茶道と禅の愛好者による交流サロンとして毎月開催中の駿河茶禅の会。茶室での実技習得、山上宗二記の読解、研修旅行等をはじめ、会員が自分で探してきた禅語を持ち寄って学び合う、ということも行っています。
先月は月例会が開催できないかわりに、メールで寄せてもらった禅語と選んだ理由をまとめて会員にお送りし、自主学習の機会にしていただきました。胸を打つ言葉ばかりですので、このブログでも寄稿者の名前を伏せてご紹介させていただきたいと思います。
写真は2017年5月の連休に催行した京都研修で訪れた天龍寺庭園の花々です。今このとき、訪ね人がなくとも、あるがままに咲いているであろう花々の生命力に思いを馳せるばかりです。
座禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を 深山木に見て
■作者/大燈国師
禅語ではありませんが大燈国師の言葉です。今から60年前、小学校の学芸会の舞台で、先生曰く「見ている人たちを大根だと思いなさい」と。次元の違うたとえ話ですが、ひたすら没頭するという意味で相通ずるところでしょう。利休百首の中の「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて飲むべかりけること・・・」もまた然り。
白雲自在
■出典/禅林句集
白雲が少しの滞りもなく、自由自在に去来していくように、自分の心も自在に去来できるようになりたいもの。自宅に籠もっていても、心は自在にありたいと思います。
一心
禅語ではありませんが、最近なんとなく気になっている言葉です。
ブリタニカ国際大百科事典では『仏教用語で、宇宙の事象の基本にある絶対的な真実、真如のこと。また阿弥陀仏のみを念じる心または念仏のみに専念する心をいう。また仏陀の救済を信じる心は、その本質が仏陀の心そのものであって、このような信仰を得た人は凡夫でありながら仏陀の心をそなえているので、このような心を仏凡一体の一心と呼ぶ。』、
デジタル大辞泉では『①多くの人々が心を一つにすること。同心。②心を一つのことに集中すること、またはその心。専念。③仏語。あらゆる現象の根源にある心。浄土真宗で真実の信心』とあります。なんとなく現状の世界に適する言葉だと思いました。
そこで思い出したのが、以前、ある時にふっと沸いた言葉を自分なりに禅語風にしてみましたので、恥ずかしながら。
「忘我百語 刻此一心」
さまざまな情報や知識に振り回されず、自分がこれぞと想う信念に従って生きていきたいという意味です。
颯々(さつさつ)
■出典/荘子
禅語としては、ぼんやりしていては“さわやかな”音も聞こえないように、自然の声にふと心をとめる余裕を持ちなさいということでしょうか。風がサワサワと吹くさまをイメージすると、新緑の茶畑を気持ちの良い風が頬や髪をくすぐるような、いまこれからの季節が思い浮かびます。あるがままの自然に何を感ずるかは、自分の気づき次第。美しい日本の四季を愛でるこころのゆとりを持ちたいです。
和顔愛語
■出典/大無量寿経
2020年は未だかつて経験したことがない状況に全世界の人間が遭遇してしまいました。健康を脅かされ、経済的にも立ち上がれないほどの大きな打撃を、小さな小さなミクロの生命体によってもたらされました。「生」と「死」は隣り合わせということを、コロナウィルスは気づかせてくれた一面もあります。
生きている間も、死して残された人の記憶の中だけで生きることになっても、やわらかい笑顔と思いやりのある言葉は、関わる人たちを温かい気持ちにさせることが出来ます。
心から笑顔になることは、強い精神がなければなかなか難しいことと思いますし、また、人への愛がなければ、愛情のある言葉は伝わらないでしょう。つらい時こそ、周りを和ませる笑顔で過ごしたいと思います。
松樹千年翠
平常心是道
■出典/続伝灯録 馬祖語録
幾多の艱難辛苦を耐え忍び、永年の常緑をまっとうする松。コロナ禍の中、この状況だからこそ、本分を忘れず、ただひたすらに淡々と、やるべきことをまっとうする。平時を継続できるよう最善を尽くすのみ。有事のときこそ当たり前のことを大切に。
逢茶々遇飯々
■作者/宙宝宗宇 ■出典/碧巌録
お茶をだされれば、その好意に感謝してお茶を飲み、ご飯を供されれば有り難くいただく。裏からいえば「茶がなければ茶を飲まず、酒が無ければ酒を飲まず」。その場その場の与えられた条件に即応して、主体的に、無心にスラスラ生きる禅者の生き方。無心に、自由に生きていいんだと思わせてくれます。
紅炉一点雪
■出典/碧巌録
