杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その1)

2019-11-07 20:23:41 | 駿河茶禅の会

 先の記事でお知らせしたとおり、駿河茶禅の会の研修旅行で10月13日(日)~15日(火)に福岡へ行ってきました。前夜12日に台風19号が上陸し、予定の福岡便(13日9時発)が飛ぶのかどうかヒヤヒヤしましたが、搭乗機は前日から静岡空港の格納庫で台風避けしていたとのことで、台風一過の青空のもと、バッチリ富士山を背景に無事フライトしてくれました。

 

 静岡で茶禅を学ぶ者にとって、日本に初めて茶を伝えた栄西禅師、静岡に茶を伝えた聖一国師という2大禅僧は極めて重要な存在であり、福岡は両師が中国から帰国後に最初に布教活動を始めた記念すべき地。しかも16世紀末、豊臣秀吉が九州を平定した頃、千利休もこの地で茶会を催し、その足跡が数多く残っています。

 運良く静岡商工会議所内に発足した聖一国師顕彰会が福岡と交流活動を行っていることからアドバイスをいただこうと思い、ちょうど静岡茶の取材でお世話になっていた静岡県茶業会議所の小澤専務に顕彰会事務局を紹介いただき、駿河茶禅の会メンバーにも顕彰会会員がいたことから、福岡での聖一国師ゆかりの地訪問がスムーズに決まりました。

 単なる寺社巡りで終わらないのが駿河茶禅の会の研修旅行です。今回は望月静雄座長が所属する裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)の九州エリア会員が、我々を歓待する茶会を開いてくださることになりました。

 行程は13日に承天寺、櫛田神社、大同庵。14日にUIAとの交流茶会。15日に筥崎宮、崇福寺、聖福寺と回りました。順を追ってご紹介します。

 

 

 

承天寺

 まず最初の訪問は、博多を代表する名刹・承天寺です。案内役を買ってくださった承天寺塔頭乳峰寺の平兮正道和尚より待ち合わせ場所としてご指示いただいたのが「博多千年門」。多くの神社仏閣が並ぶ博多旧市街のウエルカムゲートとして平成26年に新設されたのだそうです。神社の鳥居や中華街の門なんかもそうだけど、こういう門って異境空間へと誘う効果がありますよね。

 

 承天寺は仁治3年(1242)に聖一国師を開山に創建しました。国師が宋から戻ったのが1241年ですから、禅の布教の最初の一歩という記念すべき場所ですね。平兮和尚には聖一国師を祀る開山堂、庫裏、方丈、国師が中国からその製法を伝えたとされる〈饂飩蕎麦発祥ノ地〉の碑、蒙古襲来時に元の軍船に使われていたとされる〈蒙古碇石〉、博多に疫病が蔓延した時、国師が施餓鬼棚に乗って棒で担がせ、祈祷水を撒いて病魔退散させたことにちなんだ〈博多山笠発祥之地〉の碑等をご案内いただきました。

 博多在住で南宋杭州出身の商人・謝国明が伽藍建設費用を出して完成したこと、鎌倉時代の博多にはすでに数多くの中国商人が暮らしており、貿易を行って寺の伽藍を寄進するほどの巨額の富を得ていたこと、聖一国師は帰国後に修行寺である径山寺が火事で焼けた際、謝国明の勧めで博多から寺再建のための木材を大量に送るなど、800年ほど前の話がついこの前の話のように身近に感じられました。

 そうそう、個人的懸案だった饅頭発祥について、聖一国師が宋から酒饅頭の作り方を伝えたのは確かなようで、この技を継いだ虎屋に、国師が揮毫したといわれる『御饅頭所看板』が残されています。一方で、聖一国師よりも先に宋へ渡った道元が、聖一国師帰国年の1241年に著した『正法眼蔵』の中で、饅頭の食べ方について言及しているとのこと。誰が一番最初に饅頭を伝えたのかハッキリした証拠はないし、「うちが元祖」って言った者勝ちの世界だ・・・なんて思えてきます。そもそも歴史とは「言った者勝ち」「書いたモノが残ってた者勝ち」で成り立っている世界だろうし(苦笑)。

 

 平兮和尚には、国の伝統的工芸品指定・博多織と国師との関係を教えていただきました。聖一国師が渡宋した際、博多商人の満田彌三右衛門が同行し、現地で習得した織物の技法に独自の意匠を加えて制作したものが起源とのこと。文様は仏具の独鈷と華皿を結合した紋様を縞に配したもので、後世、黒田長政が徳川幕府への献上品として同柄を“献上柄”としたことで、博多織の代表的な柄となったそうです。

 

