機会に恵まれた私は、駿河茶禅の会のお仲間をぜひお連れしたいと企画。コロナの影響で紆余曲折ありましたが、院を預かる東谷宗弘和尚の細部に亘るご配慮のおかげで、無事、拝観と坐禅体験をさせていただくことができました。

 宗弘和尚とは不思議なご縁がありました。私自身は、伊豆高原のアート情報誌『iS』の取材で今年1月21日に同院を訪問したのが最初ですが、奇遇にも、今年の正月、駿河茶禅の会の望月座長が個人的に同院を拝観しており、私が取材した翌日22日の茶禅の会初釜例会で、望月座長が駿府城公園紅葉山庭園茶室に虎洞和尚が揮毫した禅語『千里同風』を掛けられたのです。「私、昨日、伊東別院に取材に行ってきたんですよ」と話したら、座長も驚かれ、会でぜひ訪問しましょうという話になりました。

 8月30日にはふだん禅道をご指導いただく東壽院の曦(あさひ)宗温和尚も参加されたのですが、宗弘和尚から「曦さんは京都の修行時代にご指導いただいた恩人です」とうかがい、二度ビックリ。さらに、昨年秋の博多茶禅研修でお世話になった承天寺塔頭乳峰寺の平兮正道和尚とも修行時代にご縁があったとのこと。この世に禅宗の僧侶が何人いらっしゃるのかわかりませんが、そんなに狭い世界なのか??とビックリ続きでした。

 

 コロナ禍によって人との出会いや接触が制限されるようになり、人脈づくりが仕事上の生命線にもなっている我が身としては、ソーシャルディスタンスの取り方に戸惑いや息苦しさを感じていた、そんな中、マスクを付け、冷房が効かない坐禅堂で足を組まさせてもらい、じんわり汗をかいた後に千住博さんの滝の襖絵を見直したとき、何か腑に落ちる感覚がありました。制約があるから気づける、見えてくる価値があるのだと。

 “千里同風” を地で行く場で、多くの仲間と共有できた時間に心から感謝します。

 

『iS』は伊豆高原でブックカフェ〈壺中天の本と珈琲〉を経営されているたてのしげきさんが発行するアート情報誌。写真や挿絵が素晴らしく、作家やエッセイストが寄稿する珠玉の文章も光っています。発行編集人のたてのさんご自身、マスコミのご出身で鋭い審美眼の持ち主。編集者の田邊詩野さんは静岡新聞社で私の『杯が満ちるまで』を作ってくれたスペシャリストで、彼女が書き下ろした貴重なルポやエッセイも素晴らしい。観光ガイド本とは一線を画す、読み応え十分の一冊です。お求め・お問合せは壺中天の本と珈琲(こちら)まで。

 以下、『iS』第4号に寄稿した記事の草稿を紹介させていただきます。荒削りで理屈っぽくて編集長から却下された草稿💦ですが、それなりに思いを込めて書いた原稿なので、備忘録として掲載します。

 

 

茶禅の世界へ誘う風 ―聚光院伊東別院

 

 聚光院は京都大徳寺の山内にある塔頭の一つで、茶道の千利休一族の菩提寺として知られる。

 千利休(1522~1591)は大徳寺第107世笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)和尚に禅を学び、笑嶺和尚が三好義継に請われて聚光院を開いたとき、多額の浄財を喜捨。自刃する2年前に仏塔形の墓を建て、自分と妻の名を彫り込んで寄進状を添え、一族の供養とした。三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)が交替で毎年28日に行う利休忌法要と茶会は、今も連綿と続いている。

 美術ファンならご存知だと思うが、聚光院方丈の襖絵「竹虎遊猿図」「花鳥図」等は狩野松栄・永徳親子が描いた日本画史上最高傑作のひとつ(国宝)。1974年に東京国立博物館がモナリザ展を開いた際、返礼としてルーブル美術館に貸し出された。

 通常非公開の聚光院が創建450年記念で特別公開された2017年5月、私は主宰する『駿河茶禅の会』の仲間と訪問し、保管先の京都国立博物館から里帰りした国宝の方丈襖絵と、2013年落慶の新書院の襖を彩る千住博画伯の、真青と純白のコントラスト鮮やかな「滝」を拝見した。千住画伯は、狩野永徳と並べて観られる作品を生み出す苦闘の中、「宇宙から見た地球の青=さすがの永徳も見たことのない色」に到達したという。

