secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

バニラ・スカイ(V) 増補

2010-07-05 21:37:42 | 映画(は)
評価点:76点/2001年/アメリカ

監督:キャメロン・クロウ

主人公にとって、二人の女性は何を象徴しているのか。

出版社の大富豪の息子として生まれたデイビッド(トム・クルーズ)は、おもむろに自分の過去について話し始める。
セックスフレンドのジュリー(キャメロン・ディアス)とよろしくやる日々だった彼は、ある日一人の女性ソフィア(ペネロペ・クルス)と出会う。
恋に落ちたデイビッドは、はじめはゲーム感覚で彼女を落とそうと考えていたが、本気になってしまう。
だが、それがジュリーにばれてしまい、車の中で脅迫される。
興奮するジュリーはそのままデビッドを乗せたまま車で暴走し、橋桁から転落してしまう。
気づいたデイビッドは、顔を醜く損傷してしまう。

二度目の鑑賞となり、二度目の批評となる
最近結成された「M4」会でもう一度見直せといわれて、見ることにした。
日本ではあまりテレビ放映も少なく、知る人は知っているが、知らない人は全く知らないというサスペンス映画になってしまった。
スペイン映画のリメイクということもあり、トム・クルーズやペネロペ・クルスが出ていても、あまり話題にならなかったのかもしれない。

今見ても十分ハイセンスな映画だ。
僕は見直して、新たな発見があったり、それでも疑問点が残ったり。
見ていない人は、「SAW」なんていうミーハーな映画を見るくらいなら、こういう映画を見てほしい。
頭が必要な映画なので、眠いときや疲れているときに見るのはおすすめできない。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は語りの時間と語られる時間という二つの時間がトリックを生み出している。
また、それだけではなく、語る今はどこなのか、という空間的なトリックもあり、ややこしい映画である。
だが、整理すればそれほど奇怪な映画でもなく、「マルホランド・ドライブ」なんかに比べると屁でもない。
どちらかというとサスペンスとして楽しむというよりは「エターナル・サンシャイン」のように、映画のテーマを味わうべき映画だろう。

もう少し整理しよう。
時間軸は、精神科医(カート・ラッセル)に告白するデイビッドという語る時間がまずある。
なぜ精神科医なのか、中盤まではおぼろげにしかわからないが、どうやら殺人めいた事件を起こし、その精神鑑定のために分析されているらしい。
そして、デイビッドが語るもう一つの過去の時間が存在する。
語るという形式を明示している以上、その語る時間と語られる時間との交渉、あるいは間隙にテーマが生まれる。
だがもう一つの軸が、この世界そのものがどこか、という問題だ。
LE(エリー)と呼ばれる冷凍睡眠によるリアルな夢。
そのもう一つの世界と、現実世界との間隙に、さらにテーマが隠されている。
ややこしい話だが、その複雑さそのものが、デイビッドが味わった苦痛そのものであるとも言える。

事実だけを取り出して、時系列に並べてみよう。
①出版界の御曹司として生まれたデイビッドは何不自由のない暮らしと、たぐいまれなるセンス、そしてルックスで世界を思うがままに操ることができるセレブだった。
彼が声をかければ誰もがなびく、そういう男だった。
彼にはセックスフレンドがいた。
その女性がジュリーである。
ジュリーも誰もがうらやむほどの美人で、親友のブライアンも嫉妬を抱くほどだった。
問題は、デイビッドは彼女のことをセックスフレンドとしてしか認識していなかったが、ジュリーの方は彼を本気で愛していた。

②そんなある日、ブライアンがソフィアを連れてくる。
ソフィアに一目惚れしたデイビッドは、単にいつも通り「落とす」つもりで接近するが、彼女の内面に本気で惚れてしまう。
たった一晩デートをしただけだったが、彼はソフィアを生涯の相手だと確信する。
その朝、デイビッドがソフィアに惚れていたことを知ったジュリーは、彼に本心を聞き出そうとする。
暴走したジュリーはデイビッドとともに車ごと転落し、死んでしまう。

③九死に一生を得たデイビッドは生き残ったが、顔に重度の怪我を追い、腕にも障害が残った。
何とか医師たちに完治させる方法を考えさせたが、結局仮面をつけるということしか提案されない。
数ヶ月ぶりに外の世界に飛び出たデイビッドだったが、ソフィアとブライアンとの再会を素直に喜べない。

