杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

お施餓鬼とバイオミミクリー

2019-07-17 11:14:37 | 仏教

 令和最初の7月盆が終わりました。今年は期間中、お手伝いしている禅寺で汗をかく時間を過ごしました。檀家さんの多いお寺なので棚経回りは同門の和尚さんたちに手分けをしてもらうのですが、お寺で留守番していると、ひっきりなしに「何日の何時に来るの?」「こっちも予定があるんだけど」という電話や問い合わせが来ます。お盆のときぐらい家でゆっくり待てないのかと思いつつ気忙しい現代人には無理からぬ話・・・のようで、おたくまで行った和尚さんが「家の中が汚いから今年はいい」と断られたり、いつのまにか家がなくなって空き地になっていたというケースも珍しくないそう。だからこそ、仏壇を大切に手入れされているおうち、読経する和尚さんを丁寧に迎えるおうちはやっぱり〈気〉がいい、とおっしゃいます。

 お施餓鬼法要で説教をされた和尚さんによると、「イスラム圏の国から日本にやってきた留学生が言っていた。‶日本では個人の家にも礼拝所があって素晴らしい。でも熱心に祈っている日本人はあまりいない と」。こういうお話を聞くと、故人が里帰りするお盆という素晴らしい風習がある以上、仏壇のあるおうちはお盆のときくらいきれいに整え、きちんと手を合わせないといけない、と痛感しますよね。

 ところでその和尚さんの説教で面白かったのが、無門関に出てくる公案『趙州、因に僧問う、如何なるか祖師西来意。州云く、庭前の柏樹子』の解説でした。「(禅宗の祖師)達磨がインドから中国へやってきた理由は何ですか?」の問いの答えが「庭先の柏の木」だという禅問答。凡人にはチンプンカンプンですが、説教師の和尚さんはバイオミミクリーの事例で解説してくれました。

 バイオ(生物)とミミクリー(模倣)を組み合わせた「バイオミミクリー」はサイエンスライターのジャニン・ベニュスが造った造語で、神経生理学者オットー・シュミットが1950年代に提唱していた「バイオミメティクス(生物模倣工学)と同じ意味合い。理系の学生さんたちにとっては常識かもしれませんが、私は初めて聞く単語ばかりでワクワクです。さっそく復習しようと購入した新書本『生物に学ぶイノベーション』によると、70年代にはバイオミメティックケミストリー(生物模倣化学)、90年代にはバイオインスパイアード(生物にヒントを得て生物を超える)へと発展。ようするに、生き物の形態・機能・しくみを模倣または活用した科学技術の開発のことです。

 バイオミミクリーではシャープが家電に積極的に導入していて、

〇省エネ技術ネイチャーウイング/トンボの翅、アホウドリ・イヌワシの翼を参考にしたファンの総称。エアコンの送風効率、騒音削減を向上させた。

〇サイクロン掃除機/猫のザラザラした舌を模倣し、スクリューの表面に多数の突起をデザイン。

〇液晶カラーテレビのモスアイパネル/モス(蛾)の眼の構造を参考に、外光の反射を抑えて自然で見やすい液晶パネルを開発。

等が知られています。

 また東海道山陽新幹線500系は、先頭部分の尖った形状をカワセミの口ばしを参考にしたことで有名です。カワセミが餌を取るために水中に飛び込むとき、水しぶきをほとんど上げないことに着目し、空気抵抗を抑える設計で騒音対策に貢献。『生物に学ぶイノベーション』には、ザゼンソウという僧侶が坐禅する姿に似ている多年草の例も紹介されていて、寒冷地で生き延びるため1週間も自ら発熱する機能があり、このしくみを解明・応用した温度調節計が開発されて半導体や金属熱処理炉の制御装置に活用されているそうです。

 

 『生物に学ぶイノベーション』の著者赤池学氏(科学ジャーナリスト)は、生存競争の中で生き残った生物と市場競争の中で勝ち残った技術には、3つの共通点があると述べています。

①変えること、変わることの勇気を放棄したものは淘汰される

②絶えず変化する状況に対し、変革・革新を行ったものだけが生き残る

③その変革・革新は、他者とのつながりや環境への配慮といったバランスマネジメントの上に成り立つ


 これを読んだ後、本棚にあった禅語の本に手を伸ばし、自然に「行雲流水」「結果自然成」「花枝自短長」「応無処住而生其心」といった禅語に目が留まりました。とりわけ、心の実態も認識の対象も、その正体は移り変わる現象以外に何もなく、空としか表現できない・・・ということを意味する「応無処住而生其心」は、バイオミミクリーの研究者ならストンと落ちる言葉ではないかな。調べてみたら、禅祖達磨から数えて6代目にあたる禅の大家・大鑑慧能が悟りを開くきっかけになった金剛般若経の言葉でした。


 そして「庭前柏樹子」。趙州和尚の弟子が「そもそも達磨がインドから中国へやってきた理由は?」と訊ね、和尚が「目の前の柏の木だよ」と答えた。弟子は「私は禅とは何かを訊いているのです。境(心の外の物)で答えないでください」と反論するのですが、和尚は「境で答えてはいないよ」と答え、毅然と「庭前柏樹子」とひと言。この意味するところとして、弟子は心と物質を境界あるもの=対立軸として見ているが、師匠は境も対立軸もなく、達磨が西からやってきた理由やら禅の意味やら何やらの理屈にこだわることなく、ただひたすら無心に、目の前の柏の木に成りきってみなさいと諭した。

 柏の木には特別の意味はないようで、目の前に桜の木があれば桜に、静岡人なら毎朝目にするお茶の木でも富士山でもいい。とにかく身近に目にする自然に仏法を感じることを説いた言葉なんだろうと解釈しました。

 

 お施餓鬼法要で説教師の和尚さんは動物や植物の生態機能が人の暮らしに役立つテクノロジーの源泉になっている事例を紹介し、「庭前柏樹子とは、環境に合った暮らしをしましょうという意味」と噛み砕いて説明されました。お話をうかがい、生物学と機械工学は、現代人にしてみれば境界ある対立軸そのものに見えるけれど、生物への畏敬を基調とした禅の教えや日本人に生来備わった自然観は、地球に生きるもの同士、対立ではなく共生を導いてくれるだろうと思えてきました。こういうことを年に何回か考えさせてくれる場となるお寺や仏壇って、やっぱり大切にしなきゃ、ですね。

 とりあえずこの夏はどこかの高原に、ブッポウソウを見つけに行こうかな。

 





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