杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その5)~民族交差のサマルカンド

2018-01-08 15:31:41 | 旅行記

 ウズベキスタン3日目の10月15日は、タシケントを朝8時出発の超特急『アフラシャブ号』に乗ってサマルカンドに向かいました。アフラシャブというのは紀元前8世紀ころ、イラン系ソグド人がサマルカンドの町を築いた丘の名前で、もともとは伝説の初代ソグド王の名前でした。

 いにしえの名を冠した超特急は、タシケント~サマルカンド約300㎞を2時間で結ぶスペイン製の新幹線。特等席を予約してもらっいたようで、キャビンアテンダントの美女が飲み物や軽食を配るサービス付き。私は成田空港の免税店で購入した純米吟醸『浦霞・禅』を取り出して、車窓に広がるシルクロードのオアシスの街並みやポプラ並木の台地、広大な綿花畑の景観を酒肴に朝から一杯。日本の新幹線では経験できないぜいたくな列車の旅を満喫しました。

 

 サマルカンドはいにしえの時代、「マラカンダ」と呼ばれ、アケメネス朝ペルシャの支配下で、商才と工芸技術に長けたソグド人が、豊かな文化生活を営んでいました。

 紀元前329年、父王の悲願だったペルシャ東征を継承したアレクサンドロス大王は、ギリシャ・マケドニア軍を率いてこの地を征服。このとき、ペルシャ軍のソグド人武将スピタメネスが、敗走しようとした上司ベッソスを捕らえて敵に引き渡し、自らは徹底抗戦。スピタメネスの美貌の妻ザーラは家族のために降伏してくれと懇願しましたが、彼は妻が美貌を武器に敵に寝返るのではと疑心暗鬼になり、傷ついたザーラは泥酔したスピタメネスを刺し殺し、その首をアレキサンドロス大王に引き渡しました。大王はザーラの所業を不快に思い、彼女を追放した・・・1世紀にローマの歴史学者クルチウスが書いた『アレキサンドロス大王伝』にはそんな悲劇が紹介されています

 アレキサンドロスが紀元前323年に遠征先で亡くなると、後継者セレウコスの支配下に置かれ、次いで、マケドニア軍人と現地支配層によるギリシャ・バクトリア帝国に支配され、紀元前2世紀には遊牧民スキタイ、匈奴の侵攻により分裂。紀元1世紀にはインドのクシャン王朝に支配され、クシャン王国滅亡後は数多くの公国に分裂し、6世紀にはテュルク系民族の統一国家・突厥がビサンチン帝国の後ろ盾を得て中央アジアを治めます。その支配下で、サマルカンドはソグド人がアフラシブの丘に営々と町を再建し、シルクロードの繁栄を象徴する存在となりました。

 

 7世紀、この地を訪ねた玄奘三蔵は西域記で「周囲が1600~1700里あり、東西が長く、南北が狭い。国の大都城は周囲20里あまり。非常に堅固で住民は多く、諸国の貴重な産物がこの国にたくさん集まる。土地は肥沃で農業が十分に行き届き、木立はこんもりとし、花や果物はよく茂っている。良馬を多く産出し機織りの技は特に諸国より優れている。すべての胡国の中心であり、進退礼儀は遠近の諸国とともに、ここにその手本をとるのである。王は剛勇の人で兵馬は豪勢。性質は勇烈で死を視ること帰するがごとく、戦って前に敵がないほどである」と紹介しています。王はソグド固有のゾロアスター教を信仰し、謁見した玄奘も最初は冷遇されましたが、王のために仏教の功徳を粘り強く説き、布教が許されます。

 ちょうどこのころ、アラビア半島で誕生した新たな一神教=イスラム教を布教させるべく、アラブ人勢力が急拡大します。712年、サマルカンドはアラブの総督クタイバに攻略されて陥落。必死に抵抗していたサマルカンドのグレク王は多額の賠償金を支払い、市内にモスク建設を許可し、ソグド兵は置かないことで和睦を結びます。その後、中央アジア民族の抵抗がしばらく続きますが、やがてイスラム勢力に掃討され、それまでのゾロアスター教、仏教、マニ教、キリスト教、その他現地信仰が守ってきた人物や動物の像は「偶像崇拝」として一掃され、貴重な書物も焼かれてしまいました。


 8~12世紀、中央アジアを支配したアラブのサーマーン朝、カラハン朝、セルジューク朝の時代、サマルカンドやブハラには多くのイスラム寺院や神学校が建設され、シルクロードに数多くのキャラバンサライ(隊商宿)や貯水池が作られました。ソグド人もしたたかに町を繁栄させてきたのですが、13世紀、チンギス・ハーンのモンゴル帝国登場によって、ソグドが築いたサマルカンドの栄光は風前の灯火に。

 1220年、モンゴル軍はサマルカンドに侵攻。12万人のソグド人が殺戮され、アフラシャブの丘は無人の廃墟と化しました。13世紀後半から14世紀前半、中央アジアはチンギス・ハーンの長男ジュチと二男チャガタイ、その子らの支配下に。チャガタイの子孫はイスラムに親和的となり、遊牧系のモンゴル貴族との軋轢を生んで内部分裂を引き起こし、モンゴル一強の時代は後退していきます。


 サマルカンドを蘇らせたのは、1336年、サマルカンド近郊に生を受けた英雄ティムールです。父親はモンゴル系部族バルラス一族出身。少年の頃からテュルク語とタジク語を自由に話し、一族の中で頭角を現し、無政府状態のもと各部族をとりまとめ、34歳のとき権力を掌握。イスラム聖職者の支持を得てチャガタイ・ハン国の後継者を宣言しました。

 彼は1405年に病死するまで中央アジア各地で破壊や殺戮を繰り返し、首都サマルカンドに各地から連れ帰った職人、芸術家、学者を住まわせ、町の建設に従事させます。ウズベキスタンでは「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」が定説。今回、私たちが見学したモスクや霊廟も、ほとんどがこの時代に建造されたものでした。

 ソグド、ギリシャ、ペルシャ、アラブ、モンゴル・・・さまざまな民族が生き残りをかけて戦い、混じり合ったサマルカンドは、他民族との接点が極少だった日本人には想像のつかない歴史を背負った町。最後に権力を掌握した者が過去を一掃してしまうのは歴史の常かもしれませんが、できうれば、ソグド人のような、したたかに生き延び、シルクロードを繁栄させ、時空の彼方に消え去った民族の足跡に触れてみたかったな、と思います。

 中央アジア史研究の大家・加藤久祚氏の名著『中央アジア歴史群像』には、こんな諺が紹介されていました。

「思い出が残るように生きよ、お前がこの世から去るときに、この世がお前から解放されるのではなくて、お前がこの世から解放されるように生きよ」



 さて、我々が最初に訪れたのは、ティムールとその一族が眠るアミール・ティムール(グル・アミール)廟。グル・アミールとはタジク語で支配者の墓という意味です。もともとティムールが若くして戦死した孫ムハンマド・スルタンのために建てた廟で、建造して1年後にティムール自身も亡くなり、ともに葬られました。右下の写真、真ん中の黒い棺がティムールの墓石です。

 

 次いで訪れたレギスタン広場は、チンギス・ハーンの侵攻でアフラシャブから移転を余儀なくされたサマルカンドの公営広場。「ウルグベク・メドレセ」「シェルドル・メドレセ」「ティラカリ・メドレセ」という3つの神学校がコの字に並んでいます。1420年に建てられた最も古いウルグベク・メドレセ(写真左側)は、ティムールの孫で天文学者ウルグベクが建てたもの。聡明で人格者だった彼は、ここに100名以上の学生を寄宿させて自ら教鞭を取り、貧しい子どもたちにも数学や天文学を教えたそうです。

 アーチの両サイドに建つミナレット(尖塔)に有料で登れると聞いて、お上りさん気分で挑戦。ビックリするような急階段で縄に捕まらなければ進めず、翌日はしっかり筋肉痛になってしまいました。

 京都や奈良の仏教寺院の大伽藍で、時々、岩登りでもさせられるような急階段を見かけますが、宗教施設に共通した“修行スポット”なのかもしれませんね。(つづく) 

 

 

<参考文献>

〇エドヴァルド・ルトヴェラゼ著『アレクサンドロス大王東征を掘る』

〇加藤九祚著『中央アジア歴史群像』

〇安田暎胤著『玄奘三蔵のシルクロード』

〇ジュリボイ・エルタザロフ著『ソヴィエト後の中央アジア』

〇地球の歩き方・中央アジア~サマルカンドとシルクロードの国々編


 


バスに乗って逝った父

2018-01-07 13:27:02 | 日記・エッセイ・コラム

 ウズベキスタンレポートの連載中ですが、ひと言お礼とご報告を。

 実は昨年大晦日、父が急逝し、2日(火)に通夜、3日(水)葬儀という慌ただしい年明けとなってしまいました。享年84歳。初七日にあたる6日(土)は朝日テレビカルチャー地酒講座で蔵見学引率の仕事が入っていて、訪問した富士高砂酒造(富士宮市)の仕込み蔵に安置されている富士山頂下山仏を拝ませていただき、少し落ち着きましたのでご報告申し上げます。

 

 

 父の訃報は時期が時期なので親族だけに知らせ、こじんまり送ることにしたのですが、3日葬儀後の祓いの食事(仕出し弁当)を頼めるお店が、葬儀社さんでも見つからず、やむを得ず31日夜、フェイスブックにSOSを出したところ、多くの皆さんから情報提供&弔意をいただき、お店も無事見つかりました。偶然、しずおか地酒研究会でもお世話になったことのある両替町の日本料理「新」(あらた)さんでした。

 

 通夜や葬儀には、わざわざ日時と会場を探して参列してくださったり、お花や弔電を送ってくださる人もいらっしゃいました。酒造繁忙期にもかかわらず葬儀に駆けつけてくださったり、わが家へ直接お線香を上げに来てくださったり、御香典を郵送してくださった蔵元さんもいらっしゃいました。自分はその方々に一方的にお世話になっていたものと思っていましたので、思いがけないご厚情に感謝の言葉が見つかりません。こういうときに行動してくださった方々との絆を再認識させてくれた意味で、父にも感謝しなければと思います。本当にありがとうございます。

 父には心臓の持病があり、一昨年、運転免許を返納してからは家に引きこもりがちになり、足腰も弱っていました。実家には障害を持つ弟もいますので、母一人に世話をさせるのは大変ということで昨年11月に私も実家へ居を移し、久しぶりに家族4人の生活を始めました。

 昨年末は私が日替わりで買ってくる蔵の新酒を、父は「まみちゃんの酒はどれも美味しいなあ」と言って喜んで晩酌していました。私が西武池袋本店の仕事で1週間留守をしていたときは、私の酒ストックには手を付けず、安いパックの焼酎でガマン?していたようで、私が戻ってからは、夕方、私が仕事から帰って酒瓶を取り出すのを、まるでおあずけをくらうワンコのように(笑)待っていました。

 直前まで何の異変もなく、亡くなる3日前には一人でバスとJRに乗って用宗漁港の直売所までシラスとサクラエビを買いに行き、亡くなった当日も朝は普通に一緒にご飯を食べて、9時過ぎに清水の河岸の市に魚を買いに一人でバスに乗って出かけたのでした。母と弟もそれぞれ大晦日の買い出しに出かけ、私は家で留守番をしながらウズベキスタン視察記を書いていた10時前、静岡市立病院から、父が心停止の状態で運ばれたとの電話。取り急ぎ一人で病院に駆けつけたところ、1時間近く心臓マッサージを受けている状態で、家族の同意がなければマッサージは止められないと言われ、母に連絡が取れない状況での判断に、一瞬、逡巡したものの、「わかりました」と同意をしました。

 担当医や警察の説明によると、バスがJR静岡駅に到着したとき、乗客から「座席で寝ている人がいるよ」と報告を受けた運転手さんが異変を察して救急車を呼んでくれたようです。・・・美味しい酒の肴を探しに出かけたまま、逝っちゃったんですね。

 

 父は長年、県の土木技師として、静岡県内の道路や橋の建設保守に携わっていました。人付き合いが下手で、県庁内では出世コースから完全に外れ、土木事務所の支所勤めで終わった人ですが、山に入って道なきところに道を造り、橋を架け、市街地では難しい用地交渉をして道路を拡張する仕事に終始、現場で汗を流しました。自然災害が発生すれば休みなしの復旧作業にも従事したものです。

 私が駆け出しライターのころ、SBSの情報番組『そこが知りたい』で働くお父さんのお弁当をリサーチをしていたときに道路工事現場の親方を紹介してくれて、その親方から「あんたのお父さんは早朝でも休みの日でも現場に来て気が済むまで点検するんだよ、こっちも気が抜けないよ」と苦笑いされたことがありました。シンガポールのツアー旅行に参加したときは、自己紹介タイムで「トラックの過積載が道路を痛め、事故のもとになる。荷物の詰め込み過ぎには注意してください」と場違いな挨拶をしてこちらが恥ずかしい思いをしましたが、今思えばそれくらいの仕事人間だったのでしょう。父が手掛けた道路は、私が知っている限りでは安倍奥の俵沢、西伊豆の松崎~下田、西富士道路、焼津の大崩海岸周辺等々。これら付近を通るときは父を偲んでくださいと、施主挨拶で紹介させていただきました。

 道を造るという仕事は、私のような気楽な稼業に比べると、はるかにプレッシャーの大きい仕事だったと思います。休みの日には一人で山に登って写真を撮ったり、時刻表を片手に鉄道路線めぐりをするのが、父の唯一の趣味でした。団体行動が苦手で友人も少なく、定年後は母が山登りに付き合うようになりましたが、心臓の手術を2回やってドクターストップをかけられたのが父の気力を失わせたのだと思います。ちなみに母は60歳を過ぎてから父に付き合った登山に魅了され、日本百名山を踏破し、80歳を超えた今でも月3~4回、登山仲間とウォーキングに出かけています。

 父の手帖には、罫線に沿ってびっちり、その日の行先、距離、時間が記録されていました。登山に行くときも、近所に買い物に行くときも同じ。土木技師らしい記録習慣がそのまんま、残っていたようです。もう一度見たいなと思ったのですが、葬儀後、父の私物を片付けていた母が「あんな意味の分からない数字だらけの手帖なんて捨てちゃったよ」とひと言。女は勁いなあと苦笑いするしかありません。

 生前、父は終活の話を嫌がり、いざというときのことを何も決めていなかったため、病院で渡された葬儀社リストを参考に、昔、親戚が使ったらしい葬儀社に頼み、お経をあげていただくお寺さんはその葬儀社から紹介してもらいました。日頃から自分は仏教に親しんでいたのに、こんなとき何も役に立たないと情けなくなりましたが、紹介されたお寺が、偶然、臨済宗妙心寺派で、自分がいつも坐禅のときに読経している『大悲呪』『白隠禅師坐禅和讃』で送っていただき、『冬山弘真信士』(俗名・鈴木弘敏)というシンプルで分かりやすい戒名を授けていただきました。旅立ったのが、白隠遠忌250年の2017年大晦日の静岡駅前ですから、もしかしたら白隠さんのお近くへ行けたかもしれない、なんて妄想しました。有難い仏縁です。  

 新さんがご用意くださった祓いのお弁当は、市場がお休みで食材が少ない時期とは思えない味わい豊かなお弁当で、父が最期に残した豪華な酒肴だな、と思いました。

 

 フェイスブックのコメントでは多くの皆さんから「幸せな最期だね」と言われました。はいそうですね、とすぐに返せる心境にはまだ至っていませんが、こうして記録し、個人の“死”を、個人の歴史の“史”として物語化していくことで、心の底から父の旅路が幸運だったと実感できるのかもしれません。改めて皆さまのご厚情に心より感謝申し上げます。

 

 


ウズベキスタン視察記(その4)~日本大使館訪問

2018-01-05 20:54:52 | 旅行記

 私たち一行は10月14日夜、タシケント郊外にある日本大使公邸を訪問し、伊藤信彰大使の歓待を受けました。公邸の建物は欧州風ですが、床には箱根の寄せ木細工が施され、雛人形や東山魁夷・平山郁夫の絵画がディスプレイ。くつろいだ雰囲気の中、大使からウズベキスタンの国情についてレクチャーをしていただき、大使館付きの日本人シェフが用意してくださった和食をありがたく戴きました。大使からは直接、ウォッカの味わい方のご指南も。ウォッカは、大使館で提供するような高級品はロシア産。ウズベキスタン産は庶民向けの「地酒」だそうです。

 

 

 ウズベキスタン国内には140人の邦人が暮らしており、うち35人がJICA関係者、20人が大使館関係者。残りが民間人ということで、現在、27の民間企業が法人登録しています。主なところでは三菱商事、伊藤忠、丸紅の各商社、日立や日立造船、三菱重工、川崎重工、三菱東京UFJ等。日本政府のODAによってナボイ発電所の近代化、トゥラクルガン発電所の新設、アムブハラ灌漑施設リハビリ計画等が進み、JICAの技術協力では医療器材の供与、弘前大学等が高品質のリンゴ(ふじ)の技術指導を行っています。本格的な民間投資はこれからのようで、ウズベキスタンにとっては陸続きのロシアと中国が「象」、韓国が「馬」並みの存在ならば、日本はまだまだ「蟻」に過ぎないそう。あらら。

 ウズベキスタン経済は2015年の数字でGDPは660億ドル、経済成長率は6,8%、物価上昇率は9,8%。貿易輸出額は129億ドルで、ガス30億ドル、サービス30億ドル、農産・食料品13億ドル、綿花・糸・布7億ドル、自動車2億ドルという内訳です。一方、輸入額は124億ドルで機械設備50億ドル、化学品等が21億ドル他。貿易相手国は①中国、②ロシア、③カザフスタン、④韓国という順番です。日本はウズベキスタンから1億ドルの輸入がありますが、99%が「金」だそうです。

 

 独立後のウズベキスタンを指揮したカリモフ前大統領(2016年9月死去)は、経済パートナーとして中国に建築土木、ロシアに交通インフラ、電力&ITを韓国と日本、というように上手に棲み分けをしました。

 韓国が「馬」で日本が「蟻」なのは、第二次大戦中、朝鮮半島から30万人が日本の支配を逃れて内陸のこの地までやってきて定住し、市民権を得たため。タシケントには韓国料理の店はたくさんありますが、日本料理の店は皆無です。もちろん日本酒が飲める店もゼロ。ありゃ~ですが、今後は日本食や日本酒が進出する余地は十分ありそうです。ウズベク人は緑茶や紅茶を好むそうで、静岡茶を提供する機会があったら、大いに人気を集めるだろうと思いました。

 電力インフラでは三菱や日立が頑張って発電所を続々建設し、いすゞ自動車と伊藤忠が現地企業と設立した合弁会社サムオートは乗り合いバスや小型トラックを年間4000~5000台造っています。IT関連ではNECとオガワ精機等が地デジTVプロジェクトの契約を獲得し、ユニ・チャームはウズベキスタン最大のスーパーマーケットチェーン「カルジンカ」にロシア商社を通しておむつを輸出、島津製作所は約120の病院にX線設備を輸出し高い評価を受けています。2017年9月に為替交換・外貨送金の自由化が実現したため、投資環境は徐々に改善されていくだろうと大使も期待を寄せています。

 乗用車に関してはGMウズベキスタンが大きなシェアを持っていますが、トヨタもレクサスのディーラーをタシケントに開店準備中。200%という高額な関税がネックながら、中央アジアの人口の40%を占め、出生率は日本の3倍、若年層が年に50万人も増加している国ですから、市場はもちろん、日本への理解や関心の広がりも大いに期待できると思います。

 伊藤大使は「ウズベキスタン人の対日感情は、どの国よりも良い。日本製品にも絶大な信頼を寄せている」と明言されました。要因の一つは、1945年から46年にかけ、この地でインフラ整備に従事した日本人抑留兵812人の功績。厳しい労働環境の下でも与えられた仕事に全力を尽くす姿に、当時のウズベク市民も感銘を受けたとされています。その代表例が『国立ナヴォイ劇場』(後に詳しく紹介します)。カリモフ前大統領も幼い頃に日本人の真摯な姿を目にしていたそうです。この地で永眠した日本人を慰霊する墓地は国内に13カ所。いずれも現地の人々が大切に維持管理してくれています。

 軍事はロシアの影響下に置かれています。プーチン大統領は一時、アメリカの接近を許したものの、カリモフが反政府勢力に武力行使したことを欧米が批判し、アメリカとの関係も悪化。今はふたたびロシア寄りに戻っているようです。

 国際ジャーナリスト伊藤千尋氏の『凛とした小国』には、カリモフのことを欧米メディアが「最も残酷な独裁者」と呼ぶ、と書かれていました。野党が許されない独裁国家で警官の数が樹木の数よりも多く、つい最近までイスラム原理主義運動のテロが何度も起きて大統領が暗殺される寸前だったと。

 中央アジアは基本的にイスラムの国ですが、岩崎一郎氏他編の『現代中央アジア論』によると、ソ連は20世紀初頭までこの地に反イスラムと共産主義を徹底させ、第二次大戦後は逆にイスラムに寛容な姿勢を取って「ソ連が欧米よりも信頼できる友邦である」と誇示。ソ連崩壊後、イスラム教は各民族の伝統文化の一部と位置づけし、ソ連時代は断絶していたスーフィズム(イスラム神秘主義)の墓廟等も整備されましたが、カリモフ政権はイスラム原理主義の台頭を強く警戒しました。とくにカリモフ政権に対してジハード宣言をしたウズベキスタン・イスラム運動(IMU)の動きは過激で、指導者ヨルダシュとナマンガニーは1999年、隣国キルギスでJICAから派遣された日本人鉱山技師らを拉致する事件を起こします。タジキスタン政府が仲介に入って約2か月間の交渉の末、人質は無事救出されました。

 

 このような環境下で経済を立て直し、社会を安定させなければならないカリモフ前大統領が強権をふるうのも無理からぬように思えます。今回の旅でも、現地の人々から彼が独裁者だったという声はほとんど聞かれず、強力なリーダーシップを発揮して国を立て直したカリスマ、という印象を受けました。

 「ウズベク人は周辺諸国に比べて勤勉で真面目。一度言われたことはきちんと覚えようとします」と伊藤大使。いすゞ自動車が出資したサムオートでは、日本とインドネシアのいすゞ工場から取り寄せる部品を組み立てる作業が中心ですが、勤勉で真面目な国民性が大いに発揮され、丁寧な仕事が評価されているそう。同社には4日目に直接訪問しましたので、追ってご報告します。(つづく)

 

 

 

 

 


ウズベキスタン視察記(その3)~タシケントの独立広場

2018-01-04 22:36:54 | 旅行記

 10月14日、タシケント2日目は日中は市内観光、夜は在ウズベキスタン日本大使館訪問&晩餐会というスケジュールでした。

 前回記事でご紹介したように、〈石の都〉という意味のタシケント。最初に足を踏み入れるシルクロードの都市だけに、石畳のそれっぽい伝統的な街並みをイメージしていたのですが、豈図はからんや、アスファルトの道路が広くまっすぐに整備され、シボレーが行き交い、街路樹が整然と立ち並んだ近代都市でした。私たちが泊まったホテルも日本の永田町みたいな首都中枢エリアにあったせいか、交差点の要所要所には警官が立ち、写真撮影を厳しく取り締まっていて、早朝から街路樹の落ち葉を清掃する市民を数多く見かけました。・・・そうか、旧ソ連の国だったんだなとカメラを引っ込めて目にしっかりとその光景を焼き付けました。

 タシケントは19世紀に帝政ロシアの支配下になってロシア人が大量入植した後、整然と区画整理が行われ、街を流れるアンホール運河を境にロシア人街とウズベク人街に分割統治されました。さらに第二次世界大戦後の1966年4月26日、タシケントを直下型大地震が襲い、街の建物の大半が崩壊すると、ソ連邦から投入された3万人の労働者がわずか数年で近代都市に造り替えたのです。この頃から急激に人口が増加し、タシケントは、ソ連邦の中ではモスクワ、キエフ、サントペテルブルグに次ぐ4番目の都市になりました。

 サマルカンド大学ジュリボイ・エルタザロフ氏の『ソビエト後の中央アジア』によると、ウズベキスタンは旧ソ連内では生活水準が最も低く、人口の45%は貧困レベル以下。持ち家を持つ人は44%、就学率は57%、人口の半分以上が幼児・児童・学生・年金受給者で、トータルでは人口の3分の2が国家の援助を必要としていたのです。社会主義体制の足枷をしっかり抱える国だったのですね。

 ペレストロイカと民主化運動によってソ連の弱体化が始まると、連邦崩壊を食い止めようとモスクワ指導部が主権国家連合として刷新を打ち出します。宇山智彦氏の『中央アジアの歴史と現在』によると、このとき中央アジア各国は連邦維持の下で権限拡大を考えていたそう。バルト三国やウクライナのような剥き出しの民族運動は起きなかったのです。しかし時代の流れは止められず、91年8月、ソ連保守派のクーデターが失敗してソ連解体が決定的となり、8月31日以降、各共和国が続々と独立を宣言。ウズベキスタンも9月1日に独立共和国となり、ウズベキスタン共産党第一書記だったイスラム・カリモフが大統領に就任しました。彼は旧ソ連の負の遺産ともいえる深刻な社会保障問題に直面します。

 

 タシケント市内観光の1カ所目は、その、独立建国の象徴となったムスタキリク(独立)広場。広々とした緑地公園になっていて、朝6時から市民が清掃活動をしていました。広場の一角には戦没者慰霊碑と母子像、そして戦没者・行方不明者の名前を記したおびただしい銅板の記録。ウズベキスタンは第二次世界大戦で100万人がソ連軍に徴兵されたのです。戦争慰霊碑は全国144カ所に置かれていますが、ここは首都だけあって戦没者・行方不明者の全名簿を記録。独立から7年後の1998年に設置されました。

 ソ連時代には造れるはずもなかったであろう、ウズベキスタン国民のための慰霊碑。これを設置したカリモフ大統領には、ソ連の社会主義体制に依存していた国民の意識を改革する意図もあったのでしょう。シンボルとなった像が、戦争や独立の英雄ではなく母の像だというところに、独立後の困難な道のりに臨むリーダーの思いと覚悟のほどが汲み取れます。

 

 今もウズベキスタンでは国家予算の多くを防衛費に充てていて、ロシアの影響下に置かれています。ウズベキスタン軍には4万6千人の兵士が所属しており、国民は18歳から27歳までの間に2年・1年半・1年と3種類の徴兵制が課せられていますが、軍隊から戻ってきて大学を受験するときは試験時にプラス20%の得点が与えられるとか。また1000ドルを払えば1か月で戻ってこられるという裏技も。ただし、運悪く戦争が勃発すれば真っ先に最前線に送られる、とガイドさんは苦笑いしながら教えてくれました。

 

 次いで訪ねたのは、16世紀のシャイバニ朝時代に建てられたバラク・ハン・メドレセ。イスラム教の神学校です。ソ連時代には中央アジアのイスラム本庁が置かれていましたが今では土産物店(苦笑)。向かいにはタシケントの金曜モスクといわれるハズラティ・イマーム・モスク。隣接するコーラン博物館には、7世紀、鹿皮に書かれた世界最古のコーランが展示されています。預言者ムハンマドや玄奘三蔵が生きていた頃か・・・時空を一気に飛び越えた気分です。

 このメドレセやモスクは、私にとって最初にふれるイスラム建造物ですから、アーチやミナレット(尖塔)、アラビアのモザイク模様の幾何学的な美しさに歓声を上げ、すっかりおのぼり観光客になってしまいました。

 ご承知の通りイスラム教徒は一日5回=日の出(BOMDOD)・午後1時(PESHIN)・午後3時50分(ASR)・日没)(SHOM)・夜7時40分(MUFTON)、メッカに向かってお祈りします。5回という回数は義務ではないそうですが、金曜日の13時は必須。会社勤めの人も金曜日は12時から14時まで休憩時間になるそうです。

 

 昼食は初めてのウズベキスタン料理。牛や羊の肉食をイメージしていましたが、意外にもお野菜たっぷり。トマトはどのレストランでも必ず使われていて、お豆類も豊富。ダイエットしていた頃にカロリー制限レシピでよく使っていた食材が多く、ありがたかったです。でも油も結構使われていて、毎食では胃が疲れるかな。中央アジアの主食はナン。サマルカンド・ナンというパイのような厚みのあるナンがウズベキスタン風のようです。

 ホテルに戻って小休止した後、日本大使館を表敬訪問しました。ここで2016年8月から駐ウズベキスタン日本国特命全権大使を務める伊藤伸彰氏より、ウズベキスタンの国情についてレクチャーを受けました。続きはまた。