酒茶論に続く『酒 vs 〇〇』の異類合戦物のご紹介です。
まずは『酒飯論』。作者は不明ですが、禅僧が漢文で書いた酒茶論よりも和文&絵巻物で読みやすく親しみやすく書かれています。図書館でも、こういう本がピンポイントでヒットしました。
酒飯論の中身は4つの段落に分かれていて、第1段は登場人物紹介。お酒大好きの〈造酒正糟屋朝臣長持〉と、ご飯派の〈飯室律師好飯〉というお坊さんの紹介です。2人の名前が取って付けたみたいで笑えますね!
第2段は上戸代表・長持が語るお酒の効能。李白や白居易の漢詩、源氏物語や伊勢物語に謳われた酒の風流を紹介し、春の曲水、秋の重陽の節句の宴席に酒盃は欠かせないことや、酒宴の余興に管弦乱舞、白拍子、神楽などさまざまな伎芸が行われていたことを強調。「酒は憂いを消す」「酒に酔った上での失敗は許される」「南無阿弥陀仏を唱えれば破戒であっても救われる」と締めています。
第3段は 下戸代表・律師好飯が説く飲酒の弊害と茶飯の効能。長持は下戸の悪口はあまり言わないのですが、好飯は上戸を容赦なく非難します。まずは、項羽と劉邦の有名な「鴻門の会」や、殷の紂王の「酒池肉林」など酒で身を滅ぼした故事の紹介。「鴻門の会」は軍力では優位に立っていた楚の項羽が漢の劉邦を陣地に迎い入れ、酒の飲み比べをするうちに気が大きくなり、だまし討ちしようとしていた部下を無視し、劉邦をそのまま帰してしまうというお話。「酒池肉林」は紂王が愛妃を喜ばせようと大量のお酒で池をつくり、お肉の塊を林のように束ねるぐらい超贅沢な酒宴を開いたというお話( “肉欲” の意味はないみたいです)。好飯は項羽や紂王まで引っ張り出して酒は国をも滅ぼす元凶だとしたと強調したわけです。酒のせいばかりじゃないでしょ!ってツッコミたくなりますが…。
さらには酒飲みの愚行として「クダを巻く」「千鳥足でふらつく」「赤ら顔がド黒くなるのは醜い」「口が臭い」「二日酔いで仮病をつかう」と。・・・こりゃ昔も今も変わらない、キツくてイタ~いご指摘ですね(笑)。
この後、四季折々の赤飯、麦飯、粟もち、ちまき、亥の子餅など飯餅を総動員してそのおいしさや美しさを褒めたたえ、酒盃に対抗して茶器の価値をアピール。「静かに遊ぶ茶の会は酒盛りよりも面白い」「飯は五味の調熟、味は法喜禅悦」と締めくくります。
第4段は中戸の〈中左衛門仲成〉という人物が説く「ほどほどがいいんじゃない?」という主張。上戸の酔態や下戸の口の悪さは「すさまじい」と両者にツッコミを入れた後、「戒律を堅持する人であっても、禁欲主義者より一杯傾ける人の方が勝る」「宴会、遊興、四季折々、食事の席に酒は欠かせないが、ほどほどが肝」と仲裁役らしいコメント。最後に、「気も過ぎたるも、とりくるし、正体なきも、をこかまし、中なる人のこころこそ、なかき友には、よかりけれ」・・・むやみに気を回されるのは嫌味に感じるし、正体ないほど酔いつぶれるのも見苦しい。ほどほどの心遣いがあってこそ長い付き合いができるものだと結論付けます。これを読んだときは、日本人の精神構造って500年前とそんなに変わっていないんだなあと、なんとなく嬉しくなりました。
参考にした漢文学者・三瓶はるみ氏の論文『日中の酒にまつわる論争について-「酒飯論」を中心に』では、上戸の長持は浄土宗、下戸の好飯は法華宗(日蓮宗)、仲成はさまざまな宗派の教えを包含する天台宗の象徴ではないかと解説しています。酒vs飯の背景に宗派バトルがあるとしたら、群雄割拠する戦国時代にこのような争論が誕生したのもなるほど、と思えます。
前掲した『日本絵画の転換点ー酒飯論絵巻』で、著書の並木誠士氏(美術史家)は、この酒飯論絵巻が平安以来の伝統的なやまと絵の “絵空事” の世界に、庶民のリアルな日常生活描写を採り入れた日本美術史上画期的な作品だと紹介しています。原本不明で元の作者はハッキリせず、粉本(手本となったもの)や模本しか現存していないため、ちゃんとした研究対象にならず知名度も低いようですが、並木氏は美術史の観点から制作期は1520年代、作者はかの狩野派を大成した狩野元信(1476-1559)ではないかと述べています。それはそれでスゴイけど、禅僧蘭叔が1576年に書いた『酒茶論』よりも前に描かれたことになり、そもそも酒茶論と酒飯論のどっちが先なのか、現時点で調べた限りではよくわかりません。
もうひとつ、『酒餅論』を紹介したいと思います。江戸初期の作とみられ、こちらも作者不詳。花見に餅菓子を食べていた人々に怒った〈酒田造酒之丞のみよし〉と、餅の効能を説いて反論した〈大仏鏡の二郎ぬれもち〉に、加勢する者が続々と現れ、〈のみよし軍〉と〈ぬれもち軍〉の合戦になるという奇想天外な争書です。こちらの人物名も、なんとも笑えますよね!
〈のみよし軍〉は先陣に南都諸白、小浜諸白、薩摩泡盛以下諸国の銘酒が陣取り、これに肴の一族、鳥類、精進肴が馳せ参じます。
対する〈ぬれもち軍〉は、総大将ぬれもち、餡餅が防備を固め、あべ川の砂糖餅、胡麻餅、くわ餅、鯨餅、ぼた餅らが陣取って、これに麺類と干菓子どもが加勢。果物どもはいずれに味方すべきか日和見・・・なんですって。江戸の初~中期は庶民のお菓子といえば餅菓子が主流で、国産砂糖が市中に出回るようになった江戸後~末期に饅頭や羊羹が登場し、本格的な甘党優勢の時代になったそうです。
両軍入り乱れているところへ、仲裁役の〈飯の判官たねもと〉が割って入り、本汁、二の汁、鯉の刺身を従え、理を諭します。飯の判官は諸食の大将だそうで、両軍逆らえず、和睦。めでたしめでたし。・・・なんだかこっちのほうが絵巻物にふさわしいような気がします(笑)。
参考にした『酒の肴・抱樽酒話』の著者青木正児氏(中国文学者)は、中国の茶酒論の由来からして、もともと酒の歴史は茶のそれとは比べ物にならないほど古く、茶は南方からやってきたいわば新参者。下戸に飲ませる酒の代用品に過ぎなかったといいます。
蘭叔の酒茶論も、当時勃興してきた茶の湯の勢力と、反発する旧勢力との抗争が背景にあったとし、「酒の妙趣は下戸に言っても分からない。また言って聞かす必要もないのである。酒茶・酒餅の論の為す如きは野暮の骨頂、これらは恐らく中戸の両刀使いが物した愚作であろう」とバッサリ。確かにそのとおりですが、上戸と下戸が言いたいことを言い合って、中戸がバランスを取って治めるという論争を人々が楽しんで読んでいた姿は、けっして愚かだとは思えない。世の中には結論が出ない、白黒ハッキリさせられないことがたくさんあるわけで、人々は身近な酒や飯・餅に置き換え、留飲を下げていたという面もあるんじゃないかな。
酒を題材にした名文・奇文・珍文の探索は、その時代の社会の有様が見えてくる面白い知的冒険だということを今回発見できました。さらに深掘りしていきたいと思っています。