④彼は財界に復帰するも、ソフィアとの関係を築くことができずに、自暴自棄になる。
そのときLEの広告を見た彼は、死ぬことを決心し、冷凍保存されてリアルな夢を見続けることを望む。
そして150年ほど経った未来、彼はまだリアルな夢をさまよい続け、これまであったことを作り替えながら、夢の中を生きていた。
精神科医に告白する今は、実は夢の中であり、自分の都合の良いように書き換えた現実であることに気づく。
自問自答の末、結局目覚めることを望む。

要するに④以降はまるまる作り話であり、それ以前は一応、すべて現実だったと言えそうだ。
問題はそのトリックに気づくかどうかよりも、むしろなぜそんな屈折した現実を作り上げてしまったのかということの方だ。
それを解く手がかりは、二人の女性の象徴性にあると考える。

おもしろいのは、ジュリーのことをデイビッドは「ストーカー」と言い続けることだ。
だが、これは興味深い名付けだ。
これは隠喩となって、ジュリーを象徴する言葉になっている。
ざっくりいえば、ジュリーはデイビッドにとって「過去から自分を縛り付けるもの」であり、ソフィアは「過去の自分から解放する未来への解答」となっている。
ソフィアに出会うことで、デイビッドは自分にとっての幸せが、金や権力、名声や性欲ではないことに気づく。
愛という最大のエロスが、自分にとって最大のゴールであることに気づいてしまう。
ソフィアを抱かずにそれに気づいてしまうのだ。

だが、それ以降ジュリーに執拗につきまとわれるようになる。
それはかつて自分が愛した(愛でた)女であり、生活そのものだった。
彼女はどこまでも追ってくる。
それこそ、冷凍睡眠されても、彼女は執拗に彼を追い詰める。
彼女を振り切れないのは、彼が過去の自分の生き方に拘泥しているからだ。
もし、すべてをかなぐり捨ててソフィアの元へいけば、きっとソフィアは受けいれてくれただろう。
だが、彼にはそれができなかった。
なぜなら、やはり金も名声も、権力も性欲も、すべて彼は手にしているはずの男だったからだ。
事故によってそれを失ってしまうことは、耐え難い苦痛だったのだ。
そうでなければ冷凍睡眠なんていう消極的な死を選ぶはずがない。

夢から覚めることができないのも、同じ理由だ。
自分を取り巻くすべてを失った世界に、デイビッドは怖くて戻れない。
金も人間も、もちろん権力もルックスも失ってしまった彼は、苦しんでいてもリアルな夢に溺れている方がよほど楽だ。
現実から離れていく過程で、ソフィアとジュリーが混同してしまうのも、過去と未来どちらを選ぶべきなのか、見えなくなっているからに他ならない。

だが、夢の中で皆が彼に問いかける。
何が幸せなのか、と。
彼はソフィアに出会った時点で気づいていたはずだった。
どんなに金持ちでも、どんなに権力を持っていても、どんなに美人な女性を抱いても、大切なのはきらめくほどの内面であり、それをもった女性の中に見いだすエロスなのだということを。
だから彼はそれまで怖がっていた高所恐怖症を克服して、新たな自分を覚醒させる。
目覚めた後にあるのは、残酷な現実しかない。
誰も自分のことを知らない、一銭も残っていない。
怪我した顔を直すすべもない。
けれども彼は目覚める。
生のままで生きるということが、酸っぱさを知ることでしか甘さが分からないということが、彼には分かったから。
ここにこの映画のテーマがある。

だが、と僕は反論したくなる。
どうしても解せないのが、夢と現実の境界線だ。
なぜあの路上で寝ていたシーンから「リアルな夢」だと言えるのだろうか。
思わせぶりで引っ張っていたからこそ、余計に肩すかしを食らった感じがぬぐえない。
サスペンテッドな状態に観客を追い込んでおきながら、絶対に読めない勝負を仕掛けてくるのは、アンフェアだ。
なるほどそういう伏線があったのか、という感覚はなく、どちからというと徒労感を覚えさせる。

それにしてもペネロペ・クルスは「NINE」の時のエロさよりも、こちらのほうがやはりすごい。
どんだけ顔ちっちゃいねん! と言いたくなった。
もう、なんだか全部もっていっちゃった感がありますね。

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