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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ブラック・ウィドウ

2021-08-07 18:33:56 | 映画(は)
評価点:77点/2021年/アメリカ/133分

監督:ケイト・ショートランド

ヨハンソンの覚悟、ナターシャの覚悟。

1995年、アメリカのオハイオでスパイ活動を続けていたアレクセイは、娘役のナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)らとともに国外脱出した。
そこにはシールドから奪った研究データがあった。
時は流れて「シビル・ウォー」の直後、ナターシャはソコヴィア協定違反としてアメリカから追われていた。
そんな彼女の元にかつてアメリカで一緒に暮らしていたエレーナ(フローレンス・ビュー)からメッセージが送れてきた。
その便りを元に彼女の元に訪れたナターシャは、かつて自分を育てたスパイ養成施設のレッドルームがまだ存在しており暗躍しているという事実を教えられる。

コロナの影響で公開が延び延びになっていた作品で、ディスニーがサブスクでも同時公開をしてしまったことで興行収入に大きな影響を与えてしまった、ということでも話題になった作品だ。
時間軸としては「シビル・ウォー」の直後に当たり、当然「インフィニティー」よりも前の話になる。

このシリーズをある程度追っている人しか見ないだろうという作品なので、下のネタバレにはマーベル作品のネタバレを前提として書いている。
もちろん、話を単体として楽しむことはできる。
むしろ、ほとんどアベンジャーズのキャラクターは出てこないので、見ていなくても問題はない。
ちょっとした台詞などが「こういう繋がり方をするのか」という面白さはあるものの、単独作品として完結している。

興行収入のダウンについて主演のスカーレット・ヨハンソンはディズニーを訴訟している。(2021.8現在)
どちらに転ぶのか分からないが、作品を見ればヨハンソンにとってこの映画がいかに大事だったのかよくわかるつくりになっている。

私は映画館で見たが、見て良かったと思う。
もちろんスカーレット・ヨハンソンが大好きだから、ということもあるが、彼女はそれなりの覚悟を持って映画を作ったということがわかるはずだ。


▼以下はネタバレあり▼

ブラック・ウィドウがどのように生まれ、そして「インフィニティ・ウォー」にどう参加していくか、という物語だ。
他のヒーローとは違って、運動能力に優れているとは言え、生身の人間としての彼女は、いかにして作られたのか。
この映画は、その点にスポットが当てられている。
また、当然、「エンドゲーム」で選択した「死」の裏側にある彼女の覚悟がどのようなものだったのかを描き出している。

この映画のテーマは、ありきたりだが、「過去との決別」であり、「ナターシャの贖罪」である。
短い上映時間の中で、アクションを入れながら、彼女を立体的に描き出すことに成功している。
「アベンジャーズ」シリーズの前半は、何でもかんでも入れ込んだ闇鍋みたいな話だったが、後半は非常に関連性を感じるし、コンセプトをしっかりとしながら単独としても完結している、という作品になっている。
その流れをこの映画でもしっかりと踏襲されている。

レッドルームと呼ばれる女性スパイ養成所。
そこで育てられたナターシャは、短い間アメリカのオハイオで偽りの家族をもっていた。
それが父親アレクセイ、母親メリーナ、妹のエレーナである。
彼らはシールドの研究成果を盗み出し、キューバに戻ってくる。
家族はバラバラになり、それぞれの役割を果たすように求められる。
姉妹二人はレッドルームに入り、スパイとして鍛えられる。
生存率の低い、厳しい環境である。

妹エレーナは化学的な方法によって洗脳され、自我が支配されてしまっていた。
その解毒剤をターゲットからかけられた彼女は、ようやく自我を取り戻す。
エレーナにあるのは、自分を助けてくれた恩人を殺してしまったという罪悪感だ。

同じように、ナターシャはレッドルームを崩壊させることがアベンジャーズに入るための条件だった。
だからレッドルームの黒幕、ドレイコフを娘もろとも爆破したはずだった。
彼女もまたほとんど無実だった娘を殺してしまったことを悔いていた。
その罪悪感と対峙することが、この映画のテーマになっている。

妹を救えなかったナターシャ。
無関係の人間を巻き添えにしたナターシャ。
そして、今もなおレッドルームに苦しめられていることを知らずに生きてきたナターシャ。
だから彼女はアベンジャーズに頼らずに、一人でレッドルームを瓦解させることを画策するのだ。

このあたりは非常に丁寧に、きちんと描かれている。
彼女が大事にしたかった家族がどのようなものなのか、誰も巻き添えにしないで自分の責任において事を完結させることの重要性を彼女は知る。
その流れが当然、仲間を救うためには自分の命を投げ出すことを厭わない態度が醸造されていくわけだ。
その象徴的なシーンが、あの鼻を自ら折る、というところに表れている。
彼女は絶世の美女と言われるような女性なのだ。
たとえ役の中でも自ら高い鼻をへし折るなんていうのは、覚悟の表れに他ならない。

ナターシャとしての矜持、覚悟と、この役に対する並々ならぬ思い入れがあるスカーレット・ヨハンソンの覚悟も見え隠れする。
コロナという不幸な要素が、興行収入と訴訟という面で損なうことになったが、作品を大切にしたかったという思いは体現されているように思う。

ただ、両親の登場が唐突すぎる印象は否めない。
父親は全くそのそぶりを見せずに豹変するし、母親のほうもなぜ急に娘二人にほだされたのか飛躍がある。
この二人が笑いを誘う役回りだけに、もう少し裏側にきちんとした物語を描いて欲しかった気はする。
(原作にあるのかどうかはしらない。あったとしても映画でもそこに触れるべきだった)

ドレイコフ(レイ・ウィンストン)の鬼畜ッぷりはよい味を出している。

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