 宇宙、と聞いて脳裏に浮かんだのは禅画の円相。一筆でマルを描いたあれだ。

 2013年に渋谷のミュージアムで観た白隠禅師の円相には、〈十方無虚空、大地無寸土〉という画賛が添えられていた。「虚空もなければ大地もない。ただ清浄円明なる大円鏡の光が輝いている」という意味。これは、考えようによっては、量子論を取り入れた宇宙物理学―「宇宙の始まりは“無”だった」「宇宙が誕生する瞬間、“虚数時間”が流れた」「それによって宇宙の“卵”が大きくなり、急膨張した」「高温・高速度の火の玉状態(ビッグバン)を経て恒星や銀河が出来た」を表現しているようにも思える。

 後日聴講した科学者と禅学者のディスカッションによると、「科学の力で観測・実証できたとしても、人間自身が認識するものである以上、宇宙はイコール自己とも言える」という。武藤義一氏の『科学と仏教』には「釈尊は宇宙の創造神を認めず、内観によって自己を知り、智的直観によって宇宙や人生の全てを成り立たせる法を悟った」とある。「科学はwhat に答えるもので、仏教はhowに答えるもの」とも。となると、“己の認識の絶対矛盾をつきつめよ”という釈尊の法を科学者が実践してきた先に今日の宇宙物理学があるとも言える・・・。禅寺の障壁に宇宙を描いた画伯の“直観”に痺れたと同時に、500年後、宇宙の何処かに移住した人類が、里帰りした地球でこの絵を見て、あの「竹虎遊猿図」や「花鳥図」の熟成感に似たものを味わう姿を空想し、興奮を覚えた。

 

 iS第3号の巻頭特集―千住博「美と生命を語る」で紹介されたとおり、茶禅の聖地・聚光院の別院が、伊豆高原の富戸に1997年創建された。大徳寺塔頭では初めて、地方に置かれた別院である。

 創建のきっかけは聚光院前住職の小野澤寛海和尚が東京の篤志家より土地と建設費用を寄進されたこと。篤志家とは、福富太郎もボーイとして働いていたという浅草の伝説的キャバレー『現代』のオーナー岡崎重代氏。鳩山内閣の安藤正純文部大臣の秘書を務めた寛海和尚の伯父が常連客だったそうで、信心深く茶道の造詣も深い岡崎夫妻が「こういう商売をして儲けさせてもらっているから、何か社会に還元したい」と寺の寄進を申し出られたという。寛海和尚が聚光院住職となって2年目、1972年頃のことである。

 戦国武将が庇護する時代ならいざ知らず、寺の新設や経営が一筋縄ではいかない現代。何度か固辞をされた寛海和尚だったが、岡崎氏と共に浅草寺の総代理事を務めていた竹村吉左衛門氏(安田生命会長)の後押しもあって1977年頃から計画が動き出し、場所は富戸にある岡崎氏の所有地に、設計は日本を代表する建築家吉村順三氏に依頼することになった。皇居新宮殿の基本設計や奈良国立博物館新館の設計で名高い吉村氏も、寺院を手掛けるのは初めて。氏は残念ながら完成の直前に亡くなり、吉村設計の最初で最後の寺となった。

 岡崎氏の発案から四半世紀の時を経て、1998年3月に落慶式が執り行われた。その数年後、千住画伯が8室77面の襖絵を描き下ろし、寄進した。代表作「滝」のバックカラーは墨。大徳寺聚光院書院の青の滝を先に見ていた私は、地球から見た宇宙の闇を表現したんだな、と直感した。

 

 画伯がニューヨークのアトリエで、2001年9月11日の世界貿易センタービル爆破テロを間近に体験しながら苦悩の末に完成させた作画工程がNHKのドキュメンタリー等で詳しく紹介されると、伊東別院は千住アートの殿堂と称され、国内外の美術ファンが集うようになった。

 一方で、聚光院現住職の小野澤虎洞和尚は明言される。「ここへは茶を飲み、坐禅をしに来ていただきたい」と。

 ガラス張りの鉄筋吹き抜け構造。ロフトのような2階に坐禅堂を置き、ロフトからは「滝」の黒面と白瀑布が見下ろせる。伊東別院は類のない新しい禅寺のスタイルを打ち出している。しかしながら、ここは住職がおっしゃるとおり茶禅の聚光院であり、発起者岡崎氏も禅と茶道の実践道場に、と願っていた。

 

茶は服のよきように点て (相手が飲みやすいように点てよう)

炭は湯の沸くように置き (湯沸かしの準備やタイミングを大切に)

花は野にあるように生け (自然にあるように=本質を見失わずに)

夏は涼しく冬暖かに (相手が快適に過ごせるように)

刻限は早めに (時間は余裕を持って)

降らずとも傘の用意 (余計な心配をさせないように)

相客に心せよ (客同士で気を遣わせないように)

 

 茶道を修養する者が最初に叩き込まれる〈利休七則〉である。亭主にはこれだけの配慮が、客にはその配慮を理解する心が必要だからこそ、ただ座って茶碗を受け渡すだけの所作が「茶道」になるのだ。

 佗茶の創始者村田珠光は一休宗純に禅を学び、修行僧が坐禅や公案(禅問答)で無や空の境地を目指すように、茶道の一連の所作を通してこれを目指した。将軍足利義政に茶の奥義を問われた珠光は「茶ハ一味清浄禅悦法喜(一碗の茶をいただく中に、禅の悟りと同じほどの喜びがある)」と答えている。利休はこの精神を受け継ぎ、「仏法を以て修行得道する事なり」と終生、禅の修養に努めた。

 「茶をやる者は坐禅をせなあきません」と強調される虎洞和尚。兄の寛海和尚から住職を継いだ後、より積極的に伊東別院の坐禅堂と茶室の利活用を呼びかけておられる。東京に近いこともあって、首都圏の茶道関係者の利用が多いようだが、「門はいつでも開けておく。高い敷居なら削ってしまう。間口は狭いが気持ちは広い。それが寺の本来あるべき姿」とし、その意を受けた常在の東谷宗弘和尚が、地元伊東や伊豆の人々にも茶禅の心を伝える機会を設けておられる。毎月第2土曜の夕方17時から1時間程度、誰でも気軽に参禅できる坐禅会を開催中だ。

 

 今年1月、静岡市の駿府城公園紅葉山茶室で開いた『駿河茶禅の会』の初釜で、床の間に掛かった軸は、偶然にも虎洞和尚の筆による〈千里同風〉だった。会の座長である望月宗雄師匠に趣意を伺うと、伊東別院の正月特別拝観に行かれたからと。私が本稿の執筆依頼を受けたのはその直後。こういう縁の風が吹くのかと驚いた。

 千里同風とは、千里離れていても同じ風が吹いている=直接言葉を交わさずとも心は通じると解釈される。

 1591年に没した利休とは400年以上の時の隔たりがあり、伊東別院の創建に尽力された岡崎、竹村、吉村各氏は鬼籍に入られ、千住画伯はニューヨークに、虎洞和尚もふだんは京都におられる。離れた時空にあっても、この寺を現代に活かしたいという同じ思いの風が、ここに集まっている。虎洞和尚のまるくしなやかな筆づかいのその先で、塵のような存在の私も同じ風を感じている・・・。伊東別院には、そんな錯覚を覚えるほど心地好い風が帰着していた。

 京都の聚光院は利休の時代に生きた人のために建てられた。こちらは、当然ながら、今の時代を生きる人のために創られたのである。吉村デザインも千住アートも、現代人を茶禅の世界に誘う風だと思えば、こんなに美しい風の通り道はない。

 

 

聚光院伊東別院

〒413-0231 伊東市富戸1301-104

TEL 0557-51-4820

拝観は要予約。拝観料2000円。

坐禅会は毎月第2土曜17~18時。初めての人は電話でお問合せください。

 

(参考文献)

大徳寺聚光院別院襖絵大全/著・千住博

科学と仏教/著・武藤義一 

山上宗二記/校注・熊倉功夫

利休覚え書き「南方録覚書」/全訳注・筒井紘一

茶文化学術情報誌「茶の文化」4号/(社)静岡県茶文化振興協会



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