 翌14日夜には博多旧市街ライトアップウォーク〈千年煌夜〉の一環で、艶やかにライトアップした方丈枯山水庭園や開山堂を見学しました。若者や家族連れ、ラグビーワールドカップの福岡開催ゲームで来福した外国人など、ふだん禅寺を訪ねる機会がないと思われる人々で大いに賑わっており、聖一国師と一般市民との距離の近さを実感しました。

 

 

 

櫛田神社

 櫛田神社は承天寺から歩いて7~8分。乳峰寺の平兮和尚にわざわざ神社までご案内いただき、本殿にて正式参拝。その後、阿部憲之介宮司と社務所内にて懇談させていただきました。

 櫛田神社はご存知の通り、天照皇大神、大幡主大神、須佐之男大神(祇園大神)をお祀りする博多総鎮守。須佐之男大神は天慶4年(941)、藤原純友の乱鎮圧にあたった小野好古が山城(京都)祇園社より勧請したもので、鎌倉中期の仁治2年(1241)、宋から帰国した聖一国師が博多に蔓延していた疫病退散の祈祷を行い、施餓鬼棚に乗って浄水を撒いた姿にあやかり博多祇園山笠が始まったといわれます。毎年7月1日から15日まで飾り山笠が公開され、10日からは勇壮な舁き山笠が街を駆け抜けます。期間中は300万人の観客を集め、平成28年にはユネスコ無形文化遺産に登録されています。

 

 福岡市は「博多祇園山笠」という核を中心に経済発展を遂げ、東アジアのゲートウエイとして交流人口が増加するだけでなく、定住人口も毎年1万人増だそうです。承天寺建立をスポンサードした謝国明の時代から有能な商人を数多く輩出し、大陸からもたらされる新しい産業や文化を柔軟に受け入れ、地域経済に取り込み昇華させてきた都市力が脈々と受け継がれてきたんですね。その象徴が、祇園山笠を実質的に指揮する阿部宮司で、なんというのか、博多の人ってこんな熱量を持っているんだ!とビンビン圧を感じる豪快でエネルギッシュな御仁。都市を勢いづかせるにはこういう人が不可欠なんだろうと思いました。

 宮司のご配慮で境内にある博多歴史館を見学し、博多人形師が腕によりをかけて制作した武者人形・歌舞伎人形等をあしらった豪華絢爛な山笠の展示を堪能しました。今年の博多祇園山笠の動画を館内ビデオで拝見し、テレビ画面からもその迫力と勇壮さが伝わってきました。みんなで「来年7月には博多と京都の祇園祭はしごツアーをやろう」と盛り上がりました。

 

 

大同庵跡・古渓水

 前々回の記事で紹介したとおり、千利休の参禅の師・大徳寺住職の古渓宗陳が博多に配流された際、滞在していた大同庵の跡地が中洲のビル街の一角にありました。古渓が使っていたという古井戸が残っており、今も水を湛えています。

 

 秀吉の命による寺の造営を巡って石田三成と対立した古渓は、天正16年(1588)に博多に流され、彼を慕う小早川隆景や博多の豪商らの庇護のもと、茶会や散策をして心穏やかに過ごしました。栄西禅師が開いた日本で最初の禅寺・聖福寺や、当時大宰府にあった崇福寺にも足を延ばしたようです。2年後に京へ戻った古渓は、愛弟子利休が秀吉の怒りを買って切腹、大徳寺も廃寺を命ぜられる事態に遭い、死を賭して秀吉を説得。晩年は利休の菩提寺大徳寺聚光院の住持を務めました。

 雑居ビルとコインパーキングに挟まれ、うっかり通り過ぎてしまいそうな路地裏の小さな史跡でしたが、この地で臥薪嘗胆の時を待っていた古渓の心中を想像し、井戸からくみ上げた水を古渓石像にかけ、合掌しました。電信柱に史跡紹介が書かれていたのが印象的でした。

 

 

 夜は西中洲のもつ鍋店でご当地グルメに舌鼓。ラグビーワールドカップの日本×スコットランド戦の行方が気になり、ほぼ全員がスマホで速報を凝視していました。ちょうど食事が終わって店の外に出たところ、近くから歓声が聞こえ、様子を見に行った会員さんから「パブリックビューイング会場があるぞ!」と。西中州の福岡市旧公会堂貴賓館前に設置された大型スクリーン前の群衆に我々も飛び込んで、ラスト10分、スコットランドの猛攻を必死に食い止める日本代表フォワード陣のハラハラドキドキの攻防を観戦し、歓喜の瞬間を大勢のギャラリーとともに分かち合うことができました。

 中洲の夜の思い出は?と聞かれたら、当面は、この瞬間がフラッシュバックするに違いありません。(つづく)



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