評価点:74点/2005年/イギリス
監督:フェルナンド・メイレレス
自分の罪に対する無関心さ。
アフリカのアメリカ大使館に勤める外交官(レイフ・ファインズ)は、いきなり妻(レイチェル・ワイズ)の死体が発見されたことを告げられる。
意味も分からず妻と再会した彼は,妻が殺された原因を探そうとする。
妻が何をしようとしていたのかを知るうちに、アフリカをとりまく巨大な陰謀が見えてくる。
どんな話か全然聞かされずに見に行くことになった一本。
アフリカの現実を描いた社会派のドラマである。
こういう類の映画が好きでないなら、見るきではない。
宣伝用のポスターなどから「愛のドラマ」のような、甘美な印象を受けるが、実際には痛烈な社会的視座を持ったドラマである。
映画自体は良い出来である。
社会派のドラマにはどうしても賛否両論ができてしまうものだ。
アフリカについて興味があるなら、あるいはこういう類の映画が好きなら、十分見応えのある映画である。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は二本の時間軸を持っている。
一つは、現在、つまり夫が生きている時間軸であり、もう一つは妻が体験したはずの過去の時間である。
この二つの時間軸が交錯しながら、妻が死んでしまった真相を明らかにしていく。
「過去」の真相を探す映画でありながらも、全く無知だった夫を通して体験するため、話について行けなくなることはない。
また、この映画が巧みなところは、社会的な視座を持つ映画でありながら、それを体験する人物は徹底的に個人的なモチティベーションで行動する。
いわば、彼は「世直し」を敢行するのではなく、「アイデンティティの確立」や「恋の成就」を求めるのである。
だから、アフリカやアメリカの製薬会社の事情に明るくない人にとっても、感情移入しやすく、見に迫った問題のように感じやすい。
「愛のドラマ」に仕組まれた社会問題や国際問題を照射するのである。
この映画がすばらしいと感じた人は、この辺りの監督の手腕にはまったということである。
逆にこの映画が好きになれなかった人は、その手法が「温い」と感じた人だろう。
夫は死体を目の前にしながら、犯人の追跡と、真相の解明を誓う。
時間軸は一気に過去の回想へと転換され、妻が流産するまでのくだりが想起される。
妻は、夫と出会い、夫の誠実さに惹かれ、結婚に至る。
いよいよ妊娠し、これから、という時に妻は流産してしまう。
そのとき、夫の目線から見れば、妻は情緒不安定になり、何かに追われるような生活になっていく。
夫はその様子をみて、全ての原因は妻の流産にあると思う。
妻は仕事を本格的にはじめ、疲れた様子を見かねた夫と度々口論となる。
やがて、妻の仕事を手伝っていた使用人との間が噂されるようになる。
夫は調べていくうちに、妻の仕事を徐々に知っていく。
それは、製薬会社がアフリカ人たちを使い、新薬の実験をしていたのではないか、ということだった。
彼女がヒステリックに夫にあたるときは、いつも「スリービー」(=三匹の蜂)のマークがあったことに気付く。
妻が関わってきた人間たちと、残された資料をもとに、妻が追っていた巨大な裏の側面を、夫も目撃することになる。
ケニアで大規模に行われていた実験の新薬は、大きな欠陥があった。
しかし、それを再び研究しなおすには莫大な利益を失うことになる。
その欠陥によって流産した妻は、その物的証拠を手に入れようと東奔西走していたのだ。
夫はその事実に気付き、政府高官が関わっているという証拠をつかむ。
そして、妻と同じように、同じ場所で、雇われた賊に殺されてしまう。
この映画は、夫の妻への愛が満ちている。
そのため、仰々しくならずに、さらっと、そして痛烈に社会批判が込められている。
その意味で、見ていて辛い映画であり、日本人の僕でさえ、その多くの犠牲の上にいるのだろうと身に迫るものがある。
ラストで、真相が明らかになるころ、泣きそうになった。
同時に、この映画は僕たち先進国の人間に「泣くことを赦さない映画」なのだろうという気もする。
当事者でないと断言することはできない。
やはり間接的であれ、その利益をむさぼる一人であることは間違いない。
血塗られた実験によってできた薬を購入し、病気やけがを治す以上は。
その意味で、夫という個人的な動機で動いた人物を通して国際問題に触れたのは正解だったのだろう。
だが、この映画には見落とされている点がある。
それこそが、最大の批判の対象であるにもかかわらずだ。