禅の修業は、徹底的に身を焼き尽くしても、炉の上の雪が一瞬で消えるように、次の瞬間には全く痕跡さえ残さずけろりとしているというものでなければならないという意味。雪は落ちるべき所に落ちる(人は収まるべき所に収まるということ?)とも教わった記憶があり、厳しさと儚さ、暖かさも感じます。
犀の角
■作者/釈迦 ■出典/スッタニパータ
意味は「犀の角のようにただひとり歩め」=犀の頭部にそそり立つ太い一本角のよう、独り自らの歩みを進めなさいということ。禅語ではありませんが、毎日ひとり残業していた頃に後輩から教わった言葉。仕事帰りに真っ暗闇の崖っぷちをひとり歩いているような気がして泣けそうなときは、ふと思い出して忘れることがない。今年は仕事を時間で区切りをつけて、禅や好きなことへ歩みを止めずに貪欲に教えを乞いたいと思っています。
縁
これまで茶道を学んでいながら、好きな禅語を示せないのも恥ずかしい限りで、禅語の本を見たりしましたが、それぞれ意味が難しいため、熟語でも何でも、とのことでしたので、思い浮かんだ言葉を選びました。
若い頃は「縁」の有難さを思うことがあまりありませんでしたが、還暦を過ぎたころから、これまでの人生を振り返り、多くの人達との「縁」、めぐり合わせ、出会いに感謝する心(おかげさまの心)が出てきたような気がします。
「人間は一生のうちに会うべき人には必ず会える」と言います。駿河茶禅の会で学ぶ機会と新しい出会いを得、多くの皆様とのご縁に感謝しております。
任運自在(にんうんじざい)
世の中、変われば変わるものなんですね。ずっと在って当たり前だったことが、いっぺんにひっくり返る!…というのは阪神淡路や東北の大地震で理解していたつもりでしたが、本当にそうだったと、今回こういうカタチで現実にわが身に迫った状況は、ちょっと前まで想像だにしなかったことでした。自分の力ではどうしようもない中で、生きる希望を持ちたい究極の言葉として選びました。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
■作者/趙州和尚 ■出典/無門関
禅問答の内で、趙州和尚が弟子に答えられた言葉だそうです。弟子の問いは、「達磨大師がインドから中国へと来られたのは何故でしょうか。」というもので、まるで答えになっているとは思われません。しかし禅問答ですから、これをして禅の本質や何らかの教訓を伝えようとしているとされ、様々な解釈があるようです。
僕はその内の一つの解釈を知り、わからないなりに趙州和尚、ひいてはこのような思想を持つ禅に畏敬の念を持つようになったためにこの言葉を選びました。
「庭前柏樹子」―その問答をしていた寺の庭にあった柏の木ですが、趙州和尚はそれこそが私の心の有り様である、主体でも客体でもない区別しようのないものとしてある、と示しているというものです。
話が飛ぶのですが、量子力学という学問を以前知りまして、非常に小さい、しかし私達の世界を確かに構成している粒子は、人に観測されることでその有り様がその時に定まるらしいのです。ですから、観測することが影響を与えており、例えるならば、上司が何をしていても、何もしていなくても部下に影響を与えるように、そのミクロな世界では客観的な視点というのがありえないらしいのです。それは現実全体にも言えることの筈でしょう。
しかし、趙州和尚はそうした僕にとっての固定観念を超越した心の持ち方をこの一言で表された、ようにその解釈を聞いて感じました。わからないなりに、これからも学んでいきたいと思います。
壺中日月長(こちゅうじつげつながし)
■出典/虚堂録
後漢の時代、壺公という薬売りの老人が夕方、店を閉めると店頭にぶら下がる小さな古い壺の中にヒラリと飛び込んで身を隠したという。あるとき噂を聞きつけた町の役人・費長房が一緒につれて行くよう頼むので、しぶしぶ連れて行ったところ、壺の中は広大無辺で金殿玉楼がそびえる仙境だった。実は壺公は壺中を住処にした仙人。費長房は美女から美酒佳肴のもてなしを受けたり仙術を授かったりで、ご満悦で現実に戻ってきたら、2~3日のはずが、10数年経っていた。そんな浦島太郎のような故事に由来する言葉。
壺中とは、悟りの部屋=悟りの世界のこと。狭い我が家であっても、何ものにもとらわれない大きな心で一日24時間、充実して過ごせば、壺中も仙境になり得る。壺の中に無限の世界と無限の時間が広がっている。そのような気持ちで、STAY HOME 。ちなみに静岡市の臨済寺の茶室名は「壺中庵」。
ここでは無記名にしましたが、「庭前柏樹子」をセレクトしたのは最年少会員(高校2年生)のWくんです。受験の準備を控える身で休校が続く状況下、このような思いで禅語に向き合ってくれた若くみずみずしい感性が、どうか花開き、実りあるものとなるよう願うばかりです。