10月13日 NHK海外ネットワーク
アフガニスタンはかつて農業立国だった。
小麦は乾燥に強い在来種のおかげで100%近い自給率だった。
しかし長引く戦乱で小麦畑は荒れ果て
農家の多くも国外に避難したため生産量は激減した。
(小麦農家 アサドゥラさん)
「40年前はあたり一面小麦畑だった。
生産量も多かった。
子どもも畑仕事を手伝ってくれていい思い出もたくさんある。」
アフガニスタン北部で代々小麦を栽培してきたアサドゥラさんは
戦火を逃れ隣国パキスタンへ避難していたが
9年前に帰国し小麦づくりを再開した。
(小麦農家 アサドゥラさん)
「カルザイ政権が誕生し
国際社会が農業を支援してくれると聞き期待していた。」
しかしいざ栽培を始めると思わぬ壁にぶつかった。
(アサドゥラさん)
「これがアメリカから提供された種子。
水があればよく育つがここは水が少ないので育ちが良くない。」
アフガニスタンは雨が少なく大半の畑でかんがい施設が整備されていない。
乾燥に弱い品種だったため見込んでいた量のわずか2割しか収穫できなかった。
子ども7人を抱えるアサドゥラさんは
このままだと乾燥に強く高値で売れる麻薬の原料のケシの栽培に
手をださざるを得ないと考えている。
(アサドゥラさん)
「小麦を栽培し続けても十分な稼ぎは得られない。
政府や国際社会の新たな支援がなければケシ栽培をするしか生きる道はない。」
青々とした小麦が一面に広がる昔のような風景は二度とみることはできないのか。
ところが思いもよらぬ場所から希望の光が差し込む。
アフガニスタンから約6千キロ離れた日本の横浜市立大学。
「ここにあるのがアフガニスタンから1955年に採ってきた小麦の遺伝資源。
それがすべて穂の形で保存してある。」
半世紀以上前にアフガニスタンで採取された在来種の小麦が保存されていた。
この小麦は1955年に
小麦のルーツを探るためアフガニスタンを訪れた日本の探検隊が採取したもの。
アフガニスタン全土をくまなく回り
500種類近い小麦を日本に持ち帰っていたのである。
保存と研究の責任者である横浜市立大学 坂智弘教授は
持ち返った小麦なら今のアフガニスタンの環境でもでも適応できるはずだと考え
現地での栽培に乗り出した。
(横浜市立大学 坂智弘教授)
「戦争・内戦ですべてなくしてしまったアフガニスタンに何ができるのだろう。
研究を現場に戻す。
役立たせたい。」
去年11月 アフガニスタン政府と協力して初の種まきを行った。
蒔いたのは保存されていた小麦から増やした342種類の種子。
一粒でも多く順調に育った欲しいと祈るような思いで収穫の時を待った。
それから約8か月後
青々と大きく育った小麦と一方で病気にかかって変色した小麦もあった。
それでもほぼすべてが順調に育った。
現地のスタッフたちは実の大きさや量など生育状況を確認した。
(現地スタッフ)
「小麦がまたアフガニスタンに戻ってきた。
感激している。」
坂教授も収穫に合わせて現地を訪問。
予想以上の成果が上がったと報告を受け手ごたえを感じた。
来年からは
病気や乾燥に強く実をたくさんつけるものを交配させ
新たな品種の開発を始める。
(横浜市立大学 坂智弘教授)
「干ばつに強く質の高い品種の遺伝子をかけあわせて
“スーパー小麦”をつくりましょう。」
(現地スタッフ)
「ずいぶん時間がかかったが
半世紀ぶりに在来種の小麦が復活して感激している。
アフガニスタンと世界のためにこのプロジェクトをなんとか成功させたい。」
乾燥した大地で力強く育った希望の小麦。
坂教授はアフガニスタンの人たちに品種改良の技術を伝え
この小麦を全土に広げてほしいと願っている。
(坂教授)
「大変なところでも食料・小麦が生産できて人々が食べられる。
それが目指すところ。
50年ぶりに小麦栽培の材料を返してそこから1歩進めた。
それは最初の1歩であり
これから10年20年の最初のステップなのかなと感じている。」
アフガニスタンの治安回復の兆しは見られない。
それが復興の妨げとなっている。
日本は農業分野を中心に支援を続けてきた。
小麦以外にも稲作の技術指導も行っていて
JICAによると試験場でのコメの生産は3倍に増えたということである。
人材育成にも力を入れており留学生の受け入れも行っている。
そうした支援が実を結び
再び緑豊かな国になるかどうか
治安の回復にかかっている。