それは、夫がどれだけ妻を愛していようと、彼は無関心だったということだ。
夫は妻の現実を知るたびに、「君を信じてやれなかった僕が悪いのだ」
「僕は君を疑ってしまった」と後悔する。
だが、彼の後悔するポイントは決定的にずれている。
彼が後悔するべきは、「なぜあのとき気付いてやれなかったのか」である。
あるいは「なぜいっしょに闘ってやらなかったのか」である。
彼は妻が死ぬ前までは、妻の行動に無関心で、悩みや仕事を共有することをしなかった。
妻が夫に迷惑がかからぬように、と配慮したためであっても、夫はそこに介入し、ともに闘うべきだったのだ。
それを、死んでから真相を追ったとしても、それは文字通り「後の祭り」だ。
彼は妻を愛しているといいながら、それを行動で示すのは、妻が死んでからという矛盾を抱えている。
それではもう遅いのだ。
疑うもなにも、彼は関心さえ持っていなかったではないか。
それで本当に彼女を愛していたと言えるのだろうか。
しかも、それがこの映画を見る人々全員に共通する、「課題」であることがいただけない。
つまり、どんな卑劣で偽善に満ちたことを先進国がしているか、日頃から目を向けようとしない人々が「感動した」と喜ぶのだ。
そこには大きなアイロニーが含まれている。
自分達の無自覚な罪に対して、「それはいけない」と感動するのだ。
何とも矛盾してるではないか。
夫が無関心であったように、僕たちもまた、そういう惨状には無関心だ。
だとすれば、夫に感情移入してしまうこと自体が、僕たちの罪そのものなのではないか、という気さえする。
もし、この映画にそのような視点を持たせてしまうと、一気に、感動できる余地を失う映画になっただろう。
自己嫌悪を感じるだけの、観客にとって自虐的な映画になっただろう。
その意味で、この外交官という人物造形は、ぎりぎりのところだったのかもしれない。
もし、そこまで考えてアイロニカルにこの夫を設定したとしたら、この監督は思慮深い人なのだろう。
この映画に感情移入できなかった人は、ある意味ではこの「夫」ではなかったということだ。
映画を観て泣きそうになった僕は、この夫のように世界に無関心だったのだ。
そんな僕に彼をを批判する資格はないのだ。
(2006/7/9執筆)
監督:フェルナンド・メイレレス
自分の罪に対する無関心さ。
アフリカのアメリカ大使館に勤める外交官(レイフ・ファインズ)は、いきなり妻(レイチェル・ワイズ)の死体が発見されたことを告げられる。
意味も分からず妻と再会した彼は,妻が殺された原因を探そうとする。
妻が何をしようとしていたのかを知るうちに、アフリカをとりまく巨大な陰謀が見えてくる。
どんな話か全然聞かされずに見に行くことになった一本。
アフリカの現実を描いた社会派のドラマである。
こういう類の映画が好きでないなら、見るきではない。
宣伝用のポスターなどから「愛のドラマ」のような、甘美な印象を受けるが、実際には痛烈な社会的視座を持ったドラマである。
映画自体は良い出来である。
社会派のドラマにはどうしても賛否両論ができてしまうものだ。
アフリカについて興味があるなら、あるいはこういう類の映画が好きなら、十分見応えのある映画である。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は二本の時間軸を持っている。
一つは、現在、つまり夫が生きている時間軸であり、もう一つは妻が体験したはずの過去の時間である。
この二つの時間軸が交錯しながら、妻が死んでしまった真相を明らかにしていく。
「過去」の真相を探す映画でありながらも、全く無知だった夫を通して体験するため、話について行けなくなることはない。
また、この映画が巧みなところは、社会的な視座を持つ映画でありながら、それを体験する人物は徹底的に個人的なモチティベーションで行動する。
いわば、彼は「世直し」を敢行するのではなく、「アイデンティティの確立」や「恋の成就」を求めるのである。
だから、アフリカやアメリカの製薬会社の事情に明るくない人にとっても、感情移入しやすく、見に迫った問題のように感じやすい。
「愛のドラマ」に仕組まれた社会問題や国際問題を照射するのである。
この映画がすばらしいと感じた人は、この辺りの監督の手腕にはまったということである。
逆にこの映画が好きになれなかった人は、その手法が「温い」と感じた人だろう。
夫は死体を目の前にしながら、犯人の追跡と、真相の解明を誓う。
時間軸は一気に過去の回想へと転換され、妻が流産するまでのくだりが想起される。
