昨日(31日)夜は、静岡市民文化会館でチェリスト青嶋直樹さんのハイドン『チェロ協奏曲第2番』を聴いて、しばし浮世の喧騒を忘れました。
チェロの独奏が入る協奏曲って、想像したとおり、酒造りの映像にとても合うと思いました。同じ弦楽器同士のチームで、独奏者はその頂点というのか象徴というべきか、酒造りでいえば杜氏のような存在に見えます。チェロという楽器は、音や形状からして親方みたいな重量感もある。私、小さい頃ピアノを少しかじっていたので、ピアノは素人でも練習すればなんとか音は出せるけど、弦楽器は素人には手が出せない、ましてやチェロなんて操れる人は、本当に音楽の神様に選ばれた人だという思いがあります。『吟醸王国しずおか』で、神業のような酒造りに挑む人の映像に使うのも、そういう領域の音がふさわしいと思っています。
昔、新静岡センターの裏にあった『鷹匠珈琲亭』というクラシック通のご夫妻が経営していた喫茶店によく通い、店のリーフレットを手描きで作ってさしあげたこともありました。マスターには「真弓さんの文章はブラームスみたいだね」と云われたことを、今でもよく覚えています。ピンと来ないでいると、「ブラームスってわりと構成が整っていて聴きやすいんだよね」とのこと。褒められたんだと解って嬉しくなり、それからブラームスに凝った時期がありました。整いすぎて退屈に感じる曲もありましたが、ああ、自分の文章も、後から読んで生真面目すぎてツマンナイと思うことあるなぁと苦笑いしたものです。
ハイドンは、音楽の授業で習ったとおり「交響曲の父」といわれ、モーツァルトが終生尊敬した作曲家です。交響曲や協奏曲を作曲するときって、各楽章の意味と連携をふまえつつ、各楽器の特徴も活かしつつ、最後まで飽きさせずに聴かせるものすごい構成力・編集力が必要でしょう。ハイドンやモーツァルトが生きた18世紀は、チェンバロからフォルテピアノへの移行に象徴される楽器の大変革期。ヴァイオリンの仲間にもヴィオラのような厚みのある音の出る弦楽器が加わる一方、管楽器は音程が単純・不安定で19世紀まで待たなければ改良されなかったなど、ハード面では玉石混在の時代でした。そういう変化の時代に、21世紀に聴いても飽きの来ない魅力を持った作品を生み出せた彼らは、本当に音楽の神様に選ばれし者なんですね。
楽器の完成度も現代ほど完璧ではない、当然、録音機もない。そんな時代に、頭の中だけで編集してしまう。とてつもない才能です。
脳科学者の茂木健一郎さんがモーツァルトのことを「彼の力はまさに編集力。たとえばトルコの音楽を聴いてそれをモチーフに、“トルコ行進曲”や“後宮からの誘拐”などを書いてしまう。単にトルコの異国風音楽ではなく、従来の西洋音楽の伝統と混ぜ合わせ、まったく新しいものを創ってしまう。サンプリングも編集も見事。創造力というのは、実は編集力なんです」と何かに書いていたのを読んだことがありますが、まさにそのとおり。編集能力を養うには、私などのレベルでは、いったん作ったものを距離を置いて、俯瞰で見直す感覚が必要で、書いた原稿は一晩置いて、翌朝必ず校正するという作業をしますが(このブログも、実は、いったんUPした後、数時間後とか、翌日とかにちょこちょこ書き直してます)、モーツァルトは楽譜にまったく書き直した形跡がないといいますから、頭の中で完璧に編集し終わっているんですね。神業としか思えません…。
今まで喫茶店のBGMか映画音楽ぐらいしか接点のなかったクラシック音楽の世界ですが、作曲家や演奏家をクリエーターとして見ると、その凄さがまざまざと感じられ、創作のタネがいっぱい見つかるような気がしてきて、帰宅後は、さっそくチェロの名曲集CDを何枚かネットで購入しました。
・・・私にも、酒でも文章でも映画でも、何の神様でもいいから降りてきてくれないかなぁ。