妻は、夫と出会い、夫の誠実さに惹かれ、結婚に至る。
いよいよ妊娠し、これから、という時に妻は流産してしまう。
そのとき、夫の目線から見れば、妻は情緒不安定になり、何かに追われるような生活になっていく。
夫はその様子をみて、全ての原因は妻の流産にあると思う。
妻は仕事を本格的にはじめ、疲れた様子を見かねた夫と度々口論となる。
やがて、妻の仕事を手伝っていた使用人との間が噂されるようになる。
夫は調べていくうちに、妻の仕事を徐々に知っていく。
それは、製薬会社がアフリカ人たちを使い、新薬の実験をしていたのではないか、ということだった。
彼女がヒステリックに夫にあたるときは、いつも「スリービー」(=三匹の蜂)のマークがあったことに気付く。
妻が関わってきた人間たちと、残された資料をもとに、妻が追っていた巨大な裏の側面を、夫も目撃することになる。
ケニアで大規模に行われていた実験の新薬は、大きな欠陥があった。
しかし、それを再び研究しなおすには莫大な利益を失うことになる。
その欠陥によって流産した妻は、その物的証拠を手に入れようと東奔西走していたのだ。
夫はその事実に気付き、政府高官が関わっているという証拠をつかむ。
そして、妻と同じように、同じ場所で、雇われた賊に殺されてしまう。
この映画は、夫の妻への愛が満ちている。
そのため、仰々しくならずに、さらっと、そして痛烈に社会批判が込められている。
その意味で、見ていて辛い映画であり、日本人の僕でさえ、その多くの犠牲の上にいるのだろうと身に迫るものがある。
ラストで、真相が明らかになるころ、泣きそうになった。
同時に、この映画は僕たち先進国の人間に「泣くことを赦さない映画」なのだろうという気もする。
当事者でないと断言することはできない。
やはり間接的であれ、その利益をむさぼる一人であることは間違いない。
血塗られた実験によってできた薬を購入し、病気やけがを治す以上は。
その意味で、夫という個人的な動機で動いた人物を通して国際問題に触れたのは正解だったのだろう。
だが、この映画には見落とされている点がある。
それこそが、最大の批判の対象であるにもかかわらずだ。
それは、夫がどれだけ妻を愛していようと、彼は無関心だったということだ。
夫は妻の現実を知るたびに、「君を信じてやれなかった僕が悪いのだ」
「僕は君を疑ってしまった」と後悔する。
だが、彼の後悔するポイントは決定的にずれている。
彼が後悔するべきは、「なぜあのとき気付いてやれなかったのか」である。
あるいは「なぜいっしょに闘ってやらなかったのか」である。
彼は妻が死ぬ前までは、妻の行動に無関心で、悩みや仕事を共有することをしなかった。
妻が夫に迷惑がかからぬように、と配慮したためであっても、夫はそこに介入し、ともに闘うべきだったのだ。
それを、死んでから真相を追ったとしても、それは文字通り「後の祭り」だ。
彼は妻を愛しているといいながら、それを行動で示すのは、妻が死んでからという矛盾を抱えている。
それではもう遅いのだ。
疑うもなにも、彼は関心さえ持っていなかったではないか。
それで本当に彼女を愛していたと言えるのだろうか。
しかも、それがこの映画を見る人々全員に共通する、「課題」であることがいただけない。
つまり、どんな卑劣で偽善に満ちたことを先進国がしているか、日頃から目を向けようとしない人々が「感動した」と喜ぶのだ。
そこには大きなアイロニーが含まれている。
自分達の無自覚な罪に対して、「それはいけない」と感動するのだ。
何とも矛盾してるではないか。
夫が無関心であったように、僕たちもまた、そういう惨状には無関心だ。
だとすれば、夫に感情移入してしまうこと自体が、僕たちの罪そのものなのではないか、という気さえする。
もし、この映画にそのような視点を持たせてしまうと、一気に、感動できる余地を失う映画になっただろう。
自己嫌悪を感じるだけの、観客にとって自虐的な映画になっただろう。
その意味で、この外交官という人物造形は、ぎりぎりのところだったのかもしれない。
もし、そこまで考えてアイロニカルにこの夫を設定したとしたら、この監督は思慮深い人なのだろう。
この映画に感情移入できなかった人は、ある意味ではこの「夫」ではなかったということだ。
映画を観て泣きそうになった僕は、この夫のように世界に無関心だったのだ。
そんな僕に彼をを批判する資格はないのだ。
(2006/7/9執